フランス
イギリスとアメリカにくらべてヨーロッパ各国の児童文学は発達がおくれたため質量ともにイギリス、アメリカにおとり、その差は今日にいたるもまだちぢまっていない。しかし徐々にではあるが十九世紀とともに児童文学はうごきだした。
十九世紀フランスが世界の子どもにのこしたすぐれた作品は、大革命を契機にフランスに導入されたロマン主義運動からまず生まれてきた。イギリスと同様にフランスでも怪奇、幻想、冒険などをふんだんに盛りこんだ小説がたくさんに出た。イギリスではそうした動きの中から今日まで命を保っている子どものための冒険小説がたくさんに生まれたが、フランスでは、せいぜいアレクサンドル・デュマ(一八〇二〜一八七〇)とジュール・ベルヌ(一八二八〜一九〇五)や、いささか種類はちがうがジョルジュ・サンド(一八〇四〜一八七六)をあげうる程度である。
ウォルター・スコットの歴史小説の影響を直接うけたデュマ(大)は、ガスコーニュ生まれで血の気の多いダルタニアンが、友人ポルトス、アトス、アラミスとともに宰相リシュリューを敵にまわしてあばれまわる冒険活劇「三銃士」(一八四四)その続編「二十年後」(一八四五)や、友人の陰謀で十九年間牢獄にとじこめられた後脱出し、莫大な宝を手に入れて、つぎつぎに復讐をとげるエドモン・ダンテスの物語「モンテ・クリスト伯」(一八四四〜四五)で有名になった。彼の作品はスコットのごとく時代精神を把握したわけでなく、騎士道精神を詩にまで高めたわけでもなかったから、スコットを低俗化したという批評もやむをえないが、たたみかけてくる事件、特異な人物の設定などは、「宝島」や「ソロモン王の宝くつ」とともにロマンスの本道を行くものであり、本来大人のものでありながら、子どもの本としても、不滅の光輝をはなっている。
ジュール・ベルヌの空想科学小説群「五週間の気球の旅」(一八六四)「地底旅行」(一八六四)「月世界旅行」(一八六五)「海底二万里」(一八六九)「八十日間世界一周」(一八七二)「神秘島」(一八七五)などはフランス文学が自然主義時代に入った時期に出たが、あきらかにロマン主義精神を受けついだものだった。そして、スチーブンソンが歴史で、ライダー・ハッガードが地理で新たにつくりだしたロマンスに、科学でロマンスをつくるという新しいアイディアを加えた点、世界の児童文学上不滅の功績をになっている。彼の作品の魅力は、二万里の海底旅行、地球の中心への旅、当時まだなかった飛行機の出現といった新奇さと、その新奇さを可能性と考えさせる未来へのすぐれた洞察力にあった。それは彼の作品がいまも新鮮であることでもよくわかるが、もう一つ忘れてならないのは、彼が世界の未来図をかきながら、その中における人間の正しい生き方をうったえつづけていることであろう。代表作「海底二万里」のネモ船長、「十五少年漂流記」(一八八九)の少年群像がそのよい例である。「神秘島」はあらゆる〈ロビンソナード>中の傑作として評価されている。
やがて産業革命、技術の進歩、自然科学の発達、経済不安などがあいまって、文学がロマン主義からリアリズムにうつると、子どもの文学にも生活の中の子どもをえがく作品があらわれ、大人向きのものにも子どもを主人公にしたものがあらわれてきた。前者の代表はエクトル・アンリ・マロ(一八三〇〜十九〇七)の「家なき子」(一八七八)「家なきむすめ」(一八九三)、後者の代表がアルフォンス・ドーデ(一八四〇〜一八九七)の「ちび君」(一八六八)である。
あたたかい家庭がないために旅芸人の弟子としてフランス各地を流浪するレミをえがいた「家なき子」と、家が破産したために、はやくから世間に出てきびしい現実にもてあそばれる「ちび君」とは、テーマも筋立てもよくにており、特に「家なき子」は悲惨の連続とハピー・エンドで「小公子」などに共通する通俗性をもっているが、それが低俗化していないのは、十九世紀中葉の現実にうらづけられているからである。ドーデの「風車小屋だより」(一八六六)「月曜物語」(一八七七)「タルタラン」三部作(一八七二、一八八五、一八九〇)なども、ユーモア、詩情、人間愛等などで、多く子どもたちによろこばれている。
宮廷文学の伝統をひく子どもの文学をつくったのは、「ろば物語」(一八六〇)で名高いロシア生まれのセギュール夫人(一七九九〜一八七四)である。「ドゥーラキン将軍」(一八六四)「ひとのいい小悪魔」(一八六五)など、数多くの童話を残したこの作家をポール・アザールは「そこには、自我に溺れている個人ではなく、既製の社会の描写が見出される。ひとりひとりの人間を社会的グループという枠の中にはめこむこと、集団の役にたつように、個人を陶冶し、磨き、その一員にしてしまうこと、これが彼女の芸術の本質である*」と定義し、ロシア的な面とフランス的な面の混在を指摘して、さらに「昔の人びとの生活がわかるということ、彼女の本が、いつまでも読者を惹きつけていられる秘密のひとつは、たしかにこの点にあるように思われる**」とのべている。
ロマンチックな作品から出発し、空想社会主義傾向に、つづいて農民の質実な生活をうつした田園小説にとつぎつぎに作風をかえて多作し、政治的にも積極的に活躍したジョルジュ・サンドは晩年、孫たちのために「おばあさまのお話」(一八七二〜七五)二冊をかいた。中でも有名なのは「ものをいうカシの木」「ばらいろの雲」「ピクトルデュの館」などで、美しい幻想と現実の交錯を通じて人間の生き方を追求している。サンドの作品は童話だけでなく、民衆のありのままの生活をえがこうとした田園小説、「魔の沼」(一八四六)「笛師のむれ」(一八五三)「捨子フランソワ」(一八四九)「少女ファデット」(一八四八)も子どもに親しまれ、特に「少女ファデット」は「愛の妖精」の訳名で日本でも有名である。
こうした児童文学へのうごきの底に、児童ジャーナリズムがあったことは、イギリスやアメリカとすこしもかわりなかった。一八三二年から一八七〇年まで、ジューリー・グローが「子どもの雑誌」を出したのを皮切りに、セギュール夫人の作品やホーソンの翻訳をのせた「子どもの週間」(一八五七創刊)という新聞、「教育と娯楽の雑誌」(一八六四)などが続出した。特に「教育と娯楽の雑誌」(一八六四)は、ベルヌの最初の空想科学小説「五週間の気球の旅」を出版したピエール・ジュール・エッツェルが、その成功を見て、ベルヌの作品を連載できるように、はじめたといわれるだけあって、ベルヌをはじめ、「かもめ岩」のジュール・サンドー、、「家なき子」のエクトル・マロ、イギリスのディケンズ、ライダー・ハッガードなどの作品から、文学でない読物にも一流執筆者を動員した、すぐれた雑誌であり、第一次世界大戦にいたるまでつづいた。
* ポール・アザール「本・子ども・大人」矢崎源九郎訳、一八五ページ、紀伊国屋書店。
** 前掲書一八七ページ。
ドイツ
十八世紀から十九世紀にかけてドイツにおこったロマン主義運動はグリム童話集をはじめとするたくさんの童話を生みだしたが、それを契機に近代的な空想物語が発展することはなく、むしろ十九世紀ドイツの児童文学は十八世紀からつづいた教訓主義の線上にあった。
十八世紀の末、ルソーの教育論の影響を受けたヨハイム・ハインリヒ・カンペ(一七四六〜一八一八)はルソー流に自然の中に人間をえがくために、デフォーのロビンソンよりもっと条件がわるい中で無人島に漂着する男の物語「新ロビンソン」(一七七九)を出版し、自己の教育観を子どもにむかって発表した。これは教訓を明確にもっていたが、あきらかに子どもの娯楽を目的としたものがであり、またとにかく無人島生活をあつかったものだったのでよく読まれ、直接的な後継者として「スイスのロビンソン」(一八一二〜一三)を生んだ。そしてこのロビンソナードからたくさんの冒険小説があらわれた。カール・ポストル(一七九三〜一八六四)が、一八一二年のアメリカとイギリスの戦争をクーパー流にかいた。「白ばら」(一八二八)や、テキサス独立運動をかいた「船室の書」(一八四一)などは大人のものだが子どもにもよろこばれ、インディアン物や近東地方での冒険物語をかいたカール・マイ(一八四二〜一九一二)もよろこんでむかえられたが、ついに「宝島」に匹敵する冒険小説の典型を生むにはいたらなかった。
十八世紀の教訓主義はまた一方で、家庭を中心とする物語をたくさんに生んだ。牧師でありまた教師でもあったクリストフ・フォン・シュミット(一七六八〜一八五四)は「子ども聖書物語」や「復活祭のたまご」(一八一六)を書いて子どもの教化に用いたし、やはり教師であったグスタフ・ニールリッツ(一七九五〜一八七六)も、「アレクサンダー・メンツィコフ」「めくらの男の子」「フェトルとルイーゼ」「まずしいバイオリン作りとその子」などを発表した。そのほか多くの作家たちがいるが、彼らはみな、キリスト教的世界観を基礎にした日常生活のあり方について、子どもにお説教することが多かった。しかし、このグループの流れの中で、一人だけ現在にいたるまで世界的名声をえている作家があらわれた。スイスのヨハンナ・スピリ(一八二七〜一九〇一)である。
医者の家庭に生まれたヨハンナ・スピリは母親となってやや手のあいた一八六八年ごろから、はっきりと教訓を目的として文筆活動をはじめ、「ハイジ」(一八八〇)をはじめとして「グリトリの子どもたち」(一八八七)「ウィルデン・シュタインの城」「コルネリ幸福」その他たくさんの子ども向き作品を生んだ。「ハイジ」は教訓的ではあったが、単調に流されない事件の展開、ハイジ、ペーターなどの人物描写のたくみさ、スイスの自然や生活描写の新鮮さなどで永い生命を保っている。その他の作品も時代と風土の与えるたのしさ、日常生活的であるおもしろさなどをふんだんにもっていて今も読まれているが、構成もストーリーも人物像の点でも、「ハイジ」に匹敵するものは一つもない。主人公の運命の変転と神に意思によるハピーエンドという通俗小説的手法もスピリの作品の魅力の一つであろう。
ドイツの教訓主義的児童文学は、「ハイジ」と「スイスのロビンソン」という二つの世界的作品を生みだしたが、その他の大部分は今日忘れられてしまい、この世紀を代表するすぐれた作品は、むしろ大人の作家の中からあらわれてきた。
ナポレオンからの解放戦争が封建勢力を逆につよめる結果になったとき、ロマン主義はおとろえたが、一八三〇年のフランス七月革命、一八四八年の二月革命とドイツの三月革命は新しい写実主義の文学を生みだした。この新しい文学も市民革命の失敗によって大きく実をむすばなかったが、はげしくゆれうごく政治に参加せず、大地と郷土に密着して新しい文学をつくった人たちがいた。それらの人びとの作品の中から、子どもにも読まれるものや、子どものための作品が生まれた。
アーダルベルト・シュティフター(一八〇五〜一八六八)は「とりどりの石」(一八五三)で、郷土の自然の美と、その中でいとなまれる人びとの、信仰あつく、しずかだが充実した生活をえがいて大人をも子どもをも感動させた。中でも「水晶」は有名で、百年以上をへた今日でも世界各国語に訳されて子どもたちに読まれている。
シュティフターとはやや流派がちがうシュトルム(一八一七〜一八八八)は子どもの雑誌に「人形つかいのポーレ」(一八七四)をかいた。シュトルムの文学は人間の内面や夢や過去をえがく傾向がつよいといわれるが、子どものために書かれたこの作品も同様で、老人が少年時代を語る形式をとり、少年の心理の動きをあざやかにえがきだしている。話が単なるノスタルジヤにおちいらず、十九世紀前半の世相の活写に支えられた人生観が、教訓的でなく提出されている。彼の大人の作品「みずうみ」(一八四九)や「白馬の騎士」(一八八八)も高学年の読物にくりこまれている。
軍医として普仏戦争に参加したリヒャルト・レアンダー(一八三〇〜一八八九)はパリ攻撃の余暇に故郷の子供たちにむかって「フランスの炉辺の幻想」(訳名「ふしぎなオルガン」一八七一)を書き送った。二十余の短編は、単純で奇抜な着想のものが多く、寓意も、信仰、美徳の強調よりもむしろ、人生の知恵を感じさせ、はだざわりがやわらかな作品集である。
ほかにもスイスの農民生活をえがいたイェレミアス・ゴットヘルフ(一七九七〜一八五四)の民話的な作品「黒いくも」(一八四二)、ヘーベル(一七六〇〜一八二六)の「ラインの家庭の友の宝庫」(一八一一)、マイヤー(一八二五〜一八九八)の「少年の悲しみ」(一八八三)ケラー(一八一九〜一八九〇)の「みどりのハインリヒ」(一八八〇)「ゼルトビラの人びと」(一八五六〜七四)などが子供たちに読まれている。
しかし、一般的にいって十九世紀のドイツの子どもの本は、イギリスやアメリカにくらべて水準がひくかったので、一八九六年にハインリッヒ・ボルガストは「わが国の児童文学の惨状」を発表し教訓主義や極端な愛国主義の文学を廃し、子どもの内面を、豊かにする芸術品である児童文学の創造をうったえた。これを直接のきっかけとして、二十世紀になると、すぐれた児童文学がつぎつぎに生まれてくることになる。
その他の国々
イタリアは、コッローディ(本名カルロ・ロレンツィーニ・一八二六〜一八九〇)の空想物語「ピノッキオ」(一八八三)とエドモンド・デ・アミーチス(一八四六〜一九〇八)の「クオレ」(一八八六)の二つを世界の子どもに送った。
「ピノッキオ」も「クオレ」もあきらかに教訓主義の時代の産物である。まだ形をなさない木切れのうちからいたずらをはじめ、人形芝居の誘惑にまけて学校をなまけ、甘言にのせられて首つりにされ、悪友にさそわれてなまけものの国へ行くピノッキオは、物語全体が悪童の改善物語である。しかし、教訓がどんなに強くても、それはピノッキオのはつらつとした悪童ぶりに圧倒されてしまっている。作者はあきらかに教訓を意図しながらも、なお、子どもの本質を理解し、それに深く共感していたのである。直接的な教訓の伝達になれていない現代の子どもにピノッキオが魅力をもつ原因の一つは、ここにあると考えられる。そして、怠惰や親不孝やうそなどに対するこらしめの奇抜さ、物語の展開の奔放さは、世界の児童文学の中でも、たぐいまれな独創性をもって子供たちの想像力を刺戟する。二十世紀になってたくさんにあらわれたおもちゃを主人公とする物語は、多かれ少なかれみな「ピノッキオ」の影響を受けている。この作品がつたえようとするモラルは、表面的にはよい子づくりである。しかし、「食って飲んで、ねて、遊んで、朝からばんまで、のらりくらりとくらす」子どもは「まず、慈善病院にはいるか、牢屋にぶちこまれることになる」という考えの根底には、一八六一年のイタリア統一からはじまった新しい国づくりに対する民衆の参加の姿勢があったと考えられる。
時代の要請が作品のモラルとなっている点では、「クオレ」の方が写実的であるだけにはるかにつよい。小学四年生エンリーコの日記に父母や姉のことば、先生の毎月の話をおりこんだこの物語は一人の小学生の魂の形成をえがいた成長の物語であったが、それが新しい統一国家建設という熱狂的雰囲気の中でおこなわれたところに大きな意義があった。ポール・アザールは「子供たちのために書かれたこの本は、なによりもまず愛国心を子どもに持たすための日読祈祷書であった。またいっぽう、この本は過去のおけるイタリアの貸借関係をも明らかにしようとしている。つまり、イタリア史を支配する最大の課題は、統一の実現ということである。そのため、この統一への国民の悲願を子供心にも植えつけることが大切なのである」とのべて、この本の魅力を祖国愛においた。だが、その祖国愛は植民地的支配からの開放という時点で発揮されていて、帝国主義的に変貌するにいたらず、人間関係も富の差が人間価値の差と同一視されることや、しごと自体に上下の別のあることを拒否する健全さをもっていた。カナダのトロント公共図書館児童部のジーン・トムソンが編集した定評あるブックリスト「少年少女の本」が「ピノッキオ」をリストに含めながら「クオレ」を除外しているのは、センチメンタルの評を受ける熱狂的な愛国心の吐露を、先進国的感覚が拒否しているのかもしれない。いずれにしても、イギリス、アメリカの良書リストのほとんどがこの作品を除外する一方で、日本などが名作として紹介に力をそそいでいるところに、この作品の魅力のかぎがあるのだろう。
ロシアでは、「十八世紀の末から十九世紀のはじめにかけて外国の児童百科が翻訳されたが、同時に甘い感傷的な幼年文学や興味のない教訓主義的な読物があらわれて、それらが官辺の教育界に迎えられた***」。これに対して今もって価値を失わないプーシキン、クルイーロフ、アファナーシェフらの民話の遺産にのっとった文学が生まれたことはすでにのべたが、彼らについで、ネクラーソフ、ツルゲーネフ、レフ・トルストイといった十九世紀ロシア文学の偉大な作家たちも、真に子どもを幸福にするための文学をのこした。
「おとぎ話や感動的な小さな歌やおもしろいなぞやたのしい笑い話をつくったり、何世代もの、何百万もの子どもやおとなによろこばれるスケッチをかくことは、ちょっとの間何人かの富裕な人たちの気ばらしになって、すぐにわすれてしまう小説をかいたり絵をかいたりするより、はるかに重要であり実りが多い」と宣言したレフ・トルストイ(一八二八〜一九一〇)は、文明に疑問をいだいて生地ナースナヤ・ポリャーナで農民生活をした一八六〇年代から、子どものための物語を書きはじめ、「わし」(一八七二)「コーカサスのとりこ」(一八七二)「人は何で生きるか」(一八八一)「イワンのばか」(一八八五)などの傑作をのこした。彼の短編の多くは、民話のもつ単純で明快な語り口にのせて、彼の全思想を反映させている点、芸術的にもひじょうにすぐれ、内容的にも高い。
アントン・パヴロヴィッチ・チェーホフ(一八六〇〜一九〇四)も「でこしろ」「カシタンカ」で、いぬの本性をたくみに把握したおもしろい動物物語をかき、短編集「子どもたち」(一八八九)では、子どもの外面と内面にわたる観察のするどさを見せた。
フセーウォロド・ガルシン(一八五五〜一八八八)は悪への抗議にみちた苦しい文学活動にたえきれず、精神のはけ口として民話伝説風な童話「信号」「アタレア・プリンケプス」「かえるの旅行家」(一八八七)「心おごれるアゲイの話」などをかいた。軽妙で単純なこれらの話には、苦しみの末にもたもたれている、人間信頼の念がつよくながれていて美しい感動をさそう。
ニコライ・ネクラーソフ(一八二一〜一八七七)は「ロシアの子どもたちにささげる詩集」(一八六七〜一八七〇)で、ロシアの農村とそこに生きる大人と子どもの姿を、深い愛情をもってえがいた。
ウシンスキー(一八二四〜一八七〇)は、ロシアの小学校教育を指導し、国語教科書をつくったが、民話は自然の美をうたったものは、お話としてよんでもひじょうにすぐれている。
ほかに、ロシアの大地とそこに生きる人びとをしずかな筆で書き、はたらくものへの無限の愛情を示したマーミン・シビリャーク(一八五二〜一九一二)やドストイエフスキーの短編なども子どものりっぱな読物となっている。これらの作品は程度の差こそあれ、すべてが十九世紀ロシアの現状を批判し、正しい人間の生き方を子どもに示そうとした点で共通している。そこが現在にいたるも生命を失わない理由であろう。
北欧では、十九世紀のおわりにいたるまでアンデルセンの作品とアスビョルンソン、ムー共著の「民話集」以外には、フィンランドのザカリ・トぺリウス(一八一八〜一八九八)の「子どものための物語集」(一八六五)くらいしかない。トペリウスは民話を基調にした物語が多く、キリスト教信仰につらぬかれ、またフィンランド独特の風土を反映した幻想性にみちている。
* ポール・アザール「本・子ども・大人」矢崎源九郎訳、一七五ページ、紀伊国屋書店。
** ”Books for Boys and Girls”compiled by Jean Tompson (RyerstonPress 1959)
*** マクシム・ゴーリキー「児童文学と教育」東郷正延訳、三三七ページ、新評論社。
テキストファイル化桜井岳