コドモの切り札

(49)

民主教育の欠落点

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
     
 SEXの困ったところは、それが実は、愛だの恋だのいう感情と、ほとんど関係がないということにある。
 そう、もちろん、愛しさや恋しさがつのれば、身を寄せたい、合わせたいという思いも高まるだろう。しかし、一方で、そうした相手を想う気持ちがなくともSEXが可能であることは、目を逸らさずに世事を見ていけば、否応もなく首肯せさるを得ないはずだ。
 快楽のため、といってしまえばそれまでだが、人がそうした行動をとることの背景には、もっと本質的な何かがあるように思う。それは、大袈裟にいえば、存在に対する欠落感といったものなのだが、つまりは、SEXをとおして自分という実感を得られるのではないか、ということである。
 「私」とは何者か、について人が思いをめぐらすとき、性別の問題は、その初っぱなに触れてくる。そうして、「男であること/女であること」あるいは「女らしさ/男らしさ」という問題は常に対(つい)を成し、単独で取り扱うことはできないのだ。
 ところが、個人主義と平等を掲げる「戦後民主主義」、および、その影響下にある「戦後民主教育」は、この点を無視し続けてきたのだ。男のくせに、女のくせに、といったセリフを生徒に投げつけることをタブーとするのは、もちろん、正しい。けれど、それを問い直すために、社会的な性的役割行動(ジェンダー)や肉体的な性(セクシャリティー)について、さらに進めた問題意識を持つ必要があったのだ。
 大学四年になって就職活動を始めた途端、自分が「女」であることに打ちののめされる女子学生が多いのは、たぶん、このことに原因する。学校の中では、男子と平等に同じ土俵で競い合うことができた。が、社会や会社の反応は明らかに違うのだ。これは、手酷い裏切りに他ならない。
 吉田秋生『夢みる頃をすぎても』(小学館)を読んで思うのは、こんなことである。
西日本新聞1997.09.07