芸術と商品を最初に両立させた出版屋
ジョン・ニューベリー
チャップ・ブックというやすい本は、すでに十七世紀からイギリスにはあったが、一六四一年に有名な星の間の裁判という言論弾圧機関が廃止されると、政治的宗教的パンフレットがどっと出て出版がさかんになり、チャップ・ブックもさかんになった。そして、イギリスのすみずみまでゆきわたり、十九世紀にいたるまでさかえた。このチャップ・ブックは、(一)子どもの読者層を大きく広げた、(2)子どもに直接読まれた、(三)見すごされ軽蔑されていたものを保存し、子どもの貴重な財産となるべきものの温床となった、(四)印刷も文章をもわるかったので、道徳屋たちを刺戟し、後の道徳物語氾濫の一原因となった、というような点で重要な役目を果たした。
このチャップ・ブックの伝統を基礎にして子どもの文学の偉大な巨人ジョン・ニューベリー(一七一三から一七六七)があらわれた。ニューベリーは農民の出だったが、少年時代に手に入るかぎりの本を読み、十七才の時農業をやめて、レディングの印刷業者ウィリアム・カーナンの助手となったが、一七三七年にカーナンが死ぬと、彼の未亡人と結婚して仕事をついだ。カーナンは<レディング・マーキュリー>の編集のかたわら、本、薬、小間物、組活字、刃物などもあつかっていた。ニューベリーは一七四〇年にはじめてイングランド中を行商してあるき、本商売の将来性を知った。そしてベンジャミン・コリンズとくんでロンドンにうつり、一七四五年にセントポール寺院通りに店を出した。
ロンドンに出たニューベリーはジョンソン博士やオリバーゴールドスミスらと知り合い、その結果「ウェイクフィールドの牧師」(一七六六)や「旅人」(一七六四)などを出版した。ニューベリーとゴールドスミスの協力から、いくつかのすぐれた子どもの本がうまれている。
ニューベリーは本や熱さましの薬をもってイギリス中を歩きながら子どものすきな本はどんなものかを知り、哲学者ロックの影響で出版された「子どものあたらしいおもちゃ」(一七四三)という字つづりの本に刺戟されて、四四年に「かわいいポケットブック」を出版した。これはありきたりの安っぽいチャップ・ブックではなく、絵の美しい紙表紙の本であった。このきれいな本がわずかの六ペンスだったことは、彼の趣味のよさとぬけめのない商業感覚を物語っている。
「かわいいポケットブック」につづいて、「小人国の雑誌」(一七五二)「おかしの国」(一七四六)「トルーラブばあやの新年のおくりもの」(一七六〇)などが出版された。
「将来えらい人になり、すばらしい馬にまたがって行き来するであろう小さい男の子と、すばらしい婦人となって市長さんの金ぴかの馬車にのるであろう小さな女の子たちへのプレゼント」だった「トルーラブばあやの新年のおくりもの」は短いお話や歌をのせていたが、中でも有名なのは、「席次と商業についての若干の意見をともなう、ウィリアムズ先生とプラムケーキの物語」である。
小さな村で、幼い紳士淑女を教えているウィリアムズ未亡人が、あるときプラムケーキをつくってそれを切り分け、はじめに商人の息子ホウズにとらせる。すると、市長の息子ロングが、自分は市長の息子だから、商人の息子より先にとるべきだと不平をいう。そこでウィリアムズ未亡人は、人間の誇りと商業の大切さについて、子どもたちに語ってきかせる。ロングは顔をあからめ、ほかの子どもたちはうやうやしくおじぎをして「商業とプラムケーキばんざい!」とさけぶ。
この物語は、商業で成功して富と名誉をえ、美徳と知恵をそなえた単純明快な人間になることを理想としている。それは十八世紀のイギリス人の理想でありニューベリー自身の理想でもあったが、清教徒の道徳主義にくらべると、ひじょうに健康で明るく、実際的な理想だった。
ゴールドスミスはニューベリーの本屋からいくつか子どもの本を出したといわれるが、たしかに彼のものといえるのは、やや年長の子どもたち向きにかいた「ある貴族が息子にあてた、手紙による英国史」(一七六四)だけで、「プルターク英雄伝」(一七六二)や「くつ二つの物語」(一七六六)には確実性がない。それはともかく、この「くつ二つの物語」は、チャールズ・ラムが詩人コールリッジにあてた手紙の中でほめたたえたため、今も世界中に知られているが、現在ほんにはなっていないだいたいつぎのような話らしい。
マージェリー・ミーンウェルの父親は、よい主人につかえる荘園の農夫だった。ところが、その主人が死んでサー・ティモシー・グライプが領主になると、契約切れを理由にマージェリーの一家を追いだしにかかる。マージェリー一家は裁判にうったえてはじめは勝つが裁判がかさなると訴訟できなかうなってついに追いだされる。やがて父親が熱病でたおれると、マージェリーと弟トミーはまずしい人びとのなさけと野いちごでどうやら生きていく。二人をあわれんだ牧師のスミスが、トミーにはちゃんとした服をきせて海にやりマージェリーにはちゃんとした一足のくつをやってひきとる。ところがグライプは牧師をおどしてマージェリーを追いださせてしまう。マージェリーはそんな立場にありながらも、学校帰りの子どもたちからアルファベットを教わるやり方で勉強し、やがて家庭教師になってくらしをたてる。グライプの家に入りこもうと計画しているどろぼうたちの話を立ちぎきして仇を恩でかえし、村の小学校の校長になり郷士と結婚する。その結婚式に弟トミーが堂々たる紳士になってやってくる。六年後、夫に先立たれたマージェリーは財産をついで金持ちになる。一方、マージェリー一家にひどい仕うちをした領主はおちぶれてしまうが、マージェリーは彼に援助の手をさしのべる。その後もまずしい人びとをたすけて、おしまれながら死んでいく。
ハーヴェイ・ダートンは「イギリスの子どもの本」の中で、
「くつ二つの物語」はおとぎ話やおばあさんの寓話とは全然ちがったものであった。この物語は道徳物語、たとえば「レスター先生の学校」の土台そのものであり、「美徳はそれ自身よきむくいである」「善行はいつかかならずむくいられる」式の物語の土台であり、その精神はラム自身が毛ぎらいしたものにほかならないものである。(前出書一三一ページ)
とのべ、さらに、マージェリーその他の人物は、当時の社会の諸思想をあらわす手段だったと批評している。たしかに「くつ二つの物語」は小さな農地が大農地にのみこまれていくイギリス地方社会をえがき、当時の人びとの理想や生活観や日常生活を知る上にはおもしろいが、今日の水準からいえばけっしてすぐれた子どもの文学ではなかったらしい。しかし、子どもをよろこばすために書かれた最初のフィクションだったという点で、ニューベリーの名とともに児童文学史上から影響にきえさることはない。
ニューベリーは、以上の諸作品のほかにも「ロビンソン・クルーソー」や「ガリバー」や「イソップ」を出版し、ペローのおとぎ話の口絵についていた「ガチョウおかあさんのお話」を「マザー・グース」と訳してつかった人間でもあった。美しい印刷で美しい絵をつかい、りっぱに装幀してもなお、子どもの本の商売は採算がとれることを実証したニューベリーの名は、いまもなおアメリカの児童文学賞に生きている。
教訓主義の怪物たち
ニューベリーが子どもへの深い理解と独特の商業感覚で、イギリスの児童文学人口を増やしていた頃、ヨーロッパでは清教主義とは別な教訓主義が生まれていた。それはルソーの教育論の影響をうけた人たちの活動である。
ルソーは教育面で、人工的なものから子どもを開放し、自然から学ばせることを主張した。この教育論は封建制度を人間のつくった不自然なものと考え、自由、平等、所有などを人間に本来そなわった自然なものとする革命的思想の一面であり、その後の教育に大きな影響をおよぼしたものであった。
ルソーの影響をうけた人たちは、しかし、彼の教育論を表面的にまねすることが多かった。フランスではジャンリス夫人(一七四六〜一八三〇)とベルカン(一七四九〜一七九一)が、イギリスではトーマス・デイ(一七四八〜一七八九)とマリア・エッジワース(一七六七〜一八四九(がその代表的作家である。
ジャンリス夫人は、じぶんの子どもたちにはおとぎ話もアラビアン・ナイトも読ませない、といって、「お城の夜」(一七八四)「教育劇場」(一七七九)「アデールとテオドール、または教育についての書簡」(一七八二)などを書き、想像力を否定し、経験にもとづく知識の伝達と道徳教育を主張した。彼女の作品はイギリスにもわたり、英仏両国でもてはやされ、劇もさかんに上演された。
ベルカンは月刊「子どもの友」(一七八二〜三)を出して、子どもは従順で行儀よく、慈悲深くなくてはならないとか、軽薄であってはならないとか、落着いて慎重でなくてはならないとか、たくさんの徳目をならべたててお説教をした。しかし、子どもに対して深い同情心をもっていた上にあたたかい人柄であったためか、作中人物がわりあい生き生きかけていて、フランスでもイギリスでも大流行した。
トーマス・デイは日常生活の上でも「自然にかえれ」を実践し、衣服や頭の毛や礼儀作法などをかまわなかったために結婚する相手がみつからなかったほどルソーに心酔したあげく、一七八三年、八六年、八九年の三回にわけて「サンドフォードとマートン」を書いた。この物語は、あまやかされてスポイルされている金持ちの息子トミー・マートン、マートンがへびにかまれた時たすけてくれた貧乏人の息子サンドフォードがいっしょにそだてられるところからはじまる。この二人は質問を受ければすぐに答えられるようなかしこい先生がついている。この先生とよい友のたすけで、マートンもりっぱな人間になる。
これは、子どもは知識の探求において、質問すればすぐその場で答えを与えてくれるかしこい教師にともなわれていなくてはならない、というルソーの考えを作品化したもので、プロットがひどいものだった上に文章もぎょうぎょうしかったが、多くの子どもたちに読まれた。当時は子どもの本、特に三冊にわかれている長編などがほとんどなかったことにも人気の理由の一つがあるが、教訓臭にみちていながらアクションが豊富だったこと、作者の気迫がこもっていて人をひきつける力があったことなどもあずかっていたといわれている。
R・L・エッジワースもやはりルソーに心酔しデイとともにルソーをおとずれたこともあったが、そのむすめマリア・エッジワースは父親の助言をえて、勤勉、節倹、正直、質素な生活に満足する心などを強調する教訓物語をいくつかかいた。中でも有名な「むらさき色のびん」(一八〇一)は次のような話である。ロザモンドという女の子が薬屋のウィンドウでむらさき色のびんを見て買ってくれとせがむ。母親は、びんを買うより靴がいたんでいるから靴を買ったらとすすめるが、ロザモンドはビンの美しさにひかれて母親のすすめをしりぞけ、びんを買ってもらう。ところが帰宅して中をあけてみると、中からはいやなにおいのするむらさき色の水がでてきて、びんは透明であることがわかる。一方、古い靴はますますいたんできて、とうとうある日温室を見にいったときにこわれ、その日のたのしみがだいなしになる。ロザモンドは反省し、つぎにはもっとかしこくなろうと思う。
徹底した教訓主義であるが、すくなくともここには血のかよった子どもがえがかれている。マリア・エッジワースについて、ハーヴェイ・ダートンは前出の「イギリスの子どもの本」(一四五ページ)でつぎのような興味ある評価をくだしている。
彼女の社会的地位をジョン・ニューベリーとくらべて考えると、気質のちがいがだいたいわかる。ニューベリーは農夫の少年から商人になった人間だった。それは尊敬すべきことだが、こういう人が知識階級世界でくらすことはたいへんだったにちがいない。彼はたいへん上品で教養ある男女とのつきあいできまりのわるい思いをしたことがたびたびあったにちがいない。ロザモンドのような子どもはかけるはずがなかった。彼女の階級の小さなすてきな女の子としたしくつきあうことなどおそらくなかったと思われるからだ。ところが、すばらしい紳士であり、また火山のごとき郷士であったリチャード・ラベル・エッジワースのむすめ、エッジワースタウンのエッジワース嬢にとって、ロザモンドは実在のものだった。そして、エッジワースには成長した子どもが十八人もいた。
これは俗っぽい区別ではない。歴史的に社会上の重要さをもっている。つまり、これは新しい種類の子どもの文学の書き手があらわれたことなのである。それは学校の先生でもなく狂信的な道徳家でもなく、金もうけが目的の三文文士でもなかった。そしてまた博愛主義をつらぬこうとする熱心でまじめな博愛主義者でもなかった。そのころまでの子どもの本の作者たちは、以上のような人たちであり、清教徒――と(もしその仲間に入れなければ)アイザック・ワッツ――のほかは知識階級人や急速に地位を確立した階級の人間ではなかった。女性もいなかった。これは重要な点である。というのはエッジワースの出た時がブルーストッキングの最盛期だったからである。エッジワースの社会的位置を意義あるものにしているのは、この事実である。学校外で子どもたちをたのしまそうとする試みに代表されるように、教育は一方では助教師や(くつ二つのマージェリーの成人後のような)女教師の手をはなれ、他方では子孫にたいして私的にみやびやかさとよい行儀とちょっとした有益な知識をおしえていた貴族紳士たちの手をはなれた。教育は、急速にたのしむための読書のような一般的家庭的習慣となった。
十八世紀のイギリスは国内の平和と産業貿易の発展で、貧富の差の増大という問題を生みながらも、全体的には隆盛にむかい、特に中産階級上層はその富をました。こうした社会的背景の中から、十八世紀中葉をすぎると今まで学問と縁のなかった女性の中から徐々に教養ある婦人たちがあらわれ、文学的サロンをもって作品を生みだした。国家的な富の増大とニューベリーらによる市場の拡大と教養ある婦人たちの抬頭に加えて、ヨーロッパの思想的混乱が、イギリスにたくさんの女流児童文学者を生むことになったのはけだし当然といわねばならない。
繁栄にむかいつつあった中産階級の人びとにとっては、当時のイギリスの社会はまことにけっこうなものであったから、フランス革命の思想はありがたくなかった。そこで彼らは、危険思想から子どもを守るために、伝統的信仰を中心とした道徳を、子どもたちに教えこもうとした。こうして、ひじょうに保守的で実際的な物語群が登場することになる。
イギリスの児童文学史をざっと見るだけでも、この種の作家たちはすぐに十人くらいならべることができる。バーボールド夫人(一七四三〜一八二五)は「子どものための散文賛美歌」(一七八一)や「家庭の夕べ」(一七九二)を出版して、子どもはたえまなく自然を考察すべきであり、それによってしらずしらずに伝統的な神を考察するようになる、とのべた。また、サラ・フィールディング(一七一〇〜一七六八)は「女教師、またの名小さな女学校」(一七四五)で、小さな話をあつめ、それによって女子のそなえるべき道徳的資質をうったえた。
トリマー夫人(一七四一〜一八一〇)は、三男三女の母として子どもの教育にひじょうな関心をもち、日曜学校づくりに動いたり、「たとえ話・動物のあつかい方について子どもを教育することを目的とした本」(後に「こまどり物語」として有名になった。一七八六)を出したりして精力的に活動した。彼女はイギリスの繁栄の影響をうけて、当時の社会を不変なものと考え、それをあやうくする思想に反対したから、当然フランス革命の影響を心配し、不道徳な破壊思想に対抗するため「家庭雑誌」(一七七八〜八九)を編集した。また、一七八九年にアンドルー・ベルが、一八〇一年にジョセフ・ランカスターがそれぞれルソー流の新教育をはじめると、これらの教育が暴徒をそだてると考え、ジャコバン主義やルソー主義からイギリスをまもるために「教育の守り手」(一八〇二〜六)という雑誌をつくった。この雑誌上で彼女は「シンデレラ」を、うらやみ、しっと、まま母や義姉ぎらい、虚栄心、衣裳ごのみなどを子どもの心にうえつけるものとしてこっぴどく攻撃した。同様にして彼女は「ロビンソン・クルーソー」は放浪生活や冒険心をたきつける本、「マザー・グース」は、めちゃくちゃな考えであたまをいっぱいにさせる本として、排斥した。要するにトリマー夫人は、知的にもあまり高くない元来保守的な中産階級の常識を代表した作家だった。
シャーウッド夫人(一七七五〜一八五一)は子どもを生来悪いものと考え、両親が強力にしつけなくてはならぬとして、代表作「フェアチャイルド家の子どもたち」(一八一八〜四七)その他の作品で道徳を子どもにおしつけた。
全体的にみて、一八世紀のヨーロッパをおおった教訓主義の物語は、想像力が子どもの心にはたす機能を無視してこれを否定し、経験を重んじ、当時の社会にふさわしい実際的なこちこちの人間をつくろうと努力していた。
特におとぎ話に対するはげしい反対は、子どもの文学の正常な発達をいちじるしくさまたげたことはあきらかである。しかし、この教訓主義にも見のがせない特徴がいくつかある。
まず、このグループの作家たちは、みな子どものために書いていた。つまり主観的には子どものための文学を創造していた。つぎに、各国がそれぞれ作品を輸入し合うほど、読者層がひろがっていた。そして作者の数もふえた。その上、この作家たちの文章は、行商人が持ちあるいたチャップ・ブックのようにあやしげな文章ではなく、美しい言葉がつかわれていた。つまり、表面的には、子どもの真の成長を阻害する動きであった教訓主義の波も、その底では、ほんとうの子どもの文学を生む基礎を着々と用意していたわけである。
(テキストファイル化ホシキミエ)