『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

第五章 児童文学とはなにか

なにが変わったか

空想の質の変化、児童像の変遷、幼年向き文学と絵本の変容を今までのべてきて、おそらく多くの大人たちがもつにちがいない疑問を考えてみた。児童文学とは、それほど厄介なものか、そして、こうした変化をへてはつまらないものになるのではないか?
いっけん子どもの文学に暗さがにじみ出ているのはたしかである。私は翻訳者としていくつかのイギリスの作品を訳してきた。たとえば岩田欣三氏と共訳したアーサー・ランサムの十二冊がある。これは、金銭問題や日常生活的な悩みから解放された子どもたちの夏休みの遊びを主にあつかったものだったから、当然、楽しくのびのびしていた。それから十年ほどして訳したジョン・ロウ・タウンゼンドの『アーノルドのはげしい夏』は、自分はだれかという自己確認の問題を中心にした一六歳の若者の一夏を追ったものだが、結婚できる相手は唯ひとり、将来の生活もすでにきまっていて、ランサム流の楽しさなど影をひそめていた。日本のものについても、すでにのべた『赤毛のポチ』と『なまけんぼの神さま』をくらべただけで同様のことがいえる。だが、楽しさを別にして、ランサムとタウンゼンド、『赤毛のポチ』と『なまけんぼの神さま』のどちらが子どもに対して正直なのだろう。
ランサムの子どもたちは富裕な家庭に育ち、将来エリートになることが予想されていた。タウンゼンドのえがいたアーノルドは、たぶん一生をよろず屋の店主で終わることが運命づけられていた。『赤毛のポチ』のカツコは、貧困の中の孤独から理解と連帯への道がひらけたが、『なまけんぼの神さま』のともえやふくこは、連帯すら裏切られている。
一九五〇年代までの児童文学にリアリズムがあったかというのが私の疑問である。イギリスやアメリカの場合ははっきりしている。ほとんどの場合、極貧層を切りすてていた。戦後日本の場合も、貧困問題への果敢なアタックはあっても、ともえやふくこのケースはやはり切りすてられていた。子どもについて、その生活、心理を追究する場合、はじめからある部分を省いているわけである。日本の児童文学にあらわれたリアリスティックな作品は、強烈な倫理的信念につらぬかれた現実把握を方法とするもの、あるいは政治的信念を基礎にしたそれに分類できるが、把握すべき現実の諸現象に不足があるため、センチメンタルな訴えに終わることが多かった。
大人が子どもに対して、人間のすべてを語ろうとしなかった背後には、大人の側に、人間の未来に対する確信があったからである。知恵の所産である科学が生む生活の豊かさと便利さ、それよりはおくればせながら人命と人権の尊重の拡大など、ヨーロッパ思想、文明がひらく未来が、子どもにまつわる不幸のすべてを解消できる自信にみちていた。しかし、その未来観がくずれつつあることは、空想の分野でのエヴリディ・マジックの衰退、リアリスティックな作品における児童像の変化と絵本の基礎にあった世界の正当性のゆらぎなどでもすでにのべてきた。
今問われているのは、子どもの文学は明るく楽しいものでなくてはならないかどうかではない。従来の発展と向上は、明るさと楽しさをやがて否定するに至るから、人間の生存を守ることを前提に、人間の生き方そのものをどう変えるか、つまり、極端に短絡させれば、新しく子どもの文学に明るさと楽しさをもたらすにはどうすべきかなのである。
『なまけんぼの神さま』のともえは自堕落さから立ちなおろうとする。もちろん、ともえの前途が明るくひらける保証はない。だが、すくなくとも、この作品は『赤毛のポチ』も早船ちよの『キューポラのある街』もすくいとらなかった子どもを読者に知らせ、その子どもの挫折と立ちなおりのさまをえがいている。タウンゼンドのアーノルドは、夏休みに遊びにくる子どもたちに物を売る側である。彼は自由に水泳すらできないし、青雲の志に燃えて可能性をためすこともできない。だが、この世にアーノルドが存在することを知らせることは、児童文学の世界に限っていえば、社会悪を弾劾する以上に勇敢で人道的なことである。子どもの心身にまつわる事実――それがいっけん暗くても――の確認は、文化と文明の是正への努力の一つであり、それをあえてするかなたに、今後の可能性がひらかれてくる。

「児童文学」とはなにか――大人と子どものはざまから

 児童文学とは何かを定義づけることは、文学とは何か、リアリズムとは何かを定義づけると同様にむずかしい。おそらく万人をうなづかせる定義など、ないのではないかと思う。そこで、参考に戦後この問題について行なわれた発言のいくつかを列記してみよう。
 もっとも要領よくまとめられ、以後大きな影響力をもったのは、『文学教育基礎講座』(一九五七、明治図書)第一巻の国分一太郎の定義である。彼は、児童文学の特質を、芸術性、興味性、教育性、明快性(単純性)、生活性の五つに分類し「児童文学とは、おとなが、子どもに読ませることを強く意識して創造した文学のすべてをいう」とのべた。これは、べつの言葉に置きかえれば、子どもを主な読者と考えて創作された文学の意であり、その点にだれも異論の余地はない上、簡明に日本児童文学の性質をまとめていたので、かなりな程度、その後の定義への試みに影響を与えている。たとえば、今私がのべているのとおなじように、数人の定義をのべつつ自らの定義を「児童文学とは、その作品の文学的価値をとおし、子どもを健全な社会的人間に導いて行くことを窮極の目的として、成人が、読者対象とする子どもの発達段階にふさわしく創造してあたえる文学である」(『児童文学概論』上笙一郎著、東京堂出版、一九七〇)とした上笙一郎の定義も、国分のこだまということができよう。というより、定義というものは、ある部分きまりきったものなのかもしれない。アメリカの大学の児童文学教科書の一つ、コンスタンチン・ジョージューの『子どもと児童文学』(Children and their Literature, by Constantine Georgiou.1969.)も
「今日の世界の文学には、子どものための文学と明示された分野がある。この分野の文学は、歴史の中から、大人の本やその一部から、古今東西の文学作品から、成長の各段階の子どもたちの、興味と成長にかなう素材を、なだれのごとくに、自らあつめて大きくなった文学といえる。世界文学のこの分野は広範で豊かである。語られるテーマは、普遍的真実と、価値と意義ある文学のみがもつ高い目的を簡明に表現し、それでいながら子どもにふさわしい魅力をそなえている。」
と、定義している。
 洋の東西を問わず、児童文学は文学の一部分であって、特徴・機能などは基本的に一般文学と変わらないこと、しかし、年令によって変化が激しい子どもが読者であるため、機能の中でとくに子どもの成長に適した部分が強調されることなどを、私たちは以上三つの引例によるだけではっきり知ることができる。
定義は、主として学者や評論家のしごとである。作家には、それぞれ、なぜ子どもに向かって創作するかという動機がある。この動機は、表面的に分けて二つの流れがある。常識的に言葉をあてれば、求道と教育を主に考える人たちと、自己表現や心の満足のために創造する人たちとなる。前者は日本に多く、後者はイギリスに多い。
善太、三平もので戦前から著名であり、日本児童文学の至宝的人物である坪田譲治は『新修児童文学論』(共文社、一九六七)で、
「童話作家として何を目的としているかを問われる時、私はまず、
『ほんとうに子供を喜ばせてやりたい。』ということを答える。
 それではほんとうに子供を喜ばせてやるには、どうすればよいかというに、まず何よりも真実を語ることが必要であると思う。真偽ということは子供にとって、むしろおとなよりも大きな問題である。人生の出発点において、真偽に無関心であるようなことをさせてはならない。それはあたかも無貞操を教えるようなものである。」(二九頁)
とのべ、子どもに納得できる限界まで現実の諸問題にとりくみ、人間と人生の真実を語ろうと、自らの作品の質を解きあかす。この真実のみが子ども、つまり読者に喜びを与えるという主張は、坪田が師事した小川未明以来のものであり、小川は、その点を
「純粋の芸術的立場に立って、如何なるものが真に正しきか、如何なるものが真に美しきかということを児童に教えるものこそ、真の意味での教育でなければならぬ。」(雑誌「童話研究」一九二八)
といった趣旨の発言をしばしば行なっていた。
小川や坪田の創作の動機からは、児童文学は子どもに向かって大人が何かを教えるものであり、また教えなくてはならないという姿勢がはっきりと読みとれる。もちろん、その姿勢は、子どもは、しつけ教育をしなくてはならないといった道徳家ぶったものではない。彼らはなによりもまず、童話が自己の追究するものの表現であることを確認し、自己の追究するものを最も必要とし、最もよく理解する読者として子どもをえらんでいる。創作が自己の表現である点は、彼らとは異質と考えられている作家たちとおなじである。
 小川未明や坪田譲治の論を読んで、『宝島』のロバート・ルイス・スチーブンソンやアーサー・ランサムの意見を知ると、氷炭相容れないかのような感じをもつ。スチーブンソンは、自分の心のよろこびのために子どもの本をかくのであり、子どもの本の創作はほんとうにおもしろいと動機を語った。そして、ランサムも、ほぼ同様に、自分がじっさいに経験したいことを少年少女物語にしたのであると公言した。
小川未明が、人間の背信への怒りをこめて発表した『赤いろうそくと人魚』、坪田譲治が人間のもっとも美しい瞬間を求めて創造した『子供の四季』と、善玉、悪玉入りみだれて埋められた宝の争奪戦をくりひろげる『宝島』や、前にのべたランサムの休暇物語は、彼らの主張のちがい同様に、作品の印象もまったくちがっている。しかし、根本において、そのちがいは解消してしまうのではないだろうか。
血湧き胸おどる冒険の興奮を創作を通じて享受したり、休みと自然という解放された中に自らを没入させる楽しみは、それが享楽的に見えようが逃避的であろうが、作者にとってもっとものぞましい生き方であり、生きる意味でもある。スチーブンソンやランサムの作品の背後には、憧憬に達した人生観がはっきりとある。そして、彼らがもっとものぞましいものを求め、表現した態度と、未明や譲治の真実追求の態度は同じである。四人とも、理想の追究と表現であり、言葉を変えれば、心の喜びの追究である。
 人間には、善玉が勝利し悪玉がほろびることを素朴に願う気持がある。その気持が、魔法とふしぎが当然のこととしてまかり通る世界で主人公が幸運をつかむメルヘンを生みそだてたのであり、つきつめていけば、それは、よりよい状態での生命の維持という生きものの本能にまでさかのぼる。スチーブンソンやランサムは、知恵と力を存分に発揮して、行動的に生きる爽快さに一つの生きがいを見出した。未明と譲治は現実を見きわめて人生の諸相を子どもに知らせ、理想の社会と人間の生き方の模索に生きがいを発見した。どれも みな、結局は、善玉が栄えてほしい素朴な願いのバリエーションといえるのではないか。
児童文学とは、基本的には、善玉の勝利、英雄の幸福獲得の文学だと思う。もっとも、この形の作品は、いつの時代にもおびただしくつくられては消えている。それは、その型の物語の多くが、あまりにも現実と遊離していて人びとにあきられるからである。児童文学が、類型に堕しやすい、人間の素朴な欲求にもとづく文学であるとするならば、多くの作品が今も長い生命を保ちえているのはなぜだろうか。そして、これからも、生き生きとした魅力をもつ文学として生きつづけられるだろうか。こたえは、かんたんに見出すことができる。過去のすぐれた作品には、人間の基本的な欲求を充足する方法の模索がある。この真剣な模索の有無が作品の良否と魅力をわけている。
 第二章ですでにのべたが、ケストナーやイーヴ・ガーネットの作品は、現在の立場から批判にさらされている。ケストナーの子ども群像は、内に反ナチ、反暴力、反戦の意志を秘めていても、今日の子どもの本から見れば、子どもたちの正義の執行は、たしかに間接的・比喩的であった。イーヴ・ガーネットの『ふくろ小路一番地』には、たしかにプチブル的同情で事実の酷薄な部分をあいまいにしている点がある。しかし、ケストナーの作品には、やはり大胆なレジスタンスがある。『点子ちゃんとアントン』(一九三〇)『飛ぶ教室』(一九三三)のように、彼の作品中の傑作は、ナチス政権確立後にかかれている。だから、子どものくらしの中での正義の確立は、ヒトラーへの作者の痛烈なあてこすりであり、アンチテーゼであった。ガーネットは、スラムをなくすための手がかりとして『ふくろ小路一番地』をかいている。だから、彼らの創作は、人間全体にある本能的・基本的欲求におもねるのではなく、作家の本能的・基本的欲求をこの世に実現させたい意欲と方法の表現である。そしてつくられた物語の内容に、欲求の充足された姿が理想としてえがき出されている。
すでに説明したように、児童像は変わりつつある。子どもをとりまく状況の描写も深刻になってきている。そして、ときにはアンハッピーな結末の物語すらあらわれる。そうした変化が、なにか児童文学の基本をゆるがし、だめにしてしまうような意見がある。事実は、この変化こそ、児童文学の本質――一般に理想主義の文学、私見では、人間の本能的・基本的欲求充足を目ざす文学――にかなうものなのである。
 作者はそれぞれ、基本的欲求の今日的・個人的表現として、児童文学に結晶すべきテーマをもつ。作者がそのテーマ実現への意志と方法をもたずに創作したとき、逃避と退廃が生まれる。困難克服型のヒーローの減少は、この型のヒーローがテーマ実現への方法となりえなくなったからであり、ハッピー・エンドへの疑いは、テーマ実現の意志をはぐらかすおそれから生まれている。
現在、善玉が悪玉を打倒し、太郎やジャックやハンスやイワンが最後に幸運をつかむ素朴で楽しい物語は、迷い、しりごみ、疑いつつ自らの生き方を求める子どもの物語や、一時的な挫折に苦しみ、現実の壁にひざを折る子どもの姿を追ったものに受けつがれているのかもしれない。そうした物語には、すくなくとも、希望が充足されるユートピアへの足がかりがあるからである。現実の重みを知るものだけが、それを突きくずす方法を見出すことができる。
 海賊の宝の分捕り合戦を行なう爽快さから、スラムでひとりあえぐ女の子の姿を追うきびしさまで、時代と場所で児童文学の素材は千変万化である。しかし、大人にとって児童文学とは、生への執着を底に置いた、最高の生き方への憧憬を追う芸術であると思う。
では、子どもにとって、児童文学とはいったい何だろう。イギリスの児童文学評論家マージェリー・フィッシャーは『読書の喜び』(Intent Upon Reading, by M.Fisher 1964)の中で、つぎのようにいっている。
 「ふつうの子どもは、物語を読みながら、この文体はひじょうによいとか、登場人物がとてもよくかけているとか考えはしない。しかし、センセーショナルで皮相な作家の作品よりも、ウォルター・デ・ラ・メアやアーサー・ランサムを読む方が、生命の長い楽しみをえられることは、大人にもわかっている。わたしたちは大人の立場から(子どもの本を)推薦しなくてはならない。しかし、同時に、子どもの好みについて大人がもっている知識を使って読まなくてはならない。
 あきらかに、子どもの本についての批評はどんなものでも、個人の好みばかりではなく、時の経過によっても、かたよったものになってしまう。わたしは『水の子』と『北風のうしろの国』について、同じ気持で書くことはできなかった。キングスレーの『水の子』はわたしの子ども時代をつくっていた本の一冊だった。わたしは、この本を六歳から十歳までの間に三〇回は読んだにちがいない。今読んでみると、当時何の印象も心に残さなかった諸要素――当時の思想や出来事に対する風刺とか宗教的な思考の型などに気づく。しかし、場所や人びとの描写や輝かしい多音節語の多用に感じた素朴な楽しさも思いだすことができる。わたしは、今もまだ『水の子』を子どもが読むであろうように読むことができる。マクドナルドの『北風のうしろの国』は、子どものときに読まなかった。だから、わたしは、マクドナルドが子どもにどのような影響を及ぼすかという代替物をみつけださなくてはならないし、わたしの子どもたちは部分的な回答しか与えてくれない。」
 これは、彼女が子どものフィクションについて論じた本の序文であり、主旨は、大人が子どもの本を読み、かつ選ぶ立場についてである。だが、子どもにとって児童文学とは何かを考える上で、これはいくつかの手がかりを与えてくれる。一つは、作者の意図が必ずしも子どもには伝わらないことである。キングスレーは『水の子』によって、英国国教の正当性を子どもに伝え、科学時代におけるキリスト教の優位を立証しようとしたのだが、子どもとしてのフィッシャーの興味をとらえたのは、主として水の子の活躍する水の世界と興味ある人物たちであった。
 また、一つは、子どもの反応はまことにつかみにくいということである。たしかに、過去の研究は、子どもの興味がどこに向くかをかなりよく教えてくれる。しかし、子どもひとりひとりはちがうし、彼らの本に対する表面的な反応は必ずしも本心でないことが多い。新しい本を子どもに推薦する場合、大人はどんなに努力しても、やはり推量の域を出ることはない。
もう一つ、フィッシャーが暗示してくれるのは、子どもと文学を考える場合、かつて子どもであった自分がいかに大切であるかということである。彼女は、子どものときに読んだ本については、かなり自信をもって語っている。それは、逆にいえば、子ども時代にすぐれた本を読まなかった大人が、今の子どもに本をすすめるときの恐ろしさをも暗示する。総体的に、フィッシャーの意見は、子どもと大人のへだたりをはっきりと認識させる。
 だから、わたしたちが、子どもにとって児童文学とは、と考えることも、やはり一つの推量にすぎない。それでも、各自の思い出やきれぎれな子どもたちの反応や、子どもたちの愛読書などを参考にして考えれば、子どもにとって児童文学とは、なによりもまず娯楽だといえるのではないだろうか。子どもが本を読む動機はいろいろある。感想文を書くため、大人から強いられたため、何かを調べるため、などもそうだろうが、自主的にフィクションを読む場合は、やはりなによりも楽しむつもりで読む。国分一太郎の定義にある興味性を彼らは求める。
 楽しもうとする意志は、中味への期待である。本の中に自分を満足させ、よい気持にさせてくれるものを求める心の動きといえる。幼児の場合、それは、自らが知っているものを再確認すること、自己中心の世界で勝利を味わうこと、欲望を充足させることなどになる。成長し、自他の区別があきらかになるにつれて、競争の勝利と敗北、得手不得手、欲望と社会のルールとの衝突などを経験して、自己中心世界は徐々に変容していく。それでも、子どもたちは、他人の優位やルールの存在をみとめた上で、なお自己の心からの欲求を満足させようとする。幼年向きの文学に見られる闊達なヒーロー、ヒロインがそれを満足させてくれる。
知識と経験が深まり、情緒が発達するにつれ、読者の楽しみも多様化する。年長の子どもにとっては、架空の世界で、英雄的人物が英雄的大事業をやってのける話や、現実的な困難がたやすく解決してしまうリアリズムは信じられないものであろう。迫真力ある作品世界と信服力ある解決が読む者に喜びを与える。悲劇も、それに耐えられる健康な心の持主にとっては楽しいものである。
自己中心の世界、活発な英雄のあらわれる世界、自らが呼吸し動いているようなリアルな世界など、子どもたちは、年令に応じてひかれる作品世界がちがってくる。しかし、彼らが子ども時代の全段階を通じて、児童文学に求めるいちばんのものは、自己確認ということではないかと、わたしは考えている。
 こうした論の中で、自己の体験を語ることは、必ずしも妥当ではないかもしれないが、フィッシャー流に私の読書体験をのべることも、この問題への多少の手がかりになるかもしれない。
 私の少年時代は、日中・太平洋戦争の最中だったから、決して本は多くなかったし、また本を読めと特別すすめられることもなかった。そんな中で今もとても強く心にのこっているのは、吉川英治の『天平童子』(一九三七〜四〇)『神州天馬峡』(一九二五〜二八)と川崎大治の『太陽をかこむ子供たち』(一九四〇)、酒井朝彦の『読書村の春』(一九四二)である。これらが他よりもぬきんでていてわたしをひきつけたのではなく、これら程度しか手にはいらなかったからということは言っておかなくてはならない。
 川崎の短編集は特にわたしをひきつけた。荒物屋であったわたしの家の周囲には、洋品屋、八百屋、魚屋、ガラス屋、タバコ屋、飲み屋など、商店が軒をならべていた。だから八百屋の店を手伝う少女とバスの車掌さんの友情をえがいた『車掌人形』など、わたしの町の出来事のような親近性をもっていたし、子どものけんかを素材にした『夕焼の空の下で』は、わたしたちの日常生活そのものであった。だから、けんかと仲なおり、ほしいものを工夫でつくりだす話などは、わたしにとって、あとすこしで実現可能な理想の人間関係であり、子どもの生き方でもあった。それは大自然の中の素朴な暮しをえがいた酒井の作品に私が求めたものでもあった。
 吉川英治の作品で、いちばん面白かったのは、戦国期の子どもたちが、自立して冒険のかずかずを経験している点であった。中国の高松城攻防にかかわる天平童子にしても、大阪方に組して関東方の動静をさぐりに出る真田大助にしても、一人前の人間として自ら決定し、自ら戦って生きていた。そこに私はつよくひかれていた。
 結局、私にとってこの三人の作家の作品は、主人公たちと自分を比較させ、現状の認識を深めさせ、自分がなりたいもの、したいことなどをたしかめさせたと思う。私にとって児童文学は、明らかに自己確認の機能をもっていた。
私の場合がそうだったから、子どもにとって児童文学はすなわち自己確認のための芸術とは、もちろんいえない。だが、すぐれた本に対する子どもの反応や、すぐれた作品にあらわれる作者の子ども時代などをちらちらのぞくと、私の経験からの結論も、さほど大きく的をはずれているとは思えない。幼ない子どもたちが、大きな家にたったひとりで住み、学校へも行かず好きなことをしてくらす大力無双の少女『長くつ下のピッピ』(アストリッド・リンドグレーン、一九四五)を喜んで読むのは、やはり現在の自分たちと比較してのピッピのすばらしさにひかれるのであり、ピッピの大活躍のうらにひめられた家庭へのあこがれと少女らしい不安に共感するからであろう。バリの『ピーター・パンとウェンディ』(一九一一)を楽しむ子どもたちは、パンの空想的大冒険を満喫しながら、家庭の中の一員である自分に一種の安心をもおぼえるのだと思う。
 子どもが自己を確認できるために、最低限必要なものが、子どもの文学にはあると考えられる。それは、セルマ・G・レインズがたくみに指摘している。レインズは、大人とは年でふくれた子どもだというシモーヌ・ド・ボーボワールのことばを引用しつつ、大人の知識や経験の累積されたものの下には、子どもがのこっているとのべ、
「わたしたちにいちばん感銘を与える子どもの本は、この基礎的な子どもの部分に手がとどいているものである。子どもの本をほんとうに味わい、価値にふさわしく真剣に考えてみるためには、まず、わたしたちに、子ども時代からひきつづいてもっているものがなくてはならないのかもしれない。」
と語り、さらに、
「子どもの本が、ほかにほとんど役立たないとしても、大人と子ども双方に、間、つまりたちまち過ぎさるある時を考え、その重さを感じ、その中味を味わうひまをあたえてくれる。」
とつづけている。
 子ども時代に経験した、そして大人になるにしたがって忘れてしまってほとんど思い出しもしない貴重なある時を掘りおこしてえがけた作品は、まちがいなく子どもの共感をえることができる。そうした一瞬をとらえている作品は数が少ないが、石井桃子の『ノンちゃん雲にのる』(一九四六)に、その芽を見ることができる。
雪の日に、ノンちゃんは新聞をながめていて、同じ字がたくさんあることに気づく。すると、おかあさんは、その字がおかあさんの名まえと同じ字であるという。
「そのとき、ノンちゃんはなんともいえない、ふしぎな気もちにうたれ、その字を見つめて、じっとこたつによりかかっていました。・・・・・・なるほど、おじいちゃんやおばあさんやおとうさんは、ときどきおかあさんのことを『ユキコ』とよびます。けれど、ノンちゃんは、それにたいして気をとめてはいませんでした。おかあさんは、ノンちゃんのおかあさんで、世界じゅう、どこへいっても『うちのおかあさん』『あたしのおかあさん』ですむものと思っていました。
けれど、おかあさんは、・・・・・・ほんとうは『田代雪子』さんという人だったのです。なんというふしぎなことでしょう。」
 自他の区別と記号としての言語の認識のはじまりを、これほどあざやかにとらえた子どもの文学はめったにない。これこそ、子どもの成長の節ぶしにあらわれて、逃げるように消えるだいじな一瞬であり、この一瞬を子どもに提示することで、子どもは自己を確かめることができる。『ノンちゃん雲にのる』には、このエピソードにすぐつづいて、時の流れに幼児が気づく、じつにすばらしい瞬間のエピソードがある。
 こうした、成長の節ぶしをとらえ、その意味を作者と読者が確認することが、真の意味での児童文学の教育性ではないだろうか。ただ、『ノンちゃん雲にのる』は、箇所箇所に、消え去る貴重な一瞬のきらめきがあっても、全体がそれをとらえようとはしていない。もっとも、それができるのは、異常に記憶のよい、あるいは子どもの部分をいつまでも新鮮に保っている天才だけなのかもしれない。だから、次善のものとして、長い児童文学の歴史から、子どもが喜ぶもの、楽しむものを知り、それを作品に利用する場合がある。たぶん、平凡なアメリカの男の子のゆかいな日常を物語にした『ゆかいなヘンリーくん』のヘンリー・ハギンズなどは、そうした作家であろうと思う。
いずれにしても、私は、児童文学を、大人の最良の人生を求める願望と、子どもの自己確認の間に成立する文学だと考えている。その間でさまざま段階がある作品が生まれるのだが、最低のものは、大人である作者が、その理想とする生き方をのみ語ろうとする作品である。児童文学の全歴史を通じて、じつはこの手の作品がもっとも多かった。大人の立場のみから他宗教を非難したり、政治の現状を批判したり、あらまほしい国家形態や社会図をえがくものは、大人から大人へ手渡されているかぎり意味はあっても、子どもとは無縁な芸術といわなくてはならない。
 ところで、大人の立場から、子どもの自己確認ということを考えたらどうなるだろう。ある子どもが今までできなかったことをなしとげた喜び、だれひとり美しいと思わないなにかを美しいと感じた一瞬、吹く風に季節の変化を感じた一瞬などをえがき、子どもに知らせるのは、いうまでもなく大人である。日常の中に埋没しがちな一瞬のその価値を知り、子どもに伝えるとき、当然そこには大人の価値観がはたらいている。それが子どもに共感され子どもに自分を改めて意識させる貴重な一瞬であっても、その値打ちを意識するのは大人となった作家である。大人と子どもとは、この点でつながることができる。これは、子どもを無視した大人の独善ではなく、かつて子どもであった人間と、今子どもである人間が共有できるものの発見である。大人は、子どもが共感し、自己の成長に必要なものを発見する出来事に、大人の知識と経験を通してえたものを表現し、それを通して理想に近づこうとする。
だから、ただひたすらに、子どもに受け入れられるものだけを集めてならべる作品は、子どもに迎合し、子どもの心からの願い、つまり、よりよく成長しようとする気持に反するものである。大人に失望し子どもに賭けてしまう作家の作品にどこか退廃味が生まれるのは、そのためであると私は思っている。
 この本で、私は、絵本から一般文学との境界に達する高学年向きの作品まで、現状をのべてきた。絵本の世界にも、かつてほとんどあらわれなかった少年の孤独や、内省的な姿勢がたしかに見られる。ファンタジーは過去の楽天性を失い、リアリズムは一瞬大人をたじろがせる厳しさを示している。
 はちきれるような元気さ、はずむ心、世界がひろがる喜びなどをえがかない新しい絵本は、あるいは行きすぎなのかもしれない。現実よりはすこしでも願望がかなう世界を子どもからうばうようなリアリズムは、あまり好まれないかもしれない。行きすぎは是正される。しかし、一度開かれてしまった新しい時代への門は、二度としまることはない。絵と文が五分と五分で調和した一世界をつくる絵本を、絵本のスタンダードと考える人も、六〇年代から現在までの、新しい絵の豊かさや表現力を否定しさることはできない。また、今までも子ども自身が経験していた挫折感、絶望感、不公平や誤解が存在するという実感など、今まで大人が児童文学で表現することを頑強にこばんできたものも、ふたをしてかくすことはできない。そんなことは、ただのごまかしであるからだ。
子どもが児童文学に求めるものと、大人の作家が追究しようとねがうものの接点において児童文学は変わっていく。変化は単に大人の恣意ではないのである。
テキストファイル化秋山トモコ