コドモの切り札

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ハードでソフトなキス

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 人は誰だって、自分というフレームを通してしか世界を見ることができない。しかも世界は、客観的に存在するものではなく、いつだって見ている人の見たいようにしか存在しない、主観的なものである。
 だから、同じ風景を違うふうに見ている人と出会うのはスリリングだ。今みたいな世の中では、そういう出会いはなかなかないし、あったとしてもエーッと思うことが多いけど、まれに、時折、カンドーもんの出会いもないわけではない。
 そんな相手と出会えたとき、人は、自分もその世界を分かち持ちたいと願う。そして、もしも可能なら、その相手にも自分の世界を分かち持ってほしいと思うのだ。なぜなら、あなた(の世界)と触れることで、私(の世界)が確認でき、さらに新しくなるのだから。
 吉田秋生『ラヴアーズ・キス』(小学館)が描こうとしたものは、このような出会いと、このような関係にほかならない。
 ストーリーがそのことに終始するのは先週書いたとおりだが、物語に同性愛が持ち込まれた理由も、そして、同じシーンを三人の登場人物の眼で描いたのも、つまりは、このためなのである。
 私が私であること(アイデンティティー)を認めてくれる相手が、「問題のない」者であれば幸せだが、そうでないと悲劇となる。「ロミオとジュリエット」も、近松も、最近では『失楽園』なんてのもあるが、つまりは、イケナイ相手との恋愛に命を燃やすことが美学なのである。
 だが、この作品が登場人物達を追い込んだ状況は、そうした甘いものではない。同じく社会の約束事に背くにしても、同性愛はシビアである。しかも、彼らは現代の高校生なのだから、それで死んだら話にならない。
 この物語の描く恋人たちのキスはソフトだが、しかし、社会と拮抗しながらも「私」であることを認め、生き延びていく物語そのものは、人間に対するハードな問いかけを含んでいる。
西日本新聞1997/11/02