はじめに
巌谷小波『当世少年気質』が明治二五年一月、『暑中休暇』は同年九月に、博文館<少年文学>叢書第九編・第一三編として刊行される。その評価は、「立身出世をめざす子ども」(1)という描かれた子ども像から、「教訓物語」(畠山兆子)(2)としての物語の類型性、そして作家小波の「批判精神」の脆弱さ(横谷輝)(3)にまで及ぶ。両著への批判の多くは、何らかの形で「立身出世」というコードをめぐって展開されているようだ。勿論、桑原三郎のみならず、彼らは言文一致を高く評価している(4)。「文体」は「新しい」にもかかわらず「内容」が類型的であるとのこれらの批判は、「器用な風俗のスケッチはあっても、現実の少年の内面に立入り、そこに渦巻く当時の少年の問題を抉りながらそれらを再構成しようとする意識はない」(続橋達雄)(5)の様に展開される。
また、「立身出世」というコードをめぐる批判の多くは、明治二三年一O月発布の教育勅語に言及する。臣民政策を前面に出した教育勅語を参照することで、「明治国家によって期待される子ども像」(前田、注1)批判が保証されるかのようだ。しかし、国家と直結するような「立身出世」がまさしくコードとして共有されるには、少なくともネーション・ステイトが確立する明治二七年の日清戦争(6)、「出席率を考慮した実質就学率が五O%をこえる」明治三O年代(天野郁夫、傍点、引用者)を俟たなければならない(7)。何故なら、「立身出世する子ども」批判が「子ども」を国家に従属させ臣民を再生産する点にあるのだとすれば、そもそもこの時点では、臣民政策の執行機関たる「学校」ひいては推進主体たる「国家」が未だ規範として内面化されていないからである。
つまり、両著刊行の明治二五年は「学校」に通学すること自体が与件ではなく、通学者でさえ「国家」に直結する「立身出世」というコードを一様に内面化していたとは限らず(8)、「国家」が抽象的な概念でしかなかった可能性がある。だとすれば、両テクストに、「国家」による臣民政策に迎合した側面のみを批判するだけでは不十分であろう。このような体制批判は、体制による民衆の抑圧というネガティブな側面のみを指摘するばかりで、権力関係における体制と諸個人とのポジティブな関係性を見ないため、臣民が国民として、学童が児童として現れてくる側面を隠蔽してしまう。よって本稿は、両テクストがネーション・ステイト形成の只中に生まれたというその歴史性に着目することで、権力関係に組み込まれつつも「主体的」にかかわっていく学童/児童のダイナミズムを明らかにするものである。そこで、明治二五年一月と九月の言説空間を考察するにあたり、「教育勅語」以上に学童/児童の在り方を示している「小学校祝日大祭日儀式」と「御真影の小学校への下付」に着目し、その歴史性を確認する作業から本稿を起こすことにしたい。