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よい子であるかどうかの判別は、読書感想文で疑いを持たずに教師受けする文章が書けてしまうかどうかで分かる・・というのは、もちろん、言い過ぎだが、でも、けっこうヤバかったりする。 話は飛ぶが、近ごろは高校生でも知っている言葉に、アイデンティティーというのがある。まあ、平たく言えば「自分らしさの証し」みたいな意味なんだが、この言葉の便利な点は、その根拠を自分の内側に求めてもいいし、外側に求めてもいい、というところである。 うん、つまりは、ここ十五年くらいの間に人間に対するとらえ方が変化し、「自分なんて意識は内側ばっかりじゃなくて外側との関係の中でも生まれるよね」というカンジになってきたということなのだが、たとえば、夏目漱石先生の時代には自我と向き合うために山寺に行かなくちゃならなかったものが、現在では、整形手術とか、自己啓発スクールとかに行って、お金で買えてしまうよね、という意味でもある。 で、話を戻すと、よい子の持つ危険性は、ここにある。いわばよい子というのは、外側に映るアイデンティティーだが、それにばかり寄り掛かっていると、自由とか冒険とか、新しいこと、予定外のことに対して、ものすごく弱くなってしまうのである。子どものうちはいい。けれど、大人になったとき、その反動はジワリと出る。 だから、宿題などで、読書感想文を子どもに強制するのはヤバいのだ。本来は逃避的で個別的な営みである読書を教育の名のもとに破壊し、長期的展望もなく「よい子」をつくろうとするのは横暴である。 こうした戦後日本の子どもの本質を、季刊「ぱろる」5号(パロル舎)は浮き彫りにした。子どもの本に関心のある方にはぜひとも読んでほしい、と編集長は言っている(僕だけど・・)。
西日本新聞1996,12,22
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