甲木善久
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近代以前の時代、〈子供〉は存在しなかった。と書くと、変なことをいう奴だ!と思われる方も多いだろう。だが、実はアリエスの『〈子供〉の誕生』が世に問われて以降、学問世界では、この考え方はひとつの常識となっているのである。 ったく!学者ってのはすぐに、こういう理屈をこねくり回すからキライだよ。いつの時代だって子供はいたに決まってるじゃないか。そうでなきゃ、とっくに人類は滅びてるよ。と、おっしゃりたい気持ちは良くわかる。 けれど、これはこれでナカナカ面白い考え方だから、まあ、ひとつ読んでやってくださいよ。 子供はうるさい。べとべと、ねとねとしたものが好きである。しばしば擬人化して物事をとらえる。ときどき可愛くて、ときどき憎たらしい。などというのは、たぶん、いつの時代も変わらないものだったろう。だが、それを大人でないものとして囲い込み、教育し、保護しなければならない〈子供〉として意識するようになったのは、近代になってからである。んで、ここから何がわかるかというと、つまり、〈大人〉あっての〈子供〉なんだよね、ということに気づくのだ。 ならば、今のように大人が〈大人〉としてシャンとしていない時代、子供が〈子供〉らしくないのは当然なのである。これは善いも悪いもなく、近代という思想がヤバッこくなった時代の必然だと認めてやるしかない。 さて、こうしたことを踏まえ、大平健『顔をなくした女』(岩波書店)の「〈子供〉の死」という章を読んだなら、そこに書かれた内容におそらくドキリとするはずだ。 「僕たちの住む時代というのは、〈子供〉の消威しつつある時代、アリエス流に言えば『〈子供〉の死』の時代なのかもしれない」という彼の指摘には看過できない含意がある。…んじゃ、次回。
西日本新聞1997,03,09
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