じどうぶんがくひょうろん


No.28 2000/05/25

           
     
『コッテンのおきゃくさま』(レーナ・アンデション 長下日々:訳 フレーベル館 1998/2000)
 はりねずみのコッテンは一人きり。さびしい。そこへ、まずやぎのクヌートおじさんが。これで二人。こんどはちいさなぞうさん。これで三人・・・。と、次から次へとお客さんがやってきて、さびしかった部屋もにぎやかに。もちろんお客さんが増えるにつれテーブルの上もコーヒーカップがクッキイがとにぎやかに。
 アンデションの柔らかな絵と共に、この喜びを約束された展開は、それだけでホッとしますが、みんながそろったあとのラストもいいですよ。

『コーラルの海』(サイモン・パトック:作 スティーブン・ランバート:絵 かけがわやすこ:訳 小峰書店 2000/2000)
 とても暑い日。パパは外に出ようとしません。仕方なくコーラルは一人でビニールの小さなプールで遊びます。そうしてコーラルは、心の中で、海を泳いで世界一周をしていく様が、描かれています。見開きの端にはビニールプールに入っているコーラル。あおのスペースには、今コーラルが泳いでいる、大西洋が、インド洋が、カリブが・・・。
 コーラル自身と彼女の想像が、うまく重なって、子どもの遊びの風景がうまく描かれている。

『ジャックと豆の木』(リチャード・ウォーカー:話 ニーアム・シャーキー:
絵 阿川佐和子:訳 ブロンズ新社 1999/2000)
 おなじみの話を絵本化するのは絵描きの腕の見せ所です。
 ニーアム・シャーキーは、物語を絵にするというより、物語の中に入り込んで、内部から見たことを描いています。だから、画面はどれもニーアム・シャーキーの世界となっている。つまり、その世界を自分のものとするという方法で、この絵本は原作にちゃんと敬意を払いるのが心地いい。

『蛙の消滅』(宮澤賢治:作 小林敏也:画 パロル舎 2000)
 小林敏也のライフワーク、画本:宮澤賢治の最新作。
 こちらもまた、原作物ですが、先のニーアム・シャーキーとはちょっと違って、小林敏也は原作を自分のものにするのではなく、あくまで、そこに絵を置いていきます。「画本」たる所以はそこにあって、私たちはテクストの背景として絵を楽しむこことなる。挿絵まで後退することなく、かといってせり出すでなく、小林敏也は、「画本」世界を確立し始めている。

『虹がでたよ!』(金森三千雄:作 小坂茂:絵 小さな出版社 2000)
「自分を見つめて、他者への愛を!」というすざましいキャッチが腰巻に。で、その下には「いつでも、どこでも、サッと読めて、ジュワッと心にしみる」との軽さ。
 な、何んだ、このノリは。
 続けて腰巻は「小さな出版社の 新・感覚絵本 モノクロームの世界」と書く。
 確かに、新感覚ではある。
 けれど、中味は新感覚ではなくて、スタンダード。
 
【創作】
『恋のダンスステップ』(ウルフ・スタルフ 菱木晃子:訳 小峰書店 1998/1999)
 てっきりもう、ご紹介したつもりになっていたのですが、してなかった・・・・。
 改めて紹介する必要もないスタルフ。
 簡単に言えば、読めば間違いなく幸せな気分になれる物語を提供してくれる作家です。
 この短編2編のラブ・ストーリーもまさにそう。
 自伝的作品です。
 タイトルとなった、『恋のダンスステップ』の、絶妙な語り口。そして、微妙なズレによって引き起こされるユーモアと悲哀と幸せ。
 ああ、あんまり誉めないでおきましょう。
 読んだ方の印象が正しい! と、いえます。
 
『詩なんか知らないけど』(糸井重里:詩 中川いさみ:絵 大日本図書 2000)
 糸井の詩集。
 各詩ごとに、糸井自身が解説をつけているところが、糸井らしい。
「かんたんなコトバに乗って 空を飛ぶ。/かんたんなコトバが、ぼくを乗せて空を飛ぶ/かんたんなコトバが、雲にぶつかり溶けていく。/かんたんなコトバが、ぼくを乗せて消えてゆく。/かんたんなコトバが、ぼくを救いにくる。/がんばれかんたんなコトバ。/あとから来たかんたんなコトバは、/あっさりと負けて、ぼくは空からおっこちた。」(これは、詩を書くことそのものを詩にしたものです)
 といった具合。
 どれもが糸井のコピーのように(実際コピーを膨らませた詩も多い)、身軽に見えてどこか引きずっているものの香りもします。
「詩を読もう!」という大日本図書の意欲的なシリーズの一冊。
 他に、『もう 大丈夫だから』(木村信子)は「はるやすみ」がいいです。『十秒間の友だち』(大橋政人)は、やっぱり「猫ねこ・犬いぬ」編に収められている言葉たち。『五つのエラーをさがせ!』(木坂涼)は「始業式」や「ゴキブリのおじょうさん」のひねり方が好き。

『お月さまに とんでいったデブール』(茂市久美子:作 こみねゆら:絵 大日本図書 1999)
 周りから醜いを嫌われ、自分もそうであると思ってしまう、蛾のデブールの物語。
 だから、アンデルセンと宮澤賢治が色濃くあるわけですが、物語が、読者に何かを告げたいのか、それともデブールの悲哀から希望へを読んで欲しいのかが、うまく定まっていないのが、残念。
 デブールがお月様の呼びかけに応じて、無事、月に着き、幸せになったといわれても、それだけでは困るのです。
 だってそれでは、デブールの悲しみに共感した読者は置いてけぼりにされてしまう。
 基本的に、物語は作者のものだと思いますが、読者に呼びかける、こうしたタイプの場合、もう少し工夫(サービス)が必要ではないでしょうか?