甲木善久
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今月十七日の新聞を読んでいたら、作家・灰谷健次郎氏が『太陽の子』『兎の眼』など、文庫本や単行本の版権をすべて新潮社から引き揚げたという記事が目についた。ご存じの通り、この行動、「フォーカス」誌上において中三の容疑者の写真を掲載したこと、および、その後の新潮社の対応について、灰谷氏が「作家として自分も痛みを背負いながら抗議」された結果なのである。 さて、こうした姿を拝見し、僕がまず思ったのは、「口先ばかりでなく実際に行動を起こす灰谷さんての偉いなあ」ということだった。そして次に、そのコメントを読んだ後、「これは少しピントを外しているんじゃないだろうか?」と考え込んでしまったのだ。 「子供を見つめ、子供に教わって児童文学者として成長してきたと思っている」という氏にとって、「週刊誌などの俗悪商業主義の中に子供を巻き込むのは許せない」という言葉は心からのものであろう。 が、しかし、だからこそ、僕はここに大きな危惧を抱くのだ。 「俗悪商業主義」とは何なのか? そして、生身の子供たちとは、それほどまでに清いのか? こうした疑問すら抱かぬまま、戦後日本の児童文学は、教育と手を取り合って成り立ってきたのである。書き手の自己満足的な教訓を物語に盛り込む。読まれようが読まれまいが図書館に納め、売る。あるいはまた、宿題にすることで感動した演技を強要し、果ては、例外的に子供に読まれる物語があれば、それらを「商業主義」の名のもとに目の敵にしてきたのだ。 「子供を巻き込まない」といえば聞こえは良いが、実のところそれは、囲い込みである。 人は皆、善い面も醜い面も持っている。ゆえに、その両面を直視しないかぎり、コントロールする術は見いだせない。無理に囲い込みバランスを壊した結果は、今、自の前にあるのではなかったか?
西日本新聞1997.07.2
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