民話
神話、伝説、寓話とならんで、今では子どもの文学の重要な部分をしめている民話は、それが大人にとって意味のある時代をすぎると、むしろ排斥すべきものとなった。民話でも、特におとぎ話といわれるものの歴史は、大げさにいえば、圧迫に対する反抗と自己保存と自力解放の歴史である。
おとぎ話は、イソップ寓話や英雄伝説などとちがい、いなかもののたわいもない話と考えられ、印刷される機会などなかった。だから、行商人たちが持ちあるく安い本も読めないような人々によって生きのびてきた。つまり、おとぎ話は、はじめから有力な後援者なしに、子どもにむかってあるきはじめたのである。空想的な内容をもつ物語に対する大人の反感のつよさは、すでにあげたロードズの言葉で主張し、「くだらない、うその話」にかわる「よい本」を子どもに与えようとしたのが、十七世紀イギリスの清教徒たちであった。
清教徒たちの「よい子どもの本」は、オリバー・クロムエルが死んでイギリスに王政がもどってから後になって出たものが多く、それから約一世紀半にわたって、イギリスの子どもの本に大きな影響を与えた。
子どもを悪のかたまりと考えたジェイムズ・ジェインウェイは「子どもへの贈りもの。くしき改心の記憶。数人の子どもたちのけだかく模範的な生涯とそのよろこばしき死の物語。巻末に幼い子ども用の祈りの文句を附す」(一六七一頃)という長い題名の本の中でたとえば、早死にする一人の子どもが、死にあたってすくなからず国全体のことをうれい、国の罪のゆるしを神にこうような話をかいた。
アメリカ大陸にわたった清教徒たちも、〈神は汝のためになにをなしたまいしや?〉といったたぐいの問答のある宗教教育の本「新旧イングランドのボストンにすむ子どものための心のかて」(一六四六年にイギリスから輸入)とか、イギリスと同じように、早死にする子どものことがかいてある「ニューイングランド・プライマー」(一六八七〜九〇)などを、子どもたちに与えていた。要するに、清教徒たちは子どもの性質や子どもをとりまく環境などを無視して、子どもが進むべき道を強力に教えこんだのである。人間が神の慈悲によってすくわれることがどんなにむずかしいかを説き、すくわれるためには一意専心はげまなければならぬことを教えたこれらの本はきびしく恐怖にみちていた。しかし清教徒たちのこのおそるべき性急さもやはり時代の産物であった。当時は衛生設備がわるく、天災人災から生命を守ることがむずかしくて、子どもの死亡率が高かった。だから、子どもが天国へ行くことをねがう親たちは、早死にする子どものことを書いて幼い子どもに宗教教育せざるをえなかったのである。
子どもの本に対する清教徒的な考えは、その後長く悪い影響をあたえたが、とにかく、彼らが子どもにあたえた本は、「子どものために書かれた」本であった。そして彼らは神の意志を知ることをよろこびとしていたから、神の意志を子どもに伝えれば子どももよろこぶはずであった。つまり、清教徒たちは主観的に子どもによろこびをあたえていたのである。
恐怖心による宗教教育をした清教徒たちの中にも、子どもを楽しませながら教育しようとした作家もいた。それは「天路歴程」(一六七八〜八四)のジャン・バニヤンだった。彼は「少年少女の本・子どものための田園詩」という本も書いたといわれるが、それは今はあとかたもなく、「天路歴程」のみが、その豊かな空想ゆえに、今も子どもたちに読まれている。
イギリスやアメリカで清教徒がはばをきかせていた頃、フランスでおとぎ話がはなやかな光をあびて登場した。
フランスでは、ルイ十四世の時代になるとはなやかな宮廷生活の中で、牧歌や田園詩が流行し、いなかの人間が子どもにむかって語る素朴なおとぎ話がもてはやされるようななった。おとぎ話がみがきをかけられ潤色されて宮廷人たちのひまつぶしにつかわれたのである。当然たくさんのおとぎ話作者が生まれたが、中でももっともすぐれていたのが、シャルル・ペローだった。
ポール・アザールが「夜あけのようにさわやかである」と激賞しているペローは、一六九八年に「教訓ある昔話あるいは小話集」を子ども向きに出版した。ひとりのおばあさん糸をつむぎながら話をするのを、三人の子どもがじっとききいっている口絵のあるこの小さな本には、「眠れる森の美女」「赤ずきん」「青ひげ」「長ぐつをはいたねこ」「ダイヤモンドとがまがえる」「シンデレラ、またの名ガラスのくつ」「とさか毛のリケ」「親指太郎」の八編がふくまれていた。幾世代もの人びとによって、ぎりぎりまで単純化された物語の型をこわさずに、ゆたかなニュアンスをつけ加えたペローの八つの物語は、その後各国語に訳され、絵本になったり再話されたりしたが、もとの魅力はすこしもそこなわれていない。
ペローの物語は生まれてまもなく、ヨーロッパ各国に紹介され、つづいてオーノワ夫人の「仙女物語」(一六九六)や、ボーモン夫人の「美女と野獣」(一七七〇)も紹介された。しかし、これらの物語もけっして大手をふって子どもの世界に入っていけたわけではない。宮廷で流行したということ、つつましい賢明なものではあったが、とにかく教訓がついていたことが大人を一応安心させたのである。
ペローにつづいて子どもたちを楽しませたのは「アラビアン・ナイト」だった。ペルシャの民話「千話集」を基礎に中国、インド、エジプト、ギリシャ等の民話・伝説を加え、十五世紀頃に現在の形をととのえたらしいこの一大物語集は、すでに「イソップ」「ジースタ・ロマノーラム」「カンタベリー物語」などの中にすこしとり入れられていたが、十八世紀になると、まるで流行病のようにヨーロッパにひろまった。「アラビアン・ナイト」を本格的にヨーロッパに紹介したのはフランスの旅行家アントワーヌ・ガランで、このガラン版(一七〇四〜一七一七)から特に「シンドバッドの航海」や「アラジンの魔法のランプ」などが子ども向きに書きなおされてひろまっていった。
冒険と詩のはじまり
ワッツ/デフォー/スウィフト
十八世紀になると、世界の子どもの文学の歴史に、大きな影響を与えた三つの本があらわれた。アイザック・ワッツの「子どものための神さまと教訓の歌」(一七一五)、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」、ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」である。
アイザック・ワッツの歌は題名どおりの教訓の歌であり、後になってルイス・キャロルが「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の中でこっけいな歌にかえてしまうのもしかたないことだった。しかし、彼の歌には子どもを恐れすくませる教訓がなく、独立した人格をもつ冒険好きな子どもをあたたかく見守る態度がうかがわれる。ワッツの歌は、子どもが大人とはちがうことをみとめた最初の文学の一つである。
「ヨークの船乗りロビンソン・クルーソーの不思議にしておどろくべき冒険」という名で一七一九年に出版されたダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」は子どもの文学にはかり知れない影響を与えた。一人の若者が、親のいさめをふりきって海にのりだし、二十八年間無人島生活をするこの物語は虚構をかまえ、当時の庶民の言葉をつかってかき、小説というジャンルをつくり出した画期的な作品だったが、単純で、明快なストーリーとプロット、箇条書きのたくみな利用などで子どもに読まれる必要条件をみたしながら子どもの冒険愛好心をかぎりなく刺戟した。
原始未開の状態の中から生活を切りひらいていく人間と無人島漂着という着想は、多くの作家たちに影響をあたえた。まず第一に、社会と切りはなされた自然の子をあつかった作品があらわれ、第二に漂流ものがあらわれ、第三にルソー流の自然人もの、たとえばドイツ人カンペの「新ロビンソン・クルーソー」(一七七九)などが出た。しかし、ロビンソンの亜流でもっとも有名なのは、一八一二年から十三年にかけて、チューリヒで出版されたヨハン・ルドルフ・ウィ−スの「スイスのロビンソン」だろう。この作品は科学的に大変でたらめで、その上大げさな信仰のおしうりがたっぷりふくまれているが、波瀾万丈の事件の連続は、今も世界中の子どもたち心をとらえている。この作品の科学的でたらめさに腹をたてて新しくロビンソンを書いたのが十九世紀の冒険小説家キャプテン・マリヤットだが、彼の作品「老水夫マスターマン・レディ」はやや教訓臭がつよくたいくつである。たくさんに出たロビンソン一党では、以上のほかジュベール・ベルヌの「神秘の島」をあげれば十分であろう。
デフォーに七年おくれて、ジョナサン・スウィフトは、当時のイギリス政界と人間のおろかしさを痛烈に諷刺した「ガリバー旅行記」(一七二六)を出版した。子どもたちは、「大人の国」「小人の国」「飛ぶ島」「馬の国」のうらにかくされた意味などには目もくれず、そのゆたかな空想の世界を自分のものにして今日におよんでいる。
「ロビンソン・クルーソー」と「ガリバー旅行記」は出版後まもなく、行商人の持ちはこぶチャップ・ブックといううすい本になってイギリスの子どもたちの手にわたり、大きな人気をよんだ。これは、大人がどんなに反対しても、子どものための小説は生まれることを暗示する大きなできごとであった。そして、表面的にはひどくちがう「ロビンソン・クルーソー」と「ガリバー旅行記」がともに漂流と冒険の物語であることを考えると、十九世紀以来のイギリス児童文学の一主流となった冒険物語の根の深さを知ることができる。
テキストファイル化門脇史穂