コドモの切り札

甲木善久

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 『YASHA』(吉田秋生/小学館)の主人公・静は、「遺伝子操作によって品種改良された゛生物゛である。IQ160異常の「優良遺伝子」保持者の精子と卵子を受精させ、そこにさらに、神経細胞成長因子を導入して作り出された静は、文字通り「超人」だ。
 驚くべき知能と、感覚機能、そして、それに見合った運動能力を有する彼は、平均値から遙かにかけ離れた存在である。したがって、静は、『BANANA FISH』のアッシュ同様。高いヴァルネラビリティ(攻撃誘発性)を身に帯びている。
 この点から見れば、二人は、ほとんど同じといっていい(だから、気の早い読者は『YASHA』と、『BANANAー』を同じ構造の話だと思うらしい)。だが、この二人は、明らかに違うのだ。アッシュが゛自然゛の超人だったのに対し、静の方は゛人工゛の超人として書かれているのである。
 クローン羊誕生のニュースなどを見るにつけ、今日、静の出生はSFの世界とばかりは、もはや言い切れないのは確かだが、実は、そんなレベルにまで話を飛躍させなくても、人工的に優良さを作り出そうとしている現象は、そこらじゅうぶ見かけるはずだ。
 美容整形も、エステティックサロンも、早期英才教育も人工植毛ももこれらは全て、人間という自然に手を加え、改良を施そうとしている行為に他ならない。ということは、つまり、静を生み出す科学技術の裏付けはともかく、静のような存在のあり方に感情移入できる精神的な裏付けは、既に整っているということである。
 『BANANAー』連載開始の1985年から、『YASHA』連載開始の1996年まで、11年の時が流れた。そして、この間、身体に対して手を加えることへの日本人の感覚は、大きく変わったのである。作家・吉田秋生は、おそらく、こうしたことに敏感に反応した。だからこそ敢えて、DNAという肉体の根元に関わる問題を取り込み、「私が私であること」を描こうとするのだろう。
西日本新聞 1997/11/01
テキストファイル化 妹尾良子