『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)
最近の作品――その問題点と展望
長くておもしろい幼年向きの文学が生まれて十有余年、その数はますます増えている。もちろん、それは児童文学の重要さの認識の深まりと、経済的なゆとりからくる購買層の増大に遠因があるが、より直接的にはマス・メディア特にテレビ文化の不足を補い、あるいはそれに反発しての活字文化の意味とそれが伝達できる内容の評価によるところが多い。また、受験戦争を頂点とする教育のゆがみの中で、読書可能な年令がせいぜい四年までになっていること、そして教育への関心が読書活動にも向けられていることなども、幼年から小学校中学年までの本への要求を高めている。
最近作をいくつか読むと、明瞭な進歩と明瞭な停滞が目につく。進歩は、政治的スローガンあるいは進歩派的キャッチフレーズに似たテーマの強引な添加の大幅な後退である。たとえば長崎源之助の『人魚がくれた桜貝』を読んだとき、彼の作品を系統的に読んでいる大人と子どもは、その変化にいささかの驚きを感じるにちがいない。長崎の作風は一般に地味で生活的であり、テーマは平凡な生活の中に大人と子どもを通じて人生と暮しを考えるものが主であった。だから、幼年文学も『おねえちゃんはしゃしょうさん』(一九六九)のように、労働のつらさと喜びと大切さをえがくようなものが中心であった。それが『東京からきた女の子』(一九七二)あたりから、話の中心がストーリーのおもしろさの方にうつり、『人魚がくれた桜貝』では、さらにその傾向が強まっている。主要人物は、飛行機事故で夫を失った美人の未亡人のむすめであり、このむすめは赤いセパレーツの水着を着て長い髪をなびかせながら、九州の海で泳ぐのである。このむすめと地元の子どもたちの一夏の遊び、ちょっとした事故による誤解、海での冒険などがテンポのはやい文体で展開される。交通事故による子どもの死、東京と地方の対比など、確かに現在への関心・批判は底を流れてはいる。しかし、主題は子どもたちの夏のくらしと冒険にある。
竹崎有斐も『だぶだぶさぶちゃん』『でんちゃんのホロ馬車』を一九七四年に出版している。前者はおかあさん手作りのだぶだぶ服をいつも着ている一年生のさぶちゃんが、野球の補欠選手になり、だぶだぶでないユニフォームを手に入れるまでのエピソードを、後者は転校してきた可愛い女の子をトラックのドライブにさそおうと頭をひねるでんちゃんの学校と家庭での姿をユーモラスに追っている。そして、写実的な幼年向き、小学校中学年向きの作品にしばしば顔を出した過密、過疎、公害などのエピソードや訴えがまるでない。大人が切実に受け止めた政治的・社会的現実をダイレクトに幼・中級の子どもに訴える戦後的教訓主義がようやく終わったといえよう。
この傾向は、一見奇異に思われるかもしれないが、小学校高学年以上の作品に、現実の重みを増したものが多くなったことと同じ根から生まれている。つまり、幼児や小学校低学年生の認識する政治・経済・社会的現実と、大人の認識するそれらとの距離を、作家たちが改めてみとめはじめたのである。子どもの生活の存在が実感されるようになったともいえる。長崎と竹崎は、ともに明るい行動性を追っているが、子どもの生活の認識の深まりがさらに進めば、幼ない子どもたちの中に直接入りこむきびしい出来事も、子どもの知能と感性を無視しない形でえがかれることになると思う。
幼年向きの文学の大きな特色は、空想性であって写実的な物語はどちらかといえば傍流になる。だが、学校と家庭と友人の間で、ようやく社会への入り口に立つ子どもたちに、生活の中での生き方の基本をえがいてみせることの重要さは、空想の機能にいささかも劣るものではない。長崎や竹崎が長い文学的経歴の上で到達した新教訓主義の殻を破った文学は、それぞれに彼らの経験から得た生活上のモラル、生き方についての提言を含んではいる。ただ、それは、まだ多くの大人と子どもに人生の真実と感じられるものにまで凝縮されてはいない。幼年向きの文学のリアリスティックな流れが、おそらくこれから完成していくのは、幼ない子どもたちの生活の事実に即した物語の中から、人間全体に通じる、人間のありのままの姿、幸福な人生に必要な人と人とのつながり、心のあり方などを模索することであるように思う。
脱教訓は空想的な幼年文学においてさらにいちじるしい。だが、空想性の不足というか、想像力の小柄さというか、全体に小ぶりである点が大きな問題として残る。空想性の強い幼年向きの文学は、大人のあこがれと子どもの内面の世界の接点に成り立っている。その意味で、現実的な生活描写の中にふしぎな出来事がちらりとはいりこむエヴリディ・マジックはこの分野では必然的なものかもしれない。佐藤さとると岡野薫子の作品を見よう。
佐藤さとるの最近作に『ぼくのおばけ』(一九七四)がある。庭の木にかけた巣箱にひとりのおばけが住んでいる話である。おばけは人が驚いてくれないとしぼんでごみのようになってしまう。このおばけも、巣箱の中で小さくなって生きている。そんなある日、カオルが紙飛行機を飛ばすと、偶然、巣箱の穴に飛行機が突きささり、それがきっかけとなってカオルとタケシが巣箱のおばけを知るという話になっている。佐藤は創作の動機について、通行人が道のマッチ箱をけとばしたところが、そのマッチ箱がみぞのふちにたってぴたりと停ったというエピソードを紹介している。偶然におこる驚くべきこと――それをなんでもないこととして見すごす人生と、それに驚きを感じる人生のちがいをこの作品は語っている。まとまりのよい佳品である。だが、多くの人は技神に入ったおばあさんのチョウチョウ模様のあみものが空に浮かぶので、それで飛行機をつくったという物語『おばあさんのひこうき』(一九六五)を、佐藤の幼年文学としては、より高く評価すると思う。『おばあさんのひこうき』には入念に練り上げたストーリーがあり、凝縮されたテーマがあった。『ぼくのおばけ』は、佐藤らしい卓抜した着想がさらに興味ある物語に展開しないで終わっていて、どこかに物足りなさを残してしまう。そのため、すぐれた着想と、着想そのものが含む大きな意味がふくらみきれずに終わっている。
それは岡野の『さよならムジナちゃん』(一九七四)についてもいえる。いなかの親戚にひとりでとまった小さな女の子が、トウモロコシを荒らすというアナグマの家に招待される話である。アナグマの巣の発見と、それを秘密にしておきたい幼児の愛情のはざまから生まれた空想で、背後には人間のエゴについてと自然についての問題が大きくながれているのだが、背後にあるその問題は、それこそ主人公のミユキがアナグマの家の入り口をのぞく程度に、ちらりとのぞけるだけである。だが同じ岡野が一九七〇年に発表した短編連作『あめの日のどん』には、彼女の思想そのものが強く感じられた。私がもっとも推賞するのは、この雨の日にしか遊びにこない猫のどんが、えみちゃんと学校ごっこをする一編である。猫たちが、にぼしのたし算よりひき算を好む着想には、単なるユーモア以上に、登場人物の本質ひいては人間の本質に触れた真実がある。
『おばあさんのひこうき』『あめの日のどん』と『ぼくのおばけ』『さよならムジナちゃん』の比較で気づくことは、前二作に空想を含んだ部分の物語の展開があり、後の二作には現実を空想の衝突しかないことである。現在の幼年向き文学の多くがどこかに類似性を感じさせるのは、高学年向きのファンタジーのいわゆるエヴリディ・マジックの手法に頼りすぎているからではないかと思う。
その点、ストーリーのしっかりした『かちかち山のすぐそばで』(筒井敬介、一九七二)、『のんびりこぶたとせかせかうさぎ』(小沢正、一九七四)などは興味ある作品として読むことができる。かちかち山後日物語の一種として創作された前者の、オオカミが食欲につられて殿様をめざす姿、そして後者の、たべものの夢ばかり見るぶたを批判し、高尚な夢を見ろと薦めるうさぎが、やはりたべものの夢を見ていたという話には、人間の本質への肉薄がはっきりとある。そして筒井も小沢も、幼児や小学校低学年の読者に対して現在の自己をそのまま表現している。
ただ、この二作は寓意の文学である。筒井のオオカミも、小沢のこぶたもうさぎも、あらかじめある性質なり意味なりを背負って登場している。それだけに理解が容易で幼年向きにふさわしいが、寓意の文学は本来一般文学の一分野であって必ずしも幼年の読者だけのものではない。そして、テーマの明瞭さ、筋、人物等の明快さが全体の幅を狭くする性質があることは否めない。だから、『小さい魔女』は寓意の強さのために『小さなスプーンおばさん』より文学として小さく感じられる。
幼児や小学校低学年の空想は、素朴な欲望にもとづくものが多い。それは、現実把握の方法としてとか、思想をこめたイメージを生み出せる資質とかいった高次元の空想のもととなる原始的な本能的なものであり、それだけに人間の内にある本質的なものの正直な表現でありえている。だから子どもら特有の空想を展開させることは、その過程でさまざまな欲望や希望、あこがれ、同情、嫉妬などをおのずから実現することになる。
その空想は必ずしも子ども特有のものでなくてもよい。大人がこの分野の子どもに向かって空想を展開する場合は、空想を借りた直接的な主張、寓意による自己の表現などいろいろある。だから、休息などを含んだ精神の解放や、ユーモア、ウイット、ナンセンスなどの笑いに新鮮な喜びを感じて創作する人たちもいる。類型的な空想による大人の常識的問題意識の押しつけは、空想とはいいかねるが、たくみなたとえによる簡明な自己の思想の表現、おかしさがもつ健康な破壊力、精神の自由な解放がもたらす正直な内面の表出などは、子どもの空想と同様なよさをもつことができる。
本能にもとづく自己の自由な表出は、ときとして、人間の幸福なくらしに害をもたらすことがある。大人は、長い経験と深い知識によって、人間の健康な成長を阻害する欲望、考え、行動を子どもよりは上手に識別できるはずである。不健康な部分を排除した自由な空想が生む幼年向きの作品――これが現在もっとも必要であろう。
一般に、児童文学は理想を追求し、人生の積極面に目を向け、生きる意義を見出していく、明るくしかも楽しい文学だと考えられている。しかし、西欧的拡大への疑問、現代文明の危機の中で価値基準の転換がきびしく模索される現在、高学年向きの作品が、かつての楽天性をもつことはほとんどありえない。しかし、生命力は獲得、拡大、創造等を求めてやまない。幼年向きの、自由な空想は、人間の積極的な力の表現と確認を可能にする。そして、それが、現実と理想のはざまで新しい生き方をさぐる高学年の文学に大きくプラスしていくのではないかと思う。私は、幼年向きの文学に、これからの児童文学のもっとも大きな可能性があると考えるのだが、現状はなにかひまつぶし、あそびの文学に落ちているように見える。
テキストファイル化伊藤美穂子