『ゴールドラッシュ』は、酒鬼薔薇事件に触発されて執筆されたと言う。九八年一月には、栃木県黒磯北中学で中一の男子生徒が女性教諭をナイフで刺殺する事件が起こるなど、不可視にして了解不可能でありながら局所的な共感を喚起する両義的な存在(小論では「少年A」として象徴化される)に多大な関心が寄せられた。作者自身もまた、『新潮45』九七年五月号から(一度の休載を挟んで)九八年四月号まで連載された「仮面の国」において、「少年A」にかなりのコメントを残している。少なくとも作者にとって、『ゴールドラッシュ』は「少年A」に関する一連の思索の中間報告として位置付けられる。端的に言ってしまえば、小論にとって『ゴールドラッシュ』は「小説」として現れないからこそ、議論されることになる。少なくとも現時点(九九年二月現在)では、『ゴールドラッシュ』が「少年A」の「物語」として読まれてしまう可能性はきわめて高い(柳自身の執筆動機がそれを加速させている)。簡単に言えば、こういうことである。『ゴールドラッシュ』は「小説」であるにもかかわらず、柳の意図とは無関係に(あるいは意図に反して)、現段階では「現実」を「解説」するメタ ・レヴェルに位置するような要請が強いために、実質的には「少年A」についてコメントする心理学者や社会学者などの言説の間に挿入されるという捻れが生じているのである。
 まずは、柳自身が『ゴールドラッシュ』刊行に際して、どのような発言をしているのか見ていくことにしよう。刊行されて即座に行われた『読書人』(九八年十二月四日付)のインタヴューで、柳[1998c]は次のように述べる。

 昨年、神戸の少年殺人事件が起こって、事件そのものも衝撃的だったのですが、犯行 声明文と「懲役十三年」という作文が、少年Aの心の中を覗き込ませる力を持っていたんですね。同時に私自身の心の中をも覗き込まざるを得ない気持ちになって、何回も読んでいくうちに、私の十四歳の頃とかなり重なる部分があるんじゃないかと思いました。(略)この少年Aが持つ心の闇というのは、彼だけでなはなく、他の多くの十四歳の少年も持っているものではないか。そう思った時、書いてみたいと思ったんです。

 事件そのもの以上に、犯行声明文と「懲役十三年」という作文に共振していたことに注目したい。実際に柳[1998a:146p]は、『新潮45』九七年十一月号にて「私は自分がこの事件に強い関心を持っているのはひとえに少年の文章力であると、「懲役13年」と題する作文を読んで確信した」と述べていた。たとえば、立花隆[1998:104p]は、例の供述調書が掲載された『文藝春秋』九八年三月号で、柳の上記の発言に賛同して「この少年は大変な文学的才能を持っている。それが、こんな愚かな行為をしでかすことによって、その才能が花開くはるか以前のところで、その可能性を自らの手でつぶしてしまったことは、惜しいといえば惜しい」と共感を示している。先に引用した筒井康隆[柳1999:180p]もまた、「俺はあの事件が起こったときに、不謹慎だけれども、わくわくした。嬉しかった」と告白して、「これから先はもう文学の領域だ」と結論付けていた。かくして「善悪の彼岸」は「文学」に委ねられる。
 それでは、『ゴールドラッシュ』の内容について簡単に確認しておこう。「売春と麻薬と暴力が横行する横浜の黄金町で、総売上が二百億円に達するパチンコ・チェーン店の経営者である父親を、「十四歳」の不登校の「少年」が日本刀で殺す」[小森陽一1998]。父親を殺害した少年は、遺体を地下室に埋めて日々過ごしていくが、近しい関係にあった響子に父親殺害を告白することになる。その後、自首を仄めかせたまま、物語は幕を閉じる。小論は作品論ではないので、内容に関する確認は最低限に留めておくが、本書には一連の少年事件との相違点が見受けられる。物語の舞台である黄金町は横浜の猥雑な街なのに対して、酒鬼薔薇事件は神戸市須磨区のニュータウンで起きている。凶器の日本刀は頻発するナイフ事件を想起させるのは確かだが、たとえば黒磯北中学では女性教諭が刺殺されたのであって、決して父親ではなかった。普通に考えて、これ程に異なる設定がなされているのだから、本書を酒鬼薔薇事件あるいはナイフ事件の隠喩として読むこと自体にかなり無理がある(ニュータウンを舞台にした重松清『エイジ』[1999]とは対照的だ)。にもかかわらず、書評の多くがこれら頻発す る少年の社会問題を参照する(「「少年」の置かれている抑圧的状況は、この国の「十四歳」に共通している」[小森1998])。われわれの多くが『ゴールドラッシュ』を「少年A」の物語として読みたがっているのだ。
 柳自身は先のインタヴューで、次のように述べている。「作中で、主人公の少年が「子どもなのかおとななのか」と問われて、「子どもでもおとなでもない、十四歳なんだ」と答えているわけですが、十四歳という年齢はそういう時期だと思うんです。(略)それは、主人公だけに関わる問題ではなく、他の十四歳の少年にも共通していることだと思います。だから、名前で限定してしまうよりも、あえて「少年」としたということはありますね」。「少年」と表記することで一般性を獲得するということは、普通に考えれば、作中人物の単独性を奪いかねない。酒鬼薔薇聖斗は、「オニバラ」と誤読されたことに対して、犯行声明文で「今までに自分の名で人から呼ばれたこともない」として、「透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたい」と、固有名に執着を見せていたのではなかったか。主人公の単独性は、「少年」一般に解消されたのだろうか。これについては、川村湊[1998]が興味深い発言をしている。「この作品は終始一貫して主人公のかずきを「少年」という三人称によって叙述している。あたかも「少年A」が絶対にその名前で呼ばれ ることなく、あくまでも「少年A」として一貫して表現されていたように」。『ゴールドラッシュ』の「少年」は、「酒鬼薔薇聖斗」ひいては「少年A」の隠喩として読まれる蓋然性の高さが理解されよう。

1 2 3 4 5