じどうぶんがくひょうろん


2000/03/25
           
     
【絵本】
『雪女』(小泉八雲 平井呈一:訳 伊勢英子:絵 偕成社 2000)
 「日本の童話名作選」シリーズ最新作。ハーンの作ですから厳密には「日本」のではありませんが、ま、日本の民話がもとですし、気にしない。
 この作品、伊勢英子の絵がうまくはまりました。というか、原文がそのままびっちりと入っているのがうざったいほど。そのせいか、殆どの見開きで原作は絵の右端に枠囲いされています。
 うーん、これはどうなんだろう。この場合、絵は、見開きの左全部と右の半分ほどに収まるのですけど、そうすると、絵だけを観た場合、バランス悪く感じてしまいます。
 絵がちゃんと立っているだけに、ちょっと残念。

『ゆきおんな』(川村たかし:文 宇野亜喜良:画 教育画劇 2000)
 教育画劇の「日本の民話」シリーズの一冊。
「ゆきおんな」の競演であります。
 こちらは民話をベテランの川村たかしが文にし、こちらもベテランの宇野亜喜良が絵を担当。
 比べてみれば、同じ素材がこれほど違ってしまうことを楽しめます。
 原作、原文があって、それに絵を付ける場合と違って、こちらは、文もまた、素材がすでにあってそれを加工したものですから、文と絵のスタンス、主導権、バランスといったものが出来を決めるのですが、この作、どうもそこら辺りが、はっきりしない。
 川村の文は無駄なく筋を押さえているし、宇野の絵も一つ一つは動いているといっていい、が、文と絵はコミュニケート出来ているのだろうか?

『ばけものでら』(岩崎京子:文 田島征三:絵 教育画劇 2000)
 教育画劇の「日本の民話」シリーズの一冊。
 ここはもう、田島征三の一人勝ち。岩崎の文はあくまで、絵の補をしています。するつもりがなくても、これはもうしょうがないでしょう。
 田島ワールドを堪能してください。

『かみそり ぎつね』(小沢正:文 野村たかあき:画 教育画劇 2000)
 教育画劇の「日本の民話」シリーズの一冊。
 これは三冊の中で文と絵がもっともバランスがとれています。野村の木版がもう、「民話」!の匂いプンプンですから、当然と言えば当然ですけれど。
 いい出来です。

『あざみ姫』(ヴィヴィアン・フレンチ:文 エリザベス・ハーバー:絵 中
川千尋:訳 徳間書店 1998/2000)
 なんだか元気のない王様と王女さま。それを見ている草花も心配。
 原因は、子供ができないこと・・・。
 といった、『眠り姫』的始まりの絵本。
 もちろん、そこで、子供が、女の子が授かるのですが、そこから物語は、現代的なモチーフに進んで行きます。簡単に言えば、『眠り姫』における悪い魔女は、実は「親」という存在自身なのだ、です。
 物語の結末もまた極めて「今」。
 中川の訳文も無駄なく、いい。
 絵と文のバランスも文句なし。
 オススメです。

【創作】
『うちのおばあちゃん』(イルゼ・クレーベルガー 斎藤尚子:訳 徳間書店
 1964/2000)
 ともだち同士で自分の「ご自慢」比べをしているところからこの物語は始まります。「うちは村一番の金持ちだ」と自慢の子、「たくさんのニワトリを飼っている」と自慢の子、そんな中で、ヤンはおばあちゃんが自慢だというのです。
 そこで子どもたちは、どんなおばあちゃんか見に行くことに・・・。
 スケート大好きのおばあちゃんの魅力を、この物語は描いていきます。
 何度も書いていますように、子どもと老人という設定は児童書の定番です。
 これはもっとも安定するものの一つなんですね。だから、どう使うかで、物語の出来も書き手の思いもスタンスも、かなり明瞭に記されてしまいます。
 『うちの』のおばあちゃんに感心するのは、子どもの扱いがとても上手なこと。ナメているという意味ではありません、子どものプライドをちゃんと把握しているんです。彼女は決して子どもを傷つけません。甘やかしもしません。
それが、素直に胸に落ちてくるのは、彼女自身が人生を楽しんでいることが伝わってくること。
 64年の作品ということも、あるからですけどね。
 
『地の掟 月のまなざし』(たつみや章 講談社 2000)
 この国の有史以前に時代をとった縄文のムラと弥生のクニを巡る『月神の統べる森で』の続編。
 「縄文のムラと弥生のクニ」なんて設定でもう、ドイドキしますよね。時代はもう少しこっちになりますが、荻原規子の『勾玉』シリーズが、その物語り方のうまさ以前に、その舞台作りで読み手を引きつけるように。
 有史以前、先住者と新来者との図式といえば『大地の子エイラ』が先行作品としてありますが、そこでも、時代をいかに本当らしう再現してみせるかが腕の見せ所でした(もっとも『エイラ』はだんだんハーレークイン・ロマンスになってしまったけどね)。
 『地』のあとがきを見てみましょう。
「私がこの物語で描いている縄文時代の生活は、おおよそこれまでの学界の成果にのっとっているつもリですが、まだ解明されていない部分については、近世まで狩猟採集文化で暮らしてきたアイヌの人々の民俗を参考に、私なりの推測で組み上げました。それが的を射ているのかまちがっているのかは、興味をもたれたみなさんがそれぞれに勉強して挑戦していただきたいと思います。
 私がこの物語を書き始めた動機には、私たち日本人の文他的基層であると信じている縄文という文明に、みなさんの学究心を引き寄せたいという思いもありますので。」
 作者はとても正直に表示しています。
 ただ、私が気にかかるのは「まだ解明されていない部分については、近世まで狩猟採集文化で暮らしてきたアイヌの人々の民俗を参考に、私なりの推測で組み上げました」の一文。なぜ、アイヌを縄文に接続するか、です。そうであるかもしれないし、ないかもしれないのですが、この物語を読む限り、殆どそれはイーコールととられかねないと思います。
 その場合それは作者のロマンでしょうか? それとも、イデオロギーでしょうか?
 ちょっと、危なくないかな?

『逃れの森の魔女』(ダナ・ジョー・ナボリ 金原瑞人・久慈美貴:訳 青山出版 1993/2000)
 ここ数年なんだかしょうがない「本当は」系の昔話物が山ほど店頭にあふれていました。さすがにそれも沈静化した様子の時に、こいつが出たのは大正解!
 『逃れ』は『ヘンゼルとグレーテル』のパロディ。なんですが、パロディは、単に元ネタを書き換えればいいんじゃなくて、批評の眼が必要で、その意味ではまず、フィクションとしてではなく批評としてあり、それをフェクションに仕立てていくというスキルがいる方法ですから、本当はとても難しい。
 『逃れ』は、お菓子の家の魔女の側から『ヘンゼルとグレーテル』を読み替える試み。そのために作者は『ヘンゼルとグレーテル』以前の「魔女」の日々から物語を始めていきます。お菓子の家でのあの悲劇は何故起こったのか? と。
 作者は、見事に書き換えていて、読ませます。
 こういうのは、読む喜びですね。

『さよなら、ママ』(エリザベス・ツェラー 清水美子:訳 徳間書店 1990/2000)
 一三歳のドードーは誕生日に日記帳をママからもらう。自分の想いを自分の言葉で自分のために書く場所を与えられるわけですね。
「私自身の部屋」です。

 ママが病気になった。それも治らない・・・。
 ドードーはその悲しみもまた日記帳に書いていく。ママの死も。
 自分の出来事(想いや感情、考えも含まれます)を書く行為は、自分を客体として捕まえる行為であるし、整理してみる行為でもありますが、同時に自分をもう一度生きてみることでもあります。
 ドードーはまさにそうしてママの死を受け止めていくわけです。
 日記だけでフィクションを書くのは案外難しいのですが、うまく行っています。
 だから、こその文句なんですが、本編まえの引用などは不要でしょう。