『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

幼い子どもへの文学

 戦後の四大傑作

 小学校低学年から中学年にふさわしい作品で、第二次大戦後の傑作といえば、一九四六年に創作され、五六年と六八年に改作された『ムーミン谷の彗星』(トーベ・ヤンソン)をはじめとするムーミン・シリーズ、一九五七年にドイツで発刊された『小さい魔女』(オトフリート・プロイスラー)、ノルウェーのほこる『小さなスプーンおばさん』(一九五七、プリョイセン)、イギリスの子どもたちに大歓迎された『クマのパディントン』(一九五八、マイケル・ボンド)などがまず念頭に浮かんでくる。
 これらの諸作には、いくつかのはっきりした共通点があり、そしてそれは幼年向きの文学の基本を形成している。その第一はアイディアに見られる非凡なオリジナリティである。『ムーミン谷の彗星』のムーミントロールは、さし絵を見るかぎり豚と河豚のあいのこのような姿をしている。彼とその一家は原始そのままの自然を感じさせるムーミン谷に住んでいる。だから、北欧伝説の魔物トロールがついていることと思い合わせ、伝承文学からの思いつきが想像されるが、作者は友人から発想したまったくの独創だと説明している。 魔女の魔性がうすめられてユーモラスな悪役になったのは、二〇世紀になってであろうが、プロイスラーは童女の無邪気さと素朴さを魔力と同居させた小さい魔女を思いつき、現代的な発想と昔話的な自然さを結びつけた。「スプーンおばさん」の、性質も姿もそのままに突然小さくなり、また突然もとにもどる不思議さは、何か持病の神経痛とでもいった日常性すら感じさせる。そして、それは、東京でいえば上野駅のようなロンドンのパティントン駅で、バスケットにすわっている、ペルーから来た熊の出現からはじまる『クマのパディントン』にも通じる自然さと意外さでもある。
 このような、不思議でしかも自然なキャラクターは、なにげなく思いつかれたようでいて、じつは長い年月の生活の中から徐々に形づくられている。読者をひきつける秘密は、やはり年月の重みである。そして、これらのキャラクターは、その存在と行動によって日常次元からはなれた別の空間へ読者をいざなってくれる。それは、幼い読者の無秩序で非論理的で、強い欲望にうらうちされた空想が正当な市民権を与えられる自由な世界である。そこに幼年向きの文学の大きな魅力がある。
 さらに、ムーミンや小さい魔女にはもう一つの共通した特性が見られる。読者に一種の優越感をもたせる幼さである。ちいさな魔女はせっせと魔法の勉強をするのだが、
  「雨をふらせるはずなんだよ。」と、カラスは、しかるみたいになきたてました。「それなのに、あんたの魔法はなんだろう? さいしょには白ネズミをふらしてさ、おつぎはカエル、三どめはもみの実ときた! いくらなんでも、こんどこそ、ほんとの雨をふらせられるかどうか、まったく気が気じゃないなあ!」(『小さい魔女』大塚有  三訳、学習研究社版、七頁)。
 といったふうに、むずかしい算数にとまどう子どもそっくりな一面をもっている。クマのパディントンは、食堂で菓子パンを食べればジャムとクリームでべたべたになり、おふろにいれれば、ふろ場中を水びたしにする。いたずらな幼児そのままである。読者は、私ならもっとうまくやるのにと思い、登場人物に愛らしさを感じ、彼らの超自然力に感嘆し、物語の世界に没入してしまう。子どもっぽい弱点とすばらしい能力――すぐれた幼年向き文学の主人公たちは、たいていその二つをもっている。
 だが、彼らは、それだけの存在ではない。彗星が地球に迫り海が干上がり熱風が吹いて万物が死滅しようとしているとき、切手集めに余念のないヘムレンという人物は、切手の運命にしか関心がないし、彗星が来たら洞窟へかくれようという提案に、いつも学問をひけらかすスノークという男は、それは会議できめようと主張する。『ムーミン谷の彗星』には極限状況における人間模様がおそろしいほどの真実みをもってえがかれている。
 『小さなスプーンおばさん』は、一見、ふつうの大きさから小さくちぢんだ場合の困難がゆかいにつづられているだけだが、その背後には、立場の変化による強弱の逆転やものを見る目のちがいがある。パディントンの無邪気な騒動や小さい魔女のよい行ないには人間の好奇心や本能的正義感が見られる。つまり、こうした人物たちは、もっとも単純明快に人間をあらわしているということができる。
 以上四つの作品は、改めていうまでもなく第二次大戦後の作品である。だが、指摘した二、三の特徴は特に戦後のものではない。たとえば一九二六年に出版されたイギリスの『クマのプーさん』(A・A・ミルン)は、子ども部屋のぬいぐるみの動物たちと幼児を登場人物にした空想の話だが、主人公のクマのプーさんは善意あふれる作為のない人物、ウサギは根はお人好しな自己顕示欲の強い人物、コブタじゃ臆病な小心者といったように、登場人物が人間のタイプにまで昇華しえている。さらにさかのぼって一八八三年イタリアに生まれた『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)を読んでも、怠けては反省し、約束を破っては後悔するピノッキオには子どもというより人間そのものがしっかりと把握されている。つまり、ヨーロッパ諸国では、幼年向き文学に時代による切れめがなく、特性が継承され続けているのである。もちろん、ここにとりあげた作品群は、何十年に一つ、何百何千の中から生まれるような傑作であり、背後には、それほど独創味のない空想や、子どもの日常のエピソードを物語化した平凡な作品の山があることはいうまでもない。しかし、頂上を形成する部分が、幼い子どもを楽しませると同時に、大人の文学と肩をならべる人間洞察の特質をもっている事実は、記憶しておかなくてはならない。 
テキストファイル化安田夏菜