アメリカの児童文学
世紀はじめの状態
一九世紀に入ったアメリカ合衆国は、独立当初の重商主義からしだいに重農主義に転じ、まず一八〇三年にフランスからルイジアナを、一八一九年にはスペインからフロリダを買収した。そして、一八一二年におこったイギリスとの戦争の結果、ヨーロッパ経済からの独立がおこなわれて、産業資本がのびた。当然、ひろがった国土の発展のために道路や運河がつくられ、アメリカは西へ西へとのびていきヨーロッパ各国の植民地主義との接触がひんぱんになった。そこで一八二二年、大統領モンローはアメリカ大陸の植民地主義終結を意味するモンロー主義を宣言した。
こうしたことは、アメリカにつよいナショナリズムの風潮をひきおこし、それは政治経済のみならず、文化の面にもつよく反映した。文学の面ではエマソン、ホーソン、ソローが、常識を重んじ、しきたりに服従し、冷酷な清教主義を信じて、精神の自由なはたらきをさまたげていた時代風潮に反逆して、魂の自由を主張した。
一方、人口がましてくると、教育も、家庭教育から、教会管理の学校教育、実用の学を教えるアカデミーへと進み、一八五二年のマサチューセッツを皮切りに義務教育が進んだ。また新聞発行、書物の出版や図書館の設置もさかんになった。
政治、経済、文化におけるナショナリズムや教育の普及、ジャーナリズムの勃興は、必然的にアメリカ独自の児童文学を予想させるが、この動きの成果は世紀の後半にならなければあらわれなかった。そして、世紀の前半では、監督教会が「子どもの雑誌」(一八二九)を、メソジスト派が「エンカウンター」(年代不詳)、カソリックが「カソリックの子ども雑誌」(一八五〇頃)をというように、いわゆる日曜学校運動の教訓的な雑誌があらわれたり、ピーター・パーレーの知識と教訓の本や雑誌がよまれたりした。子どもたちは、アービングの「リップ・バン・ウィンクル」(一八一九)やクーパーの「モヒカン族の最後」(一八二六)やホーソンの「ワンダー・ブック」(一八五二)でまんぞくするか、あるいは、大人の三文冒険小説やお涙ちょうだいの感傷小説を読むかしていた。
感傷とロマンスの横行
政治、経済のヨーロッパからの自立、ロマン主義作家たちに代表される民主主義的人間像の確立への方向は、しかし、すぐには効果をあらわさず、一般の人びとは、なお清教徒的なきびしい宗教観をもち、しきたりや常識を重くみていた。そうした人びとが、安易な感傷的な小説をこのむのは当然なことであった。
こうした時流をもっとも忠実に反映しているのがエリザベス・ウェザレル(一八一九〜一八八五)の「広い広い世の中」(一八五〇)である。孤児エレンの運命の変転をえがいたこの少女小説は、いたるところで涙がながされ、主人公はたえず自責の念にかられ、聖書を手引きとして美しい上品な女性に生いたっていく。日曜学校的教訓主義とセンチメンタリズムがまざりあったこの作品は、しかし、アメリカだけでなく、イギリスでも時流に投じて大成功をおさめた。
この系統の作品でつぎに登場するのが、スーザン・クーリッジ(本名スーザン・チョーンシイ・ウールジー)(一八四五〜一九〇五)の「ケティ物語」(一八七二)である。カー家の長女ケティが背骨の打撲から床に伏し、闘病、一家のきりまわしなどの中ですぐれた女性にそだっていくこの物語は本質的には「広い広い世の中」とかわりはないが、ケティの成長を中心に人物が生き生きとえがかれ、感傷も適度におさえられているので、今も多くの読者をつかんでいる。クーリッジはほかに「学校のケティ」(一八七三)「その後のケティ」(一八八六)「クローバー」(一八八八)「ハイ・バレーにて」(一八九一)などをのこしている。
しかし、クーリッジ以上に成功したのは、イギリス生まれのアメリカ作家フランシス・ホジソン・バーネット(一八四九〜一九二四)であった。一平民の子が一躍イギリス貴族のあとつぎになり、またその地位があやうくなり、最後にめでたくおさまる「小公子」(一八八六)の筋は、「ケティ」の現実性はあとかたもなく、「広い広い世の中」にくらべても、さらに夢物語である。そして、夢物語の筋立てのたくみさと、「レースのカラーをしたいやらしいきざなちび(*)」セドリックをはじめとする、人物描写のたしかさが、この物語をおもしろいものにしているにすぎない。「小公子」と「小公女」(一八八八)にみられる作者天性のストーリー・テラーの才能がもっともよい実を結んだのが「秘密の花園」(一九一〇)であった。両親の愛情を知らずにスポイルされてそだった少女と、自己中心的な病身の少年が秘密の廃園をみつけて生きかえらせる過程で自分たちも人間的に開花するこの話は、人間の本性に立つ理想があり、いささか感傷的なところはあるが、つくりものの感じは影をひそめている。
以上3人の代表的な作家の作品は、(一)催涙的要素―別れ、死など―が多いこと、(二)話の筋に波瀾が多いこと、(三)書かれた時代の常識的理想をえがいていることなどで共通している。彼らはみな、人生を転変するものと考え、転変する原因を追究せず、転変の中でりっぱに生きていく子どもをえがこうとした。3人の中でバーネットの作品がとびぬけて空想的だが、これは、新聞売りの少年でも文なしでもやりようによっては百万長者になれる資本主義の発展期が背景になっている。それは、ホレイショ・アルジャー(一八三四〜一八九九)が「おんぼろディック」(一八六七)以来、百にあまる少年小説で、まずしい少年が努力と忍耐で成功の階段をのぼる姿をえがいたのと軌を一にしていたのである。
* F.J.Harvey Darton "Children's Books in England"(Cambridge University Press)p 239.
「銀のスケート靴」と「若草物語」
ウェザレルと同様に感傷的な文学好みの風潮から生まれながら、より現実的だったものにファークハーソンの筆名で知られるマーサ・フィンレイ(一八二八〜一九〇九)の「エルジー」ブックスがある。「エルジー・ディンスモア」(一八六七)にはじまり、エルジーの少女時代、新婚時代、母親時代、未亡人時代、祖母時代までをかいたこのシリーズは、感傷過多の傾向にもかかわらず、日常的家庭生活が興味深くかかれ、主人公のえがき方もわざとらしさがなく、生きたふつうの子どもに一歩近づいていた。
メアリ・メイプス・ドッジ(一八三一〜一九〇五)は、「ハンス・ブリンカー=銀のスケート靴」(一八六五)でオランダを舞台にした少年少女物語をかいた。父の病気をなおすまでのハンスやグレーテルの苦しい日常生活を中心に、風車、運河、堤防などのオランダの景色や風俗習慣、伝統などをおりこみ、さらに、なぞの時計にまつわる秘密というスリラーめいた要素をももりこんだこの外国物語は、子どもの興味を理解した話のつくり方、主人公たちの自然な描出、未知の国についての知識の伝達などの点で、真に子ども向きの文学の誕生といえるものであった。ドッジ夫人は、「リバーサイド・マガジン」(一八六七〜一八七〇)という雑誌に作品をのせて、作家として出発したが、後には彼女自身が「セント・ニコラス」(一八七三創刊)という雑誌の編集者になった。そしてこの雑誌はルイザ・メイ・オールコットの「ジョーの子どもたち」「昔気質の一少女」、バーネット夫人の「小公子」「小公女」、ルクレチア・ヘイルの「ピーターキン・ペイパーズ」、ジョーエル・チャンドラー・ハリスの「リーマスおじさん物語」がのるというように、アメリカ児童文学の傑作を生みだした母体であった。
ルイザ・メイ・オールコット(一八三二〜一八八八)は、二〇才の時、エマソンの子どものために書いた小さなお話「花の寓話」(一八五二)が本になり、南北戦争中にかいた「病院のスケッチ」で有名になってはいたが、彼女の文名を決定的にしたのは、一八六八年に出版社の依頼で書いた「4人の少女(若草物語)」であった。性格がきわだってちがう4人の少女が、遊び、仕事、争いなどを通じて成長するこの話には明瞭に教訓が感じとれる。しかしその教訓はエマソン、ホーソンらのグループに属し、神のあたらしい解釈、子どもの本質にふさわしい教育理念をもった父親ブロンソン・オールコットの影響を受けて、アメリカ民主主義の真髄にふれたものであった。そして、登場人物や事件が日常的なこと、細部が豊かに書きこまれていることが、この物語に大変な魅力を与えている。「四人の少女」は、日常生活の中の少女をえがく手法と理念に一つのスタンダードをきずいたものであった。これにつづく作品、「昔気質の一少女」(一八七〇)「八人のいとこ」(一八七五)「ライラックの下で」(一八七八)などはいずれも、「四人の少女」をこえることはできなかったが、同様の長所をもちつたえて、文字どおり世界の子どもの財産となった。
偉大な地方作家たち――マーク・トウエン、ハリスなど――
南北戦争がおわると、アメリカは東部、西部、中西部、南部で、それぞれ発展をつづけ、各地方で独特の文化を形成していった。その中で、アメリカ児童文学を国際的なものにおしあげた偉大な作品が生まれてくる。
早くからひらけた東部ではハリエット・ビーチャー・ストウ(一八一一〜一八九六)がニューイングランドの風土を背景にした小説を書き、また「少女プッシイ・ウイロウ」(一八七〇)などの子ども向き作品を発表したが、元来大人のために書かれた「アンクル・トムズ・ケビン」(一八五二)によって、大人ばかりでなく世界中の子どもに知られるようになった。善人と悪人のきわだった書き分け、信仰あつい黒人トムや薄命のヒロイン、エバンジェリン・セント・クレアの創造、奴隷的制度弾劾のすさまじいエネルギーなどがこの作品を偉大な存在たらしめた。
南部では、ジョーエル・チャンドラー・ハリス(一八四八〜一九〇八)がジョージア州の黒人の間に伝わる動物寓話をまとめて「リーマスおじさん物語」(一八八〇)を出した。
全体は老黒人リーマスおじさんが主人の息子に語ってきかせる形をとっているが、愛情にみち、長い人生の経験からえた知恵とユーモアをもったリーマスおじさんの姿が、いかにも生き生きと描かれている上に、話そのものが自然でよろこびあふれるアメリカのイソップだったので、子どもと大人の両方から熱狂的なかっさいを受け、マーク・トウエンはこの話を自分のむすめたちに読んでやり、ハリスが死んだとき、「ジョーエル・チャンドラー・ハリスが死んだ。子どもとおとなのよろこび、リーマスおじさんは、もうわたしたちに話してくれないのだ。これはひじょうな損失である」(*)と哀惜した。マーク・トウエンは温和で誠実なチャンドラー・ハリスの語ったうさぎどんの策略にみちた活躍談の背後に、黒人の悲願があることを知っていたにちがいない。
そのマーク・トウエン(一八三五〜一九一〇)は、印刷屋の小僧、ミシシッピ川の水先案内人、ネバタの鉱夫、新聞記者など、さまざまな職業を経験した後、カリフォルニアの民話をもとに「カラベラス郡の有名なとびがえるの話」(一八六五)を書いて西部作家としてみとめられた。その後、ハワイへ行ったりキリスト教の聖地パレスチナへ行ったりし、そうしたさまざまな経験を、「赤毛布外遊記」(一八六九)「苦痛をしのんで」(一八七一)「ミシシッピの生活」(一八八三)などに結晶させた。しかし、彼の作品中もっとも有名なのは少年時代の生活をもとにした「トム・ソーヤーの冒険」(一八七六)と「ハックルベリ・フィンの冒険」(一八八四)である。
なまけもので無思慮でいたずらなトム・ソーヤーのまきおこす事件の数々は冒険そのものがスリルとサスペンスと笑いに満ちていて十分に子どもをひきつけるが、「悪くて、あくたれで、下品な子」(**)のいたずらは単に笑いをさそう人さわがせでなく、人工に対する自然=人間性の勝利の歌と考えられる。トムの出現は当時の児童観、ひいては人間観をまったくひっくりかえしてしまう画期的なものであった。「トム・ソーヤー」は、あのすばらしい「4人の少女」の中にすら根づよく流れていた教訓主義を一掃し、真の子どもをずばりと表現してみせたのである。しかし、「ひじょうにたくみに一人称書きにした、もっと長くもっと内容ゆたかな本における、単純で、機略に富み、清潔で、不屈なハック・フィンの人間像は、才能のおとる作家たちのえがいた<男らしい>少年像のどれをも、人形のようにしてしまっている。ハックとジムのそばにいると、トム・ソーヤーですら、生きていると見せかけているにすぎない」(***)のである。「トム・ソーヤー」の中にはいささかそうぞうしいわざとらしさがあり、トムも都会ずれしてずるさをもっていた。しかし、ハックルベリ・フィンはまったくの自然児である。逃亡奴隷を助けることを罪悪だと教えこまれていたハックは、苦悩のはてに、地獄へおちることを覚悟で内面の要求にしたがいジムをたすける。ここには「トム・ソーヤー」の諷刺よりもさらに感動的な強力な批判がある。ハックはジムとともにいかだでミシシッピをくだりながら流域の人びとの暮しを目に映じたままに語っていく。いっさいの偏見にくもらない目で対象を見つめていくという姿勢と、日常語をつかった語り口が以後の作家たちに大きな影響を与えたことはよく知られている。
「リーマスおじさん」と「ハックルベリ・フィン」ほど地方色豊かな作品はないが、また、この2つほど、国際性をもった作品も少ない。「トムじいや」と「リーマスおじさん」と「ハックの友ジム」の3人が文学史上不滅の黒人といわれるのも単なる偶然ではないであろう。
* Mark Twain "Autobiography"(Chateau & Windus 1960) p36.
** 「トム・ソーヤーの冒険」二五ページ、岩波少年文庫版。
*** F.J.Harvey Darton "Children's Books in England"(Cambridge University Press)p 236.
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