コドモの切り札

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<少女>の再生

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 吉田秋生『BANANA FISH』(小学館)の最終巻には、本編の後日談の形式を取った「光の庭」という番外編が収められている。
 どんな話かというと、ニューヨーク市立図書館の中でアッシュが息を引き取ってから七年後、今ではアメリカで新進の写真家となった英二のもとに、日本から小さな客人が訪ねて来るというものだ。この客人、英二とは浅からぬ縁のあるカメラマン伊部の姪で、「暁」という「男みたい」な名前を持った中学生の少女である。
 彼女は、この名前が大嫌いだ。なぜならば、父親から「男の子が欲しくて男の子の名前しか考えてなかった」とか「女の子だったのでがっかりした」とかいったことを、無神経にも告げられてしまったからである。このため、彼女は〈女〉である自分を受け容できない。けれど、中学生ともなれば身体の方は勝手に女になっていく。こうして彼女は、アイデンティティの危機に陥り、体調を崩すようになる。さらに、そこへ両親の不和が重なった。それで、彼女はNYに来たのである。
 さて、この作品に対し作者・吉田秋生は「キザにゆーなら『鎮魂と再生の物語』が描きたかった」(『PRIVATE OPINION』小学館)という。だが、ふと思えば、戦い続けることを運命づけられ、死んでいったアッシュの「鎮魂と再生」のためになぜ、傷ついた少女「暁」を必要としたのだろうか?
 英二とシンの二人は、アッシュの死によって心を縛られ、暗い影を抱えている。そのどうにもならない二人のもとに傷ついた少女がやって来た。二人は暁を癒しつつ、そして同時に、自らも癒されていくのだが、それは「世界でただ一人の君」を互いに受け入れ合うという、やさしい関係を創ることに他ならない。
 美少年という〈少女〉だったアッシュは暁の中で再生し、そして、暁は〈女〉である自分を受け入れる。この美しい終わりの物語に、吉田秋生のスゴさを改めて感じる。
西日本新聞1997/10/19