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△おまえさ。すっごい男ぎらいだろう・・・。なんでだ?(略) ▽あたし小学生の時チカンにさわられたことがあんの。何度かそういうイヤな思いしたわ。(略)そういうことがどれほど女の子の気持ちを傷つけるかわかんないなんて頭悪いのよ! △身もフ夕もない言われかただな・・・。でも、からかったヤツだって悪気はなかったと思うぜ。 ▽悪気なんかあってたまるもんですか!! 悪気がなきゃなにしてもいいっていうの!! というのは、吉田秋生『吉祥天女』(小学館)の中の少年と少女の会話だが、長々と引用したのは、ここにこの作品のひとつの核心があると思ったからだ。 男性原理中心の社会の中で、〈女〉であるのは大変に不自由なものである。そして、そうした堪らなさが、このチカンの話-「する側」と「される側」の言い分のゾッとするほどの食い違い-に端的に表れている。 幸いにして僕はこれまでチカン行為に及べるほど想像力を貧しくしたことはないのだが、しかし一方、不幸にしてチカンに逢ったことは何度かある。それは、実にイヤなことで、土足で家に踏み込まれたような、とにかく、人間としての尊厳を根本から踏みにじられたような気分にさせられるものだった。 しかし、僕は〈男〉だから、その経験によってアイデンティテイを侵されることはなかった。それが、この作品の中の少女と決定的に違うのだ。 〈女〉というジェンダーに、そうしたイヤな行為の対象となることが既に付着させられていると気づいたなら、受け入れるのは大変に辛いだろう。しかも、〈女〉には反撃の方法がないのである。 「きれいで、やさしくて、女らしくて、なのに賢くて、強くて、男の人にも負けなくて…」というのはこの少女にとって理想である。だが、男性原理社会の中では、それはもはや〈女〉ではなく〈魔物〉となる。この作品が描いたのは、こうした重いズレなのだ。
西日本新聞1997/10/05
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