がき本の現在
子どもと本の交差点

(6)

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
    
 というわけで、今回はコンピューターゲームの話の二回自である。
 ファミコンに代表されるコンピューターゲームを目の敵にしている大人も少なくないが、しかし、そんな人に限って、ファミコンがメディアであることすら理解していないことの方が多いものだ。シューティング・ゲーム、アクション・ゲーム、ロール・プレイング・ゲームなどなど並べると長くなるからこれで止すが、たとえファミコン(今なら、主流はスーファミ)という機械を使っていても、ここにはたくさんのジャンルがあり、それぞれに個性を持った作品があることくらい、今や常識といっていい。

 さて、このコンピューターゲームというやつは、意外に思われるかもしれないが、実は、活字メディアと切っても切れない関係にある。それがなければ成り立たないといってもいい。ゲーム雑誌と、いわゆる攻略本があればこそ、この遊びが、これほど急激に昔及してきたのである。

 ゲームソフ卜というものは、困ったことに、二、三時間プレイしてみるまで、できの善し悪しや、向き不向きがほとんどわからない。金と時間をふんだんに持っている大学生ならいざ知らず、限られた小遣いの中でソフ卜を購入する子供にとって、この、やってみるまでわからないという性質はひとつの障害となる。
 もし、選択を誤って、めちゃくちゃできの悪いゲームソフ卜をつかまされた日には悲惨である。店に持っていっても取り替えはきかない、しようがないから、友達と貸し借りして別のソフ卜で遊ぼうと思っても、取り引きの上で弱い立場に立たされ、センスを疑われる。思い余って中古屋に売りにいったとしても、買いたたかれてしまう。だからこそ、子供は、実にシビアな目でソフ卜を選ぶのだ。
 おもしろいものを確実に手に入れるために、ゲーム雑誌を読み、さらに、ロコミによって信報を交換しあう。この点、読書を趣味にするよりも、友達付き合いはよっぽど重要になる。また、ゲームソフ卜を手に入れた後も、それを十二分に楽しむために、攻略本や雑誌を読んで研究をする。こうして子供たちのニーズに応える形で、ゲーム関係の活字メディアはより充実していった。見る見るうちに雑誌の数は増え、その内容も洗練されていったのだ。

 コンピューターゲームをより楽しく遊ぶためには、雑誌や本を読むことが必要なのだ。お話の本を読んでいるわけではないけれど、子供たちはゲームという遊びに触れることで、文字を通して何かを理解するという行為をおこなう。このことは決して見逃してはならないことである。
 世の大人は、子供が読書をすればそこに何かの効用があると信じている。いわば、賢くなる(かも知れない)と思っているわけだ。しかし、どんな本を読むのかによって、その内実が変わってくるのは、もちろん当然の話である。あえて共通の効用を探すとすれば、それは字を覚え、書き文字文化に慣れていくということくらいだが、これならゲームでもOKというのは今述べたとおりである。
 いや、本ならば知識が身につくではないか、という反論もあるかもしれない。確かに、こと知識に関していえば、歴史に材を取ったシミュレーション・ゲームでもない限り、現在のコンピューターゲームに期待するのは難しいといわざるを得ない。だが、将棋やオセロをやって知識が身につくことを期待する人はいるだろうか。もちろん、そんな人はいない。なぜなら、そうしたゲームが、一定のルールの中で変化に対応していく、いわば頭を使一うための卜レーニングであることを、みんなが熱知しているからだ。そして、コンピューターゲームの本質も、実はこうしたものなのだ。あの、激しく移り変っていく画面からはなかなか見えてこないが、あらゆるコンピューターゲームは基本的に数学か論理学である。一定のルールに従い、解法を導いていく、そんなもんなのである。
 「よーしッ」だの「やられたァ」だのいいながら、一心不乱に画面を見続け、コン卜ローラーを素早く押し、話しかけても返事もしない状態ばかりが目について、これはいくらなんでも賢くなっているとは思えないコンピューターゲームだろうが、まあ、あらゆる遊びと同様に、やったらやったで必ず何かは残る。それを効用にするか、害にするかは、人それぞれというやつで、これは何だろうと変わらないはずだ。

 大人自身が楽しむこともできない本を、ためになるとか何とかいって、無理やり読まされる子供はたまったもんではない。読書も同じ、ゲームも同じ。どちらも遊びなんだから、止せといわれてもやるくらいがちょうどいい。子供も大人も、ほんとうにおもしろいものしか続けて遊ぼうとはしないのである。
西日本新聞1996,03,27