コドモの切り札

(45)
都市化の水際

甲木 善久

           
         
         
         
         
         
         
     
 おそらく、「都市化」という言葉は空間的な変化だけを指すものではない。それはたぶん、人の心のあり方や人間関係など、精神的な面での変化をこそ指し示す言葉なのではなかろうか?
 田舎という言葉から喚起されるのは、例えば、大きな青空の広がる田園風景である。と同時に、また、そこは顔見知り同士の濃厚な人間関係が存在する場所なのである。TVの旅行番組などで描き出される「豊かな自然と心温かな人々の住む場所」というのは、そのプラスの面だろう。が、見方を変えれば、そこは、「私」と「あなた」の境界はなんとなくボンヤリと溶かされている場所なのであり、親子も、家族も、ご近所も、そうした関係によって営まれているということである。
 それにひきかえ、都市は徹底的に個人主義だ。かまってくれないと同時に、自由であり、冷たいと同時に明解である。「私」は「私」で、「あなた」は「あなた」、というのが、良くも悪くも、都市の姿なのだ。
 ならば、都市化とは、意識のあり方の変化であり、人間関係の改編であることは否めない。
 さて、現在、都市といえば東京、と考える人は少ないだろう。他所者中心に構成される地域社会は、それこそ地方都市と呼ばれて、全国各地に存在する。そうした地域での都市化は、表面的には駅前の開発から始まるが、しかし、その内実からすれば、新興住宅地から始まるはずだ。
 あなたと私を分ける明解な土地区分。親と子を分ける個室。各家、各人によって、それぞれに違う生活形態。と、すべてが一斉に都市化するのはここである。だが、駅前の開発ほどに、人の心は短時間で変われない。そこでは、二様の意識のあり方がせめぎ合い、分裂を起こすのだ。
 「透明な存在」とは、こうした場所に生まれた意識である。都市化の波の水際で痛めつけられるのは、いつだって弱いものから順番だ。
西日本新聞1997.08.10