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かれこれ三ヶ月にわたって延々と書き続けている吉田秋生シリーズもそろそろ大詰めとなり、今回は、これまで彼女の作品に触れながら考えてきたことを少し整理してみようかと思う。 既にご承知のように、吉田の作品に一貫して見られるモチーフは「私」という問題である。そして、その「わたし」とは、自立した個としての私(近代的自我)ではなく、誰かとの関係によって成りたつ私(アイデンティティ)であった。そのことは、あらゆる作品の主人公たちが、男や女や、あなたと私の関係に基づきながら、「私らしさ」を手に入れたことからも明白である。 さて、ここ15年ほどの間、僕たちの社会は「私らしさ」をめぐる一種の不安を根深く抱え込んできた。だからこそ、心理ゲームが流行ったり、やさしい哲学書が売れたり、宗教が問題になったりしたのだろうが、こうした現象は全て精神に絡むものだった。 が、実は、ここに重大な忘れ物があったのだ。いうまでもなく、それは身体の問題である。「私」は、精神の問題のみならず身体に付随する。ところが、近代自我や理性が化け物のように巨大化したとき、この当たり前りことは置き去りにされたのだ。 例えば、男と女。これなどは自己認識にとって欠くべからざる要素であり、もちろん、身体を根拠にしなければ成り立たない。けれど、理性による社会はそれを無視し、単純で表面的に平等を語ることに執心した。なぜなら、今日の近代社会では、性を持たない「個人」という概念が人間を捉える基盤だからである。 しかし、当然、これは無理な注文だ。で、今度は、身体を無視した状態のまま、男や女を捉えようとする。これが社会的性的役割なのだ。だから社会は両性の平等を謳いつつ、実際には理不尽な性的ルールで人を括りたがるのである。 ここには、あなたと私の関係から人を捉えようという意識はない。理性という男性原理は、結局、両性の首を絞め、「私らしさ」を脅かしたのだ。
西日本新聞/97/12/7
テキストファイル化 妹尾良子
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