甲木善久
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前回・前々回のコラムは、神戸「淳くん事件」の容疑者が中三の男子生徒だったということを知る前に書いた。が、結果的にあの内容は、この事件のひとつの鍵である「義務教育」という問題に触れてしまった。というわけで、これから少しばかり、あの事件に対して僕なりに感じることを書いてみたいと思う。 これまでの報道、論評を見ていると、その議論の中心は「義務教育」および「透明な存在」という、声明文にあった二つの言葉にある。そして、ひとつ目の「義務教育」については、友が丘中のプザマな対応などを見るにつけ、これまでここに書かせてもらったこと以上に何かを語る必要性を僕は感じない。 では、「透明な存在」についてはどうかというと、これは大ありである。 さて、テレピ中継と見れば、Vサインを出し、とにかく映ろうとしてしまうアホウというものは全国各地に棲息するが、六月二十八日午後九時半、須磨警察署前から各テレビ局が一斉に実況中継を行ったときの、レポー夕ーの周囲に群がっていた姿の醜さは常軌を逸していたと思うが、皆さんはどうお感じになったろう。 実は、あの連中の醜態に、僕は「透明な存在」という言葉のリアリティーを感じてしまったのである。不思議なことに、彼らは一様に携帯電話を持っていた。ということは、単に「テレビに映る満足」では飽き足らず、「テレビに映っている自分を誰かに確認してもらいたい」という欲求を彼らが濃厚に持っていたということになる。 自分自身で納得するのではなく誰かの目を通してしか確認できない「私意識」が、あそこにはあった。それはつまり、「透明な存在」と言い換えることのできる自意識のあり様である。 そうした気分が、八時五十分過ぎのテロップを見た後、警察署の前に行ける距離に住む若者に数多く存在する。これは、どういうことだろう? -この項ヘ次回へ続く‐
西日本新聞1997.07.13
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