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理性という不自然によって、心も、身体も、生活も、そしてさらには、生き方さえも均質・均一であることを求める社会の中では、自分が「ふつう」だというのは安心できることである。だから、多くの人が、自分の「ふつう」さ加減を確認するのに躍起になる。 その方法はまず「ふつう」の基準をどこかに設定して、そこに近づこうと意識することだ。その際、本当の基準値のとおりであるかどうかは重要でない。なぜなら、ダイエットにせよ、習い事にせよ、「そこに近づこうとしている自分」の確認ができさえすれば、とりあえずの満足は得られるからである。 だが、こうしたケースで危険なのは、他者に対する潜在的な不安も抱え込んでしまうことだ。自分の目指す基準値を目指さない人、あるいは、基準値を外れていることに頓着したい人が恐怖の対象となるのである。それを認めることは、自分を否定することに他ならない。だから、当然、排除する。 「ふつう」でないものを発見し、指弾することは、すなわち、自分が異常でないことを確かめることである。いうまでもなく、理不尽な差別やイジメは、こうした構造によって起きてしまう。 『YASHA』(吉田秋生/小学館)の主人公・静が超越的能力を隠し「ふつう」を演じなければならなかったのも、このためだ。基準値からかけ離れるということは、それだけで理不尽な攻撃を誘発してしまう。 さて、話は戻るが、今日の社会の「ふつう」の位置づけは、実は、けっこう複雑である。個性という価値が一方に明らかに存在するために、ただ漫然と「みんなの中に私」であることが「ふつう」とはならず、「私らしい私」を持つことになってしまうのだ― 個性的で「ふつう」に私を目指すこと― この矛盾した命題こそ、現代を生きる私たちに課せられた悩みであり、つまりは、静が抱え込んだ悩みに他ならない。 |
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