『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)
民話絵本の登場
同時期に、ポプラ社は「むかしむかしえほん」の名で、日本民話の絵本を出版しはじめた。その中で、新発掘の民話を素材にした『やまんばのにしき』(松谷みよ子文、瀬川康男絵、一九六七)『ちからたろう』(今江祥智文、田島征三絵、一九六七)などは特に読まれ、全体としても良質であったため、以後今日まで続く民話風絵本及び民話絵本ブームをひきおこす力となった。
民話絵本の流行には、さまざまな原因があろう。大きく見れば、一九四五年の敗戦以来生活のすみずみに至るまでアメリカ文化・文明がはいりこみ、アメリカとの比較においてものを考える傾向にあった風潮へのリアクションとしての日本回帰があると思う。それは、戦後の日本の動きがおこした内外からの日本論とも呼応して、日本及び日本人の追求に向かわせる力となった。またある人びとは、戦後文学の動きの中で、原点に立ちかえって民族の特質を知り、そこから新しい文学を生みだそうとする動きと把握する。
そうしたさまざまな要因に、日本的な絵の再認識を加えなければ、絵本での民話ブームは説明できないだろう。戦前、たとえば金太郎、桃太郎といった主人公の絵本も日本画の画家たちによってえがかれることが多かったが、それは、ある一場面がたん念にえがかれて、そこにすこし文字の説明がある、いわば展覧会の絵の連続のようなものであった。日本画の線や色彩を保ちながら物語りをする絵の実験は、おそらく「こどものとも」の『きつねのよめいり』(松谷みよ子文、瀬川康男絵、一九六〇)『かさじぞう』(瀬田貞ニ文、赤羽末吉絵、一九六一)あたりからはじめられ、一九六七年頃で一応の閑静に近づいていた。私たちには皮膚のように親しい民族の色と形が、現在の感覚にマッチし、さらに美術的にも高度な質をそなえてあらわれたわけで、この努力なしに民話絵本の隆盛はありえなかったと思う。
『八郎』以後、ひじょうに多くの作家が、新しい日本の絵とペアを組んで、民話のテーマを浮き彫りにした絵本や、民話的人物と事件と場所を設定した創作を続けてきた。それは一つの進歩である。だが、現在、小学校低・中学年向きの作品がようやく皮相な現状批判の泥沼を脱して、真の意味で創造的で生産的である豊かな想像力と笑いと抒情性を獲得しつつあるのにくらべ、相変わらず自己犠牲の美学がうたわれる絵物語が続いているのは、「八郎」的絵本の堕落であり、絵本の隆盛が一面子どもではなく大人によって支えられていることも如実に示している。
これからの絵本
日本の絵本・絵物語が現在に至るまで一九三〇年代的な物語性と本質的な楽天性を保ちつづけているのはなぜだろうか。それは、たとえば服装の流行が数年欧米よりおくれてひろがる現象のように、単にヨーロッパ・アメリカの思潮に影響される時間の問題なのか、あるいはもっと別の理由があるのか。
たしかに、日本にはヨーロッパ・アメリカの動きに不必要に敏感な体質があり、盲目的に追求しようとする部分がある。その観点から見れば現在の絵本状況はひじょうに鈍感であるともいえるし、事実、子どもの日常生活のエピソードや空想にヒントを得た平凡なストーリーに、平凡な絵のついた作品を読めば、鈍感さをつくづく感じることはある。
しかし、そうした鈍感なものをも含めて、日本の絵本は、ある健康さとエネルギーを保持しているのではないかと、私は考えている。イギリス人ジェイムズ・カーカップが指摘するように、日本でも、不正や、当然受けるべきものが受けられない状態へのあきらめは徐々にひろがりつつあっても、まだ大部分の人は選挙、大衆行動、自己のもつ倫理、道徳感の表現などによって世の中はよりよく変えられることを信じているし、その努力をする力をもっている。いわば、戦後民主主義の理想への強い信頼が生きている。
また、戦後日本の経済的膨張は、獲得と生産によるものであったが、日本人の生き方の理想には努力と向上のパターンがそのまま生きている。西欧的エクスパンションのパターンと同じである。児童文学、それも戦後の児童文学にあって、この生き方は、多くの場合、政治・社会の改良への理想に向けられていた。しかし、根本において、努力と向上と無限の未来を信じる点では、一九世紀的な発展の思想と変りはない。日本は新興国ではない。それでいて、ひじょうにたくましい民族的エネルギーを保持している。
やや大げさになるが、現在の絵本の支えには、以上のようなものがあると思う。チェコスロバキアでひらかれる世界絵本原画展で、一九六七年に瀬川康男が、一九六九年に田島征三が、一九七三年には梶山俊夫がそれぞれ受賞しているのは、日本の伝統が現代化された色彩や構図の新鮮さとともに、はつらつとした健康さが評価されたこともまちがいないと思う。
しかし、この健康さの基盤にある発展の可能性、未来への楽天性は、すでに人口問題、食糧問題、資源問題その他でまさつをおこしつつある。他国の資源の何十パーセントかを消費して発展していくといったことは、今後ゆるされなくなるだろう。協調、公平な分配、節約といった具体的な問題があらわれるときの、生き方についての根本的な考えが、このエネルギッシュな国でどのような結果をもたらしていくか。そして、それが成長する人たちの文学である子どもの文学にどう反映していくだろうか。人類が生きのびる可能性の模索に向かってエネルギーが発揮されることで、健康さが維持されていくことがのぞましいが、すくなくとも、今までの拡大を基盤にした健康さはいつまでも続くものではない。それはいやおうなく変容を余儀なくされるにちがいない。
そして、行きすぎは必ず是正される。日本でも訳が出て好評なアーノルド・ローベルの『ふたりはなかよし』(一九七一)『ふたりはいっしょ』(一九七ニ)は二匹のカエルの絵物語であるが、物語と絵がたくみにとけあった本来の絵本にもどっている。絵だけが主として物語る絵本に対する一つのリアクションともいえる。だが、内容は、まいた種に歌をうたってやったり、本を読んでやったりするカエル、ビスケットをたべすぎないように苦労するカエルなど、ほほえましく、やさしい人の心の世界がカエルに託してえがかれていて、心なごやかな作品である。そして、三〇年代のあのダイナミックな世界は消えている。
アメリカは、すでにのべたように、国の発展とともにヨーロッパに範をとりつつ、自らに必要な児童文学を手作りしてきた国であるためか、児童文学のスタンダードをあまり動かさない。絵本についても、おそらく三〇年代から五〇年代にかけて確立した絵本理論から、あまりはみ出さない。だから、六〇年代から七〇年代にかけての絵本の傾向を一過性のものとして見ているところがあると思う。
私たちが考えなくてはならないのは、そのアメリカでも、アメリカ的拡大の世界がゆらいだことである。絵本が、しっかりした物語を通じて、凝縮されたわかりやすいテーマを伝え、絵とともに一つの宇宙をつくるものであるとしても、テーマと、その根底にある生き方の理念を、現在と未来の日本と世界を見る立場から考えるべきときにきているように思う。
そして、もう一つ、絵がひろげた可能性を単純に拒否せず、評価すべきところを大胆に吸収しなくては、絵本の前進はない。現在は、もっぱら、三〇年代的な絵本を基準として、絵に比重がかかる絵本を警戒し評価を避けている傾きが強い。
新しいものにすぐとびつくことも危ないが、臆病すぎることはやめねばならない。今わたしたちのまわりには、臆病すぎる絵本が氾濫している。
テキストファイル化高橋裕子