コドモの切り札

(21)

「慣れ」のコワさ

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
         
     
 何かの出来事に対し、「それはそういうもん」と分類できるようになっ
たら、大人である。判るというのは、たぶん、それ以上の関係を断つこと
で(だから「判断」なんだろうけど)、それは一種の「慣れ」なのだ。
 妹尾河童年H』(講談社)を読みながらつくづく感じたのは、この大
人たちの「慣れ」によってメチャクチャになっちゃったということだ。そして、大切なのは、これが決して特例ではないということである。
 リヒターというドイツの作家に『あのころはフリードリヒがいた』(岩波少年文庫)という作品があるが、ここにも同様に、ナチズムの嵐が吹き荒れ戦争へと向かう道のりを、大人たちが「慣れ」によって容認していく過程が描かれる。思えば、この作品も少年の眼を通すことで淡々と状況を語ることに成功しており、『少年H』と合わせて読めば興味深さもひとしおである。
 ところで、近代教育ってやつは、野蛮な子供をなるべく早く理性的な大人にすることが目的だから、その経過は無視しても、理性的な判断にいち早く慣れた子供を優等生と呼ぶ。例えば、分数の割り算なども「1/2÷1/2」ってどういうこと?」なん
て本質的な疑問を持ったらダメで、とにかく、わけわかんなくてもいいから「後にきた方の分母と分子をひっくり返して掛ければいいのだ!」と習慣的にできるようになれば褒められるのだ(もっとも、これに答えられるようなセンセイも減多にいないだろうけど・・・)。
 とすれば、だ。
 戦前、戦中に限らず、昨今耳にするお役所がらみのメチャクチャなお話も、元優等生諸君の適応能力の高さによった「慣れ」が、原因している可能性は大である。「公務員とは公僕である」と答えられても、その本質への理解がない元良い子に
は、悪質な横領に与しているという自覚は生まれないのだろう。
西日本新聞1997,02,29