|
先週は、制服の少女たちの不自由さについて書いたけど、ナニ実は、少年たちの方だって、かなり不自由なモンである。なぜって、男と女の問題は単独で考えることなどできなくて、少女に混乱が起きてるなら、当然、少年にもその混乱が波及するのだ。 この混乱の原因は、たぶん、「セクシュアリティには実体があるが、ジェンダーには実体がない」ということにある。「男らしさ/女らしさ」なんてものは、所詮、文化のお約束に過ぎないけれど、にもかかわらず、その<お約束>が無意識の領域まで拘束してしまう。階段を昇るミニスカートが気になるのも、オッパイを見て興奮するのも、文化的な約束事に過ぎないのだけれど、しかし、そうと判ったところで、理性でコントロールするのはけっこう難しい。 吉田秋生は『河よりも長くゆるやかに』(小学館)の中で、年輩の高校教師に「…確かにきみたちの年頃ではそうした欲求が強いのもわかる。異性に興味を持つのはごく自然のことだ。しかし、それはあくまでも高校生らしい男女交際の範囲内でのことだ…わかるね?」といわせる。が、もちろん、ハードな日常を生きている主人公の少年・トシちゃんは、そんなことは聞いちゃあいない。 何だか理由はよくわからないが、性欲というものがある。それは必ずしも「愛」と関係あるかどうかわからないし、もっといえば、いつだって異性に感じるものかどうかもわからない。ということくらい、高校生だってわかるのだ。 身体の問題を無視して「女らしさ/男らしさ」「高校生らしい男女交際」を語れるほど、今の日本の文化が安定してはいないのだ。だから、少年も少女も混乱する。「私らしさ」に気づき始めたとき、それは看過できない問題となる。吉田の描く、混乱しまくった少年の身体と心はリアルである。そのリアルさの中に、本物の「男」が見えるのは、おそらく作者が女性だからだ。トホホ…。
西日本新聞1997.08.21
|
|