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【絵本】
『どうぶつニュースの時間』(あべ弘士/作; 理論社 2000)
1985年に『どうぶつニュースのじかんです 』(木村裕一:さく 舟崎克彦:え ポプラ社)というのがあって、木村裕一とあべ弘士は『あらしのよるに』でコンビを組んでいて、ああー、ややこしい。
けど、この絵本はややこしくありません。
動物テレビのニュース風景。それだけ。もちろん人間世界のパロディに満ちていますが、それより、ひとひねりユーモアを、お楽しみ。
この絵本は座って読むより、ゴロンと寝転んでが、よろしいかと。なにしろペンギンさんの天気予報だと、寒い地方は過ごしやすくて、暖かい地方は、気をつけましょう、なんて調子ですから。
『テレビくんにきをつけて』(五味太郎 偕成社 2000)
『とまとさんにきをつけて』『かえるくんにきをつけて』と三部作。というか、これ、何冊でも描けそう。さすが、五味太郎。
謎のテレビくんは突然やってきて、黄色のクレヨンはタマゴで出来ているだの、信号が赤になったら赤い色の車が通れるのだなどと、とんでもないことを言って、また立ち去っていくのである。
絵と言葉のリズム、間が、もうそれだけでちゃんと世界を作っていて、その職人技を味わってください。
これ、子どもハマるでしょうねー。でもハマられると親は困るか。
気をつけて。
『いつか誰でも』(エムナマエ/文・絵; 愛育社 1998)
糖尿病で失明した著者は、一度は絵描きを廃業したのだけれど、結婚を期に、再び絵筆を取る。その後パリでも個展を開き、好評を得る。廃業の時から始めた文筆業では、『UFO人形と宇宙ネコ』(あかね書房 1989)で児童文芸新人賞。
この「画文」集にはそんな彼の絵とそれに添えた文によって構成されています。
絵は暖かい。シンプルでありつつ、その描くライン(線)は揺るぎない。
が、文は
例えば、最初の一文を紹介しましょう。
「いつも 誰でも 壁に ぶつかる そして そこから ドラマが はじまる」。
エムナマエ自身が、自身の「失明」から気分を立ち上げるのに、そうした言葉が力になったかもしれないとは思いますけれど・・・。
『人権の絵本6 学びの手引き』(岩辺泰吏:編 大月書店 2000)
『じぶんを大切に』『ちがいを豊かさに』『それって人権』『わたしたちの人権宣言』『タイムトラベル人権号』と続いてきたシリーズの最終巻。これまでの五冊を繋げるための手引き編です。
これはよくできた啓蒙絵本です。教えよう、学ばせようはもちろんあるのですが、その描き方が具体的で、よく整理されていて、判りやすいのです。だから書き手たちの伝えたい思いも伝わってきて、気持ちがいい。
小・中学向けとなってますが、高校にもいいのでは。
『心に響く祈り』(葉 祥明/著; 愛育社 1999)
「癒し」系。
帯を見ると、「迷っている人、悩んでいる人、悲しみの中にいる人、あなたは決して、ひとりぼっちではありません・・・・」
んーん。
無言。
【創作】
『悪者は夜やってくる』(マーガレット・マーヒー:作 幾島幸子:訳 岩波書店 1999)
フォーンビーたちのクラスは宿題で、物語を書くこととなる。面倒だなー、と思っているフォーンビーの頭に何故か浮かんだのがスクゥジー・ムートという名前。何でだろう?
と、下校の途中であらわれたのが、針のような歯を持った悪者スクゥジー・ムート。早く本を書けという。書かれることで、自分は活動できるのだ、と。
うーん、書くか!
で書き始めると夢中になるフォーンビー。スクゥジー・ムートもご満悦。
が、次の日、スクゥジー・ムートが怒っている。物語が変わっているという。
何で?
じつは妹が、一緒にやらせてくれないフォーンビーに怒って、書き加えたのです。
でも、一度加えられた物語は戻せない。そこで、それを軌道修正するフォーンビー。
が、またしても!
よーし、今度はパパのパソコンで続きを書くぞ。これなら妹は使わせてもらえないからな。
と、図書館のパソコンから妹はハッカーとなり、フォーンビーの物語に侵入!
テクストを巡るメタフィクションで、ユーモア児童書を書いてしまうマーヒーの腕に、今回は脱帽。
『HOTチョコレート』(令丈ヒロ子:作 伊藤重夫:絵 小峰書店 2000)
『きみの犬です』(理論社)で、ヴァージョンアップした令丈の新作。
サイって男の子は、「わくわく」することがないともう、死んでしまうほど(チト、大げさですか。すみません)の体質。でも、そう都合よく毎日わくわくがあるはずもなし。
当然のことながら、そう、ないときゃ自分で起こすのだ、サイってやつは。
給食で、パン投げを始めたら、トマトも投げたらおもしろいんでは? マカロニも。ええい、クリームシチューも投げちゃえ! で、教室は投げ合戦でおおいに盛り上がる。
が、こんなのは序の口で、「人質17人理科室たてこもり」事件で、ついにサイは自宅謹慎に。
となれば、もー、ものすごく、もちろん、た・い・く・つ。
しょーがないので、大声で「バンザイ!」を唱えてみるのだ。
うーん。しょうがないやつです。
ワインをこっそり飲んで、熟睡のサイ。と、酔っ払ってうつらうつらのサイの耳に、「すこしだけ、血、もらいます」の声が。
血を吸われて、置きあがってみると、少年が庭で吐いている。アルコールの入った血に悪酔いしたのだ。
はい、彼は吸血鬼です。
なんか、すごい展開。新令丈節ですな、これは。
こうして物語は、だめ吸血鬼少年ツヨシくんと、サイの幼馴染のリマちゃんを交え、友情と愛情とほんの少しのせつなさで進んでいきます。
「わくわく」病のサイは当然、吸血鬼になりたい!んですけどね。
『ゾウの王パパ・テンボ』(エリック・キャンベル:作 さくまゆみこ:訳 徳間書店 1996/2000)
『ライオンと歩いた少年』(徳間書店)の姉妹編。
アメリカ人のハイラムは、象牙の密輸が行われていることを知り、それをなんとか阻止しようとの正義感に燃え、サファリへ飛ぶ。観光ガイドをやっているマイクとその運転手のネイティブアフリカンのベニーが今回も登場。この三人のドタバタもまた楽しめます。
さて、50年前、密猟者たちに群れを襲われ、ただ一匹逃げ出した子象がいた。その時、一人の密猟者を踏みつけ障害を負わせたのだが、もちろんそんなことは覚えていない。子象に残ったのはただ、密猟をする人間への憎悪だけ。
月日は流れ、今では子象はパパ・テンボと呼ばれ、象たちの守護神のような存在であり、密猟者たちにとっては、もっとも恐ろしい象である。
象牙や毛皮目的の密猟の長ヴァン・デル・ヴェルは、その非情さゆえ部下に恐れられる存在。彼の目的は象牙だけではない。象そのものの抹殺にある。彼は象を憎んでいる。50年前、自分を踏みつけ障害者にした、象を。
一方、アフリカゾウの研究をしている科学者の一家。娘のアリソンは、ふとしたことからパパ・テンボと心を通わせる。なぜか彼女にはわかるのだ。この象の悲しみと憎悪を。
こうして、ハイラムたち、ヴァン・デル・ヴェル、アリソンの一家と視点は次々と変わりながら、パパ・テンボをめぐって物語はスピードを上げていく。
物語の構造がしっかりとしていて、安心して浸れます。
『地下迷宮の冒険』(村山早紀 佐竹美保:絵 教育画劇 2000)
「魔法少女マリリン」シリーズ最新作。
魔法使いとしての冒険者を目指すマリリンが仲間と共に遭遇する冒険を描く設定。それ自体は、さしたる新機軸があるわけではありません。むしろ書き手はそうしたフラットな、敷居の低い設定によって、物語の中に読者を誘い込もうとしているようです。『指輪物語』や『ゲド戦記』などにある、濃密な世界とは無縁な物語と言えばいいでしょうか。
「王都アルシャンをいくらかはなれた、けわしい山脈のとある山の中腹。その山腹を内部へとえぐるように続いていた洞窟は、始源からの長い眠りに凍りつき、わたしたちをその冷気で、元の世界へと追いかえそうとしていた。」という最初の一文は、読者との距離を保っています。が、「けれど。そんなことで負けやしないのが、わたしたち--魔法少女マリリン・マルーンと、その冒険仲間たちなのであった!」と、リズムか変わり、続けて、「なんてね。まあとにかくわたしたち--魔法つかいのわたしと、剣士で吟遊詩人のヨーティさん、女剣士のヒカルさん、僧侶のイトークさんの例の四人組は、とある裕福な承認からの依頼で、その人の先祖がその洞窟に隠した財宝を取りに行くという冒険をしていた」と、一気にそれを無くし、まるで読者が「仲間」であるかのように振る舞います。
こうしたスタンスは、読者のスキルが落ちている今必要かもしれません。
今の文章に出てきた人々が冒険のパーティメンバーですが、剣士・吟遊詩人・女剣士・僧侶などということからも、RPGを極めて意識した造りになっているのもわかるでしょう。ここにも敷居の低さを指摘することができます。
そうしてマリリンという女の子の「成長」の様と、回ごとのテーマを伝えやすくする。
今回は、冒険好きのお姫様のお守りの仕事が入ったマリリンが、テキトーな冒険ごっこで安全にお姫様の冒険心を満足させようと思っていたら、本物の事件にまきこまれ・・・。
マリリンのおっかあが、キッツイお方で、私は好き。
『ゆうやけカボちゃん』(高山栄子:さく 武田美穂:え 理論社 2000)
一年生になったばかりのカボちゃん。
だからもちろんカボチャです。いじわるピーマンやタマネギにでかい頭をからかわれたり、大変な日々。でもがんばります。
ピーマンたちを喧嘩して、頭にけがをしたた傷口は、皮がむけて、夕焼けみたいな色、なんてのがいいです。それが、擬人化物の臭さからこの物語を抜け出させているんですね。
これ、シリーズにするのかな?
【評論他】
『星の王子さまと「心のきょう育」』(ルドルフ・プロット パロル舎 2000)
ブームの『星の王子さま』物の一冊。といってもの、この著者はこれまでにも『星の王子さまと聖書』などを出しているので、便乗本ってわけでもないでしょう。
「きょう育」は「教育」のように「教える」にバランスがかからないようにとの考えからの表記らしく、「共育」のほうが近いかな? でも、「きょう育」は、座りが悪い表記ですね、やはり。
段取りは、『星の王子さま』の中に書かれているエピソード、例えば大人への批判の部分を使って、現代の日本の状況を批判し、よりよき方向を描いています。
しかし、作品を使って、こうしたことを述べる方法には、迫力を感じません。
著者は神父なので、聖書を使ってこうしたお話をすることになれているのでしょうが、『星の王子さま』信奉のない私にとっては、困ってしまう。
また、母親(母性)の大切さを強調する辺りは、さすがに神父ということでしょうか?
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