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ル-ズ・ソックスを履き、スカー卜を短く巻き込んだ今どきの「女子高生」達は、とても疲れているように見える。 茶パツにし、ピアスをし、化粧をする、といったことは、昔に較べれば確かに自由にできるだろう。が、だからといって彼女たちの抱える本質的な不自由さが軽くなるわけではなく、いやむしろ、表面的に自由になってしまったからこそ、逆に不自由さが見え難くなって余計にメンドーになってきているのかもしれないと思う。 吉田秋生『櫻の園』(白泉社)を読んでいると、制服の少女達の持つ、そうした不自由さがよくわかる。マンガというメディアの特性上、ここに描かれる時代風俗は今どきの「女子高生」のものでなく、ひと昔ほど前のものだが、もちろん、そこに本質的な変化がない以上、今でも十分に通用する。 この作品の特長は、桜に囲まれた女子高校の演劇部に属する四人の少女達の視点を通し、そのズレと、重なり合いの中から、女性が生きていく上で引き受けねばならないセクシャリテイとジェンダー・ロールについて語らせていく手法である。この構成によって、それが個人の問題であり、と同時に、同年齢の少女に共通する問題でもあることが、みごとに表される。 さて、彼女たちの抱える問題とは、つまり、心の準備を置き去りにして日々ごとに〈女〉を主張し始める自分の身体をまだうまく扱えない、という「戸惑い」である。しかも、周りは、そんな彼女たちに立ち止まって考える余裕を与えず、大人達は「女らしさ」を求め、大好きな彼は身体を求めてくるから、混乱はひどくなる。 こうした気持ちを制服の中に抱えた少女達を描く『櫻の園』だが、タイトルに合わせ、物語内部でチェーホフの「桜の園」を演じさせるのも興昧深い。この仕掛けから、百年前も、十年前も、そしてたぶん今でも「〈女〉である私」を引き受ける難しさに大きな変化がないことが、示唆されるのである。
西日本新聞1997.09.14
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