コドモの切り札

64
大人でないもの

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「コドモという切り札」というタイトルのくせに、このところ男と女の話ばっかりなのは何でなの? と、知り合いに聞かれてしまった。
 うん、確かにそうである。もしかすると読者諸賢も同じことを感じられているかもしれない。というわけで、今回は、男と女の話を子どもの方へ展開してみようかと思っている。
 さて、これまで何度か書いてきたことだけど、「子ども」とは何かといえば、それはつまり、まだ大人でない人を指す。では、大人とは何かというと、理性的な人間のことである。その証拠に、最近すっかり開き直った広告をしている『新解さん(新明解国語辞典)』(三省堂)によれば、大人とは「1@一人前に成人した人。(自覚・自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけてきた意味で言う)A老成していること。2(子供などが)事情を聞き分けて、静かにしている様子」(第4版)と書いてあって、全項目の共通点を探れば、これは間違いなく理性的な態度ということになる。
 すると、当然、今度は「理性」ということが問題となり、これをハッキリさせないことには子どもが見えなくなってしまうのだ。というよりも、むしろ僕としては、大人でないコドモを切り札に使って、明治以来この社会にドッカリと腰を据えた理性ってやつの正体を見極めたい。まあ、連載開始時にお断りしたように、それがこのコラムの趣旨なのだね。
 で、話を戻すと、理性ってものは抽象概念だから、その概念としての純度をあげていく過程で、いろんなものを引き出していった。その中に、女や子どももあるわけだ。もちろん、それは実体でなく概念だから、子供でも「大人しく」することができ、女の人でも理性という男性原理に則って行動することができる。
 けれど、現在、この理性による発想が限界に達し、大人が「大人」をやれなくなってきたのである。だからこそ、「コドモの切り札」で男と女の話も必要となったわけなのです。
西日本新聞1997.12.21

テキストファイル化 妹尾良子