甲木善久
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「義務教育」に怨みを抱き、「透明な存在」である自分にいたたまれずに動物を殺す。次には幼児を傷つけ、やがて殺人を犯し、果ては、むごたらしい死体遺棄にまでおよぶ。これがもし、中学三年生の犯行なら、そこには親や学校の、あるいは、社会の責任があるはずだ。 といった、短絡的な文脈で語れるほど神戸須磨区で起きた殺人事件は単純ではなかろう。どんな事件でも同じだが、そこにはそれなりの特殊な事情が積み重なっており、そう簡単に一般化できるようなことではないはずだ。 しかし、犯行声明文に記された「透明な存在」といいう意識のあり方を、少なくとも僕は、犯行現場近辺に住む一部の若者の中に濃厚に感じてしまったことは先週書いたとおりである。 あの言葉にどれほどの意味を込めて、声明文の書き手が記したのかは、もちろん、わからない。けれど、きわめて自己顕示的な犯行のあり様を見るかぎり、相当にリアルな心情を表していると考えても、それほど間違いではないだろう。 だから、犯行に及んだのだ。それが原因だったのだ、と言うつもりはさらさらない。が、そうした気分が現場周辺に漂っていたことには、とりあえず注意すべきだろう。 六月二十八日の実況中継に数多く映っていた、携帯電話、チャ髪、ピアスのニイチャンたちは、三十分以内で須磨警察前まで行くことができるところに住んでいる。そして、もしかすると、五年くらい前まで遡ればあの地域の中学に通っていた可能性は高いのだ。 そのレべルにまで拡大して今回の事件の背景を考えるならここで初めて、学校や社会の責任も追及することができるだろう。その上で敢えて言う。あの場所には、「透明な存在」という不安な自意識をかもす社会があり、誤った義務教育がまかり通る学校があったはずである。
西日本新聞1997.07.20
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