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こんなことを書くとフェミニス卜の皆さんに怒られそうだが、男が一人でケーキ屋さんに入りケーキを食べるというのは、けっこう勇気がいるものである。何より、注文するときが恥ずかしい。チーズケーキくらいだったたらまだしも、苺ショートはテーブルに置かれるときを想像するとかなり気が引けるし、いわんやパフェなど、もっての外である。できれば女性とともにテーブルにつき、さも彼女のために注文するのだという風情で頼みたい。そうして、問答無用に彼女の前に運ばれた一品をそうっと自分の方に引き寄せ、少し人目を気にしつつ、さっさと食べてしまいたい。が、もちろん、いつもいつもそんな好機に恵まれるとは限らない。そういうとき、男は何食わぬ顔でケーキ屋に入り、そして、ひっそりケーキを食うのである。 それで、これは何の話かというと、子どもの本の話である。「子どもの本」というのは、メンドくさいもので、ジャンルや内容いかんに関わらず「大人が子ども向けにつくった本」のことを言う。厳密に考えれば、そういうことになる。そうしたものたちを、とりあえず童話と呼ぼうが、児童文学と呼ぼうが、あるいは、絵本なんかを想像なさっても構わないのだが、まあ、とにかく、この世の中には、何となく「子ども向けの本」だな、と思われているものが存在している。つまり、本屋さんに行けば、児童書コーナーと呼ばれる棚がちゃんとある(とはいうものの、最近はとみに縮小の傾向にあるというが…)。 その棚には、大人の本に見られるものならおおよそ何でも、あらゆるジャンルのものが並べられているはずである。小説あり、ミステリーあり、SFあり、時代物あり。図鑑もあれば、ノンフイクションもあり、実用書だってちゃんとある。無いものはといえば、たぶんポルノくらいのもので、それはもちろん、大人が子どもに読ませたくないからに決まっている。 さて、そんな子どもの本なのだが、実は、大人の中にも愛好者がいる。子どものころからずっと好きなまま大きくなったという人もいれば、大人になってから出会ったという人もあり、また中には、子どもの本だと特に意識もせずに好きな本のひとつとしてそうした作品を数え上げる人もいるのである。 それで思うのだが、子どもの本というのは、お菓子みたいなものじゃないんだろうか。 お菓子というのは、とりあえず、甘いということになっている。けれど、甘くないお菓子だってこの世の中にはたくさんある。また、とりあえず、お菓子の愛好者というものは子どもや女性ということになってはいるが、しかし、それを好むか好まないかは年齢性別に関係がない。上品な和菓子や高級洋菓子もあれば、いかにも駄菓子という代物もあり、その種類はさまざまにある。が、にもかかわらず、お菓子はお菓子であってお菓子以外の何物でもない。そういう共通認識が世間にはある。そして、それで何の不都合もない。 これは、子どもの本も同じである。 中には、良質で上品な味わいを持つ児童文学や絵本があり、『これぞ! 子どもの本』として大人に愛され子供に与えられようとする。だが、スーパーのお菓子の棚が大手メーカーの量産品で埋めつくされているように、一般書店の児童書コーナーは大手出版社による昔話のダイジェス卜版やキャラクター物にその棚の大部分を占められている。しかも、よくやく見れば、グチャグチャどろどろにして食べるお菓子のように、思わず大人が眉をひそめるタイプの思いっきり子どもの嗜好に寄り添ったやつも売られていて、けっこう毒々しい配色だったり下品なデザインだったりする。 こうした本もすべてひっくるめ、売られている状況が、現在の子どもの本の風景である。とりあえず良質だと思われている「子どもの本」の周りに、量産品が並びそれらが重なり合って世の中の「がき本」が形成されている。けれど実は、こうした販売構造は今に始まったことではないのである。戦前から、さらに、高度経済成長に乗った子ども向け出版物の増加期からずっと、こんな具合であったのだ。 では、何が変わったか。そう、「子どもの本」としてイメージされる純正品の品質が落ちたのである。詳しい話は次からにさせてもらうが、簡単に言うと、作家、出版社の人たちの怠慢ということになる。六○年代から七○年代前半にかけて定型化したシステムに浸り切ったままで、作品を書き、本を作り、売っていった。そして今、そのツケが回ってきたという寸法である。 とはいえ、子どもと本が出会うところ、そうそう悪い話ばかりじゃないわけで大の大人がそうっと買いに行きたくなるようなおいしい本もあるのである。明日以降はそんな話を書いていくので、どうかよろしく。
西日本新聞1996,03,20
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