がき本の現在
子どもと本の交差点

(2)

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
     
 さて、「がき本」の現在の二回目にあたる今回は、純正児童文学の話をさせていただこうと思う。
 ちなみに、この「純正児童文学」という呼称は、今僕が創ったもので、一般性のある言葉でない。そんなわけで、まずほじめに、何でそんな言い方をしなければならないか、ということからご説明させていただき、今日の話を進めていこうとと思う。
 児童文学というものの定義は、あるようでいてない、いや、実は、辞書・辞典の類を引くと「児童を読者対象として大人が書いた文学」などという説明がのっ、ていて、ひとまずそれが定義といえば定義になるのだが、しかし、よくよく考えてみれば、この説明を読んだところで、児童文学というものの内容的な特徴はわからずじまいのまま、そう、これが困った点なのである。
 ところが、だ。現実モンダイ、世の中に出回っている文学作品や、映画、演劇、マンガなどに触れたとき、思わず知らず「ああこれは児童文学だな」と感じる瞬間がある。なにも児童を読者対象としている作品でなくとも、内容が「児童文学している」作品というのが存在するのである。たとえば、最近読んだところでは、宮部みゆきという作家のミステリー作品など、その持ち味に児童文学的テイストを強く感じる。彼女のすべての作品とはいわないが、八割がたそうだといっても過言ではないと思う。

 で、純正児童文学である。子どもをモチーフとしてその特性をフルに生かし、物語の展開を引っぱっていくタイプの作品が世間にあふれている現在、その中の、子どもを読者対象として出版された作品に限り、とりあえず純正児童文学と呼んで語ってみたいのだ。
 さて、純正児童文学、あるいは純正子どもの本の現状は、前回書いたとおり、定型化したシステムによる販売のあり方に原因して、低迷の兆しが見えはじめている。だが、そうした中にあって、可能性の見える兆候がないわけではない。
 つまり、八○年代の後半くらいから、戦後児童文学の第二世代が動き始めてきたのである。作家、編集者、書店員、図書館員、そして、子どもに本を買ってやる親たちの中に、児童文学や絵本を、子どものころからごくふつうに読んできた者たちが増えてきたのだ。 戦後日本の子どもの本は、五○年代末から六○年代を通し一気に花開いてきた。寺村輝夫の「王様シリーズ」のはじめである『おしゃべりなたまごやき』、佐藤さとるの『誰れも知らない小さな国』、神沢利子の『ちびっこカムの冒険』『くまの子ウーフ』、中川李枝子の『いやいやえん』『ぐりとぐら』など、現在もなお名作といわれ、すでに古典と化したといっていい作品は、たいていこの時代に生まれている。また、岩波書店をはじめとするさまざまな出版社から、海外の翻訳作品が続々と出版されたのもこのころである。当時の作品の送り手たちの、新しいものを創り出そうとするエネルギーはおそらく素晴らしいものであったろう。児童文学とは何か? よい子どもの本とはどういうものかを、常に問い直しつつ作品を世に送り出していったに違いない。

 そうして、七○年代に入り、彼らの理念は定型に向かう。教育と寄り添う形で、作品の素材を選び、本を作り、売っていくようになったのだ。だから、那須正幹の『ズッコケ三人組』シリーズや、矢玉四郎の『はれときどきぶた』など、このシステムから離れたところで子どもたちに受け入れられていった作品は、一部の子どもの本関係者から露骨に嫌われたのである。
 戦後児童文学の第二世代とは、こうした時代に子どもだった者たちだ。彼らは児童文学や絵本を、ウルトラマンや仮面ライダー「りぼん」や「ジャンプ」、あるいはキティちゃんなどの、他の子ども文化と一緒くたに享受した。彼らは子どもの本を、理念としてではなく、ひとつひとつの作品の持ち昧として理解していった。しかも、重要なことは、それを子ども文化の唯一絶対のものとは考えず、たくさんある中のひとつとして捉えることができるのだ。これは、第一世代と決定的に違う特徴といえる。そして、なにより、強昧なのだ。
 そうした作家の代表として、『空色勾玉』『白鳥異伝』の荻原規子、『お引越し』『カレンダー』のひこ・田中、『ルラルさんのにわ』『おさるのまいにち』のいとうひろし、『8OO』の川島誠、『宇宙のみなしご』の森絵都、『サマータイム』『ハンサムガール』の佐藤多佳子、『キツネ山の夏休み』の富安陽子、『夏の庭』の湯本香樹実、『ルドルフとイッパイアッテナ』の斉藤洋などの名を挙げることができる。彼らの作品の特徴は、まず第一に読んでいておもしろい。子どもを読者対象とする作品を書くのじゃ〜! という気負いが、いい意昧で希薄なのだ。たまたま作品を書いたら児童文学だったのよね、というような緩やかな構えから、「何を語るか」より「どのように物語るか」ということに細心の注意を払っているのだ。彼らの作品は、なにも子どもに限らず、大人だって読んでいて損はない。
 このような書き手は、少しずつかもしれないが、続々と誕生してくることだろう。すでに、そういう時期にきているのだ。ただ、唯一の心配は、あいかわらずの既成システムに乗っかって、内容、デザインともにダサイ本を作り続けている純正児童文学というメディアを、そんな作家たちが見捨ててしまわないかということなのだが・・・。
西日本新聞1996,03,22