コドモの切り札

(8)

過剰反応の原因

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
         
    
 この頃ずっと、矢野顕子のCDを聴いている。『Hitotsudake』(EPIC/SONY)というべスト曲集で、これがけっこう良いんである。さて、その中に、「夢のヒヨコ」という曲が入っている。これは、フジテレビ系「ポンキッキーズ」のテーマ曲として使われたものだから、耳にされた方も多いかもしれないが、いやー聴き込んでみると実に味わい深い歌詞なのよ。ちなみに、作詞は糸井重里で、やっぱり、うまいです。
「♪コドモはオトナじゃないですけれど/オトナじゃできないこともする」という一番には、もちろん、ビックリしない。けれど、2番がスゴイのだ。
「♪コドモはオトナになれるんだけれど」と歌われたら、まあ、ふつうは「オトナはコドモになれないんです」といった歌詞を想像するじゃない?ところが、そこへ「♪オトナもコドモになれるって」とくるのである。
 これは驚きます。少なくとも僕は、軽いショックを受けました。で、「♪おおきなコドモとちいさなコドモ/どっちもヒヨコを飼えばいい」という続きを聴きながら、改めて、大人だって夢のヒヨコを飼えば、コドモになるんだよねえ〜、と思ったのである。
 そして、ふと気づいたのは、もしかすると、この「オトナもコドモになれる」という意識の欠落が、太人から子どもへの過剰反応を引き起こすのではなかろうか、ということなのだ。そう、失ったものは、誰でも愛おしい。しかも、余計に美化したりするものである。その思いを目の前の生身の子どもに重ねれば、当然、小言が出るか、庇い過ぎるか、になる。うーん、困ったもんだ。
西日本新聞1996,11,24