がき本の現在
子どもと本の交差点

(5)

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
    
 世の中には、とってもあたり前すぎて、改めて問い直してはいけない雰囲気の事柄というやつがある。
 がき本のからみでも、そういう自明性に取りつかれた面倒くさい問題はあって、実は、例の「子どもが本を読むのは良いことだ」という前提こそ、意外にやっかいな代物だと思う。
 別に子どもの本関係の出版物でなくとも、ふつうに新聞を見ていれば、「最近の子は本を読まなくなった」だの、「マンガやフアミコンや塾に時間を取られて読書の時間が減っている調査結果」だのが、憂うべき問題として見出しに書かれているのを目にすることができる。あるいはまた、母と子だの、親子だのの「読書運動」ってやつが、教育っぽい場所で熱心に進められていたりする。こうした状況を見るかぎり「子どもが本を読むのは良いことだ」という疑いようもない共通認識が、この世の中には存在するに違いないのだ。
 だが、はたして? ほんとうに? 子どもが本を読むってことは、そんなに良いことなんだろか?
 目は悪くなる。理屈っぽくなる。経験してもいないのに、わかったような気になる。と、考えてみればロクなことはない。しかも、何かのきっかけで重度の読書家にでもなろうものなら、外で遊ばなくなり、友達が限定され、教師をバカにして、やたらと減らずロを効く、子供らしくないガキになってしまうのだ。僕自身がそうだったから自信を持って断言するが、こういうのは絶対に大人に嫌がられる。なんたって大人は、子供らしい子供というやつが好きなのだ。義務教育の間に担任教師に嫌われると、特に今の時代、ほんとうに悲惨だぞ。

 で、何がいいたいのかというと、結局、読書なんて行為も娯楽のひとつに過ぎないんだ、ってことを確認しておきたいのである。そうして、読書も娯楽のひとつなら、他の遊びにシェアを奪われることがあったっておかしくはないよね、ということをいいたいわけである。
 ここ十年ばかり、ファミコンのせいで子どもが本を読まなくなった、という話をよく耳にする。その前は、マンガのせいだった。でも、それは大人の一方的な思い込みによる誤解なのではなかろうか。大人の読ませたい子ども向きの本にはつまらないものが多いから、読まない。で、何種類かのゲームソフ卜はできが良くておもしろいから、やり続ける。たぶん、ニのふたつの現象に直接的な因果関係はないはずだ。大人の目に映る子供の時間の使い方が、たまたま、そう見えてしまうだけである。
 コンピュー夕ーゲームというメディアの不幸なところは、広く一般化するにあたって、批評技術を持たない子供という人たちを中心に普及していった点にある。
 ブロック崩しからインべーダーゲームへの流れの中で、ゲーム機は喫茶店や駄菓子屋の店先を舞台として全国化していったのだが、この段階ではまだ、特に子供の遊びとして意識されていたわけではない。子供も大人も、というよりむしろ、お金を持った大人の方が積極的に遊んでいた。ところが、一九八三年に起きた革命的事件で状況は一転する。任天堂が、子供にターゲットを絞った家庭用ゲーム機、ファミリーコンピューターを発売したのである。この機械が爆発的に普及するのは、八五年の『スーパーマリオブラザーズ』の大人気による。このとき、子供の「どうしても欲しい!」攻撃に負け、クリスマスや誕生日のプレゼントとして買い与えた親も多いはずだ。そして『ドラゴンクエス卜』 『ファイナルフアン夕ジー』 『テ卜リス』といった超有名なンフ卜の登場によって、十年と経たずに一千万台を突破する。

 こうして、コンピュー夕ーゲ‐ムは家庭内の遊びとしてその位置を確保し、さらに子供と結びついた物として世間に認知されるようになっていった。これが、現在のコンピューターゲームに対するイメージの元である。特定の会社の商品名であるファミコンが、そのままコンピューターゲームの代名詞として通用してしまうのが、何よりの証拠といっていい。だが、物としてのファミコンは子供のいる家庭を中心に普及したものの、それがどのような遊びなのかは知れれないままだったのだ。
 そんなバカな、と思われるかもしれない。その物体は目の前にあり、子供はといえば目障りなほどにやっているのである。だが、たまたま入った映画館で三十分ほど何かを観て映画の何たるかなどまるっきりわからないように、ファミコン本体をさわったり、あるゲームをやっているのを目撃したり、ちよっとだけ試しにやらせてもらったりしたところで、コンピューターゲームとはどういう遊びかということなど、決してわかりはしないのだ。
 プレイ中の画面は見えるし、子供は夢中になっている。しかし、自分には理解できない。という状況に立たされたら、どんな親だって不安になり、それに嫌悪感を持つだろう。こうしてフアミコンは不評を買い、読書離れのぬれぎぬを書せられた。これが、おそらく、真相である。ファミコンの話は次回へ続く。(評論家)
西日本新聞1996,03,27