甲木善久
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吉田秋生『YASHA夜叉』(小学館)の二巻目が先月末にようやく出た。で、「ようやく」というのは他でもない、僕個人が、この作品について書く機会をず〜っと窺っていたといっことなんである。 ・・・思い起こせば、今を去ること七ヵ月前、一月二十六日付の当コラムでこの作品のタイトルに触れてから、長い時間が経ってしまった。その間、どうしたわけか書く機会を逃し、ここで、ようややく宿願が果たせるのである。う、うれしい! と、まあ、それはさておき、吉田秋生の話である。 この作家を、僕は非常に高く買う。どれぐらい高く買うかといえば、ここ二十年間の日本文学で必ずべスト3に入るはずの、山田詠美と同じくらいに高く買う。この二人に共通の点、時代の気分にすばらしく鋭敏なところだ。しかも、それを真摯に作品に反映させようとするのも同じである。 八○年代からこっち、「私らしさ」という問題は、さまざまな表現にとって欠くべからざるテーマだった。もちろん、人間として生きる以上、このテーマはいつの時代もパワフルではあるのだが、そこに「男らしさ/女らしさ」や「男であるということ/女であるということ」が否応もなく絡んできてしまうのは、間違いなく最近のことである。 こうしたことを、彼女たちは、目を逸らさずに描くのだ。性的な役割について。性について。そして、それを通した「私」について。 吉田秋生の作品の流れでいえば、『吉祥天女』と『河よりも長くゆるやかに』(共に小学館)によって少女と少年の性を描いた後、『櫻の園』(白泉社)では「制服の中の少女」を描きだす。さらに、『BANANA FISH』で被虐性を、ラヴァーズ・キス』(共に小学館)で同性愛を、そのモチーフとして据えるのである。そうして『YASHA』で登場してくるのが、DNAだ。 このテ-マの変遷に、時代が見える。「私らしさ」は今、ここまで来てしまったのである。
西日本新聞1997.08.31
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