じどうぶんがくひょうろん

No.34  2000/10/25日号

       
    

【絵本】
『マフィンと森の白ひげ』(ポール・ウォーレン:作・絵 新井雅代:訳 文渓堂 1996/2000)
 シリーズ第二作。
 快調です。
 絵のタッチも、その配置も、ストーリーも、私たちの心を揺さぶる新しい発見があるわけではありません。
 にもかかわらず、その心地よいこと。
 それは、たとえばRPGや長編ファンタジーが描こうとする冒険(世界と私の関わり)を読むことによる快感と解放感を、たった32ページの絵本で伝えてしまう力量といっていいかもしれません。

『おちんちんのえほん』(やまもとなおひで:ぶん さとうまきこ:え ポプラ社 2000)
 長らく性教育に携わってきた山本の遺作となった、性教育絵本。
 「性」と「体」の大切さ(つまりは自分の大切さ)をここでも山本は丁寧に伝えている。こうした書物はたくさんあったほうがいい。
 が、気になるのは、例えばそのタイトルにおいて男の性器が「おちんちん」と「お」が付けられていること。というか、「おちんちん」と「お」付きの言葉の流通と、対する女なの性器の「お」付き、「おまんこ」又は「おめこ」の流通が、明らかに違うレベルで行われていることの自覚。この「お」は二つの性器のジェンダーを露呈している。「ちんちん」が「おちんちん」と呼ばれることで、「性教育絵本」から、性の匂いを薄めているのだとしたら、それに対応して「おまんこ」は性の匂いを必要以上に背負わされてしまっていること。
 それと、最後が性交、受胎、新しい生命といったおなじみの「ええ話」に収束することも、そろそろちょっと考え直してもいいかもしれない。

『おちばのしたを のぞいてみたら』(皆越ようせい:写真・文 ポプラ社 2000)
 ダンゴムシ、ミミズ、ダニ、アリ。落ち葉の下の小さな生き物達の写真集。ただで小さな彼らのみならずそのフンまでが撮られている。よく撮りもとったり。生命の力がぞわぞわと漂い、それだけでもう、ドキドキします。こういう写真集には脱帽。

『こんこん、こんにちは』(和歌山静子 ポプラ社 2000)
 赤ちゃん絵本。
 たまごが割れて、出てきたひよこがとうちゃんに初めて出会うという趣向。
 父親の育児参加推進時代の作ですね。この絵本の読み聞かせはとうちゃんがあげるのが一番でしょう。

『恐竜トリケラトプスの大逆襲』(黒川みつひろ:作・絵 小峰書店 2000)
 ビッグホーンがひきいる草食恐竜トリケラトプスたちの日々を描くシリーズ。擬人化された恐竜たちの物語と、最後に黒川による、恐竜解説がつく。
 非科学的な物語に、科学的な解説という組み合わせは、よくあるパターンです。物語を楽しんだ後、学習。でもこのときの学習って、あんまし学習って気がしなくて、むしろ、登場人物(?)たちのことを詳しく知りたくて、こまめに読んでしまったりの経験は誰にもあるでしょう。
 で、解説が、擬人化された恐竜を想像力で本物に近づけるわけ。
 黒川の絵は親しみやすいものですが、もっとリアルかバートンのようなシンプルが私はいいなー。

『火の雨 氷の雨』(かやの しげる:文 いしくらきんじ:絵 小峰書店 2000)
 アイヌ文化を伝える萱野の昔話絵本の最新作。斎藤博之が亡くなり、今回は石倉欣二との新ユニット。
 斎藤の力強い画から、石倉のCGへ。これまでの萱野+斎藤世界に親しんだ人には違和感があるかもしれないですが、その軽味が物語のおおらかさとフィットしている。
 
『だじゃれなどうぶつたち』(たなかひろみ:文・絵 くもん出版 2000)
 「ことばっておもしろい」とのキャッチコピー。
「ねこがねこむ」「かめがかめない」。
 ・・・・怒るんじゃありません。
 そうしたごっつうしょーもないダジャレを喜ぶ時期を経て、子どもは笑いのセンスを磨くのです。

『ハト人間』(九 九十九:作・絵 東洋出版 2000)
 不思議な味わいの作品。
 ある日から、ハト人間が増えてくる。とうさんに訊ねても「ハト人間はハト人間さ」。
 彼らは働かない。遊ぶわけでもなく、クークー鳴きながらあちこちつついている。でも食事だけは人間と同じ。最初気にしていなかった人間もやがて、ハト人間を疎ましく感じるようになり、いじめ、殺す。でもハト人間は無くならない。一人が死ぬと、人間が一人ハト人間に変わってしまう。
 ハト人間には、差別されているどのカテゴリーを入れてもいいのだろう。
 意欲作だが、絵本として見開き左に絵、右に文章(ロゴは考慮されただろうか?)がずっと続くと、その単調さに疲れてしまうのです。

 
【創作】
『ぼく、ネズミだったの!』(フィリップ・プルマン 西田紀子:訳 ピーター・ベイリー:絵 偕成社 1999/2000)
 靴職人の老夫婦の元に、ある夜一人の少年が。事情を聞くと、自分は元ネズミだという。半信半疑の夫婦は彼を住まわせます。ロンドンでは今、皇太子の婚約者の話題で沸騰。舞踏会での出会いで恋に落ちた皇太子。謎のお相手。その新聞写真を見た少年は、「これ、メリー・ジェーンだ!」。しかし、彼女はオーロラ姫のはず。なぜ、それをメリー・ジェーンだなどと。夫婦は少年のために孤児院を探したりするのですが・・・。
 シンデレラ物語のネズミを素材にした、『黄金の羅針盤』の作者プルマンの最新訳。物語運びはさすが。婚約者を「オーロラ」(ディズニー版『眠り姫』の名前)にするなどの遊びを盛り込んでいて楽しいパロディ物。
 それでも、「自分を失った子供」といった設定は、「今」です。

『夏のねこ』(ハワード・ノッツ:作・絵 前沢明枝:訳 徳間書店 1981/2000)
 アニーとベンは、ある日、りんごの木の枝にいる三毛ネコと出会う。そっさくりんご姫を名付けるけれど、いつもやってきてはいなくなってしまう。ベンは飼いたくてしかたがない。やがてそのネコは、この地で夏だけ避暑にきているおばあさんのネコだとわかる。こんなに好きなネコなのに。
 どうしても叶わない願い、満たされない想いがあることを知るベン。たかがネコではありません。ベンにとってそれは大きな悲しみなのです。そこがジーンと伝わってきます。
 作者自身による絵もいい。ネコ好きの方はこの表紙見ただけで買ってしまう気がする。

『透きとおった糸をのばして』(草野たき 講談社 2000)
 自分が親友同士だと思っていた相手が、そうではなくなった時の孤独は、誰だって経験がある。
 今中学二年の私(香織)がそう。
 私は同じテニス部の唐沢ちなみと大親友だったのに、ちなみが好きになった梨本くんが、実は私を好きなことがわかってから、口もきいてくれない。私は、いつかきっとちなみと仲直りができると信じてクラブも止めずに頑張っているけれど・・。
 「私」は、そこで止まってしまっているわけです。そのかたくなってしまった心がどうほぐれて行くのかが読みどころ。
 第40回講談社児童文学新人賞受賞作とのことだが、こまかな心の動きを巧くスケッチしている。
 ただ、ラストにタイトルの意味が提示されるのだが、これは書き過ぎ。きれいに着地しようという気持ちはわかりますが。で、そこを書かないと仮定すると、このタイトルが浮いてしまう。つまり、「透きとおった糸をのばして」とのタイトルがあまり良くないと思うのです。

『だいすき! 3 未来』(松村美樹子:作 いそだわたこ:絵 ポプラ社 2000)
 「だいすき」シリーズ最新作。風渡小学校5年1組の幼馴染クルミ、直人、千秋、悟が繰り広げるドラマ。
 今回は、クルミが学校で拾った懐中時計を巡っての事件。落とし主をさがすのですが、やがてクルミは、自分がそれを持っているとき、未来がわかってしまうことに気づく。何故?
 物語は謎解きで進んでいき、軽いエンターティメントです。でも、クルミが未来を覗けると思ってしまう理由など、押さえるところはちゃんと押さえてあって、幼馴染の友情も熱いし、読ませます。かつてのジュニア小説学園物が小学生に降りてきた感じかな。
 この辺りの作品が充実してくれば、いい状況になるでしょう。

『悲しすぎる夏』(和田登 ぶんけい 2000)
 戦争児童文学の一つ。
「ぼく」は軽井沢でドイツ人ハンスたちと友達となる。蝶を追い、楽しい夏の日々。そんなおだやかな時間も戦争の足音が近づいてきて、そして、ドイツ人のハンスはユダヤ人でもあった・・・。
 外国人(西洋人)も多く住んでいた軽井沢での戦時下の子どもたちを描いたこの物語は、それだけでも目を通す意味はある。
 子どももまた加害者ともなるという視線は日本版『あのころにはフィリードリッヒがいた』という感じ。リヒターと同じ回想形式で書かれているわけだが、戦時下の「ぼく」で終われず、その後の「ぼく」までを描くことで(その過程で「ぼく」は、ハンスたちがナチスによって殺されたであろうことを知るのだが)、戦時下の子どもではなく、「ぼく」の懺悔と再生にバランスがおかれてしまっているように読めてしまうのが弱い。「ぼく」を免責するな、と言っているのではありません。そうではなく、それは読者に預けていいはずだ、ということです。エピローグは切ってしまったほうが(そのためには、その前の部分の手直しも必要ですが)、メッセージはより強く読者に伝わると思います。