じどうぶんがくひょうろん


No.38  2001.02.25

【絵本】
『満月をまって』(メアリー・リン・レイ:文 バーバラ・クーニー:絵 掛川恭子:訳 あすなろ書房 2000/2001)
 コロンビア郡の山中。かごつくりをして生きる人々の日々が淡々と語られる。あとがきによると1950代、段ボールなどが出てくるまで、こうした生活をしている村があったそう。といえば、なんだかノスタルジックな作品のようですが、ストーリーがそこから掬いあげています。大きくなって、かごを運べるようになった「ぼく」は、おとうさんと一緒にはじめて町に売りにでかけるのね。彼は町に行けるのがうれしくてしょうがないのだけど、町人が彼らの生活を馬鹿にしているのを知ってしまう。とても悲しい。かごつくりなんて! 
 でも「ぼく」は、父さんたちの仕事が好き・・・。
 って辺りの気持ちの微妙さが、静かに伝わってくる。
 バーバラ・クーニーが絵を担当した最後の絵本です。(ひこ)

大きなツリー・小さなツリー』(ロバート・バリー:作 光吉夏弥:訳 大日本図書  1963/2000)
 時期はずれですみません。
 けど、これ、おもしろい!
 タイトル通り、クリスマスツリーを巡るストーリーです。
 ます、お金持ちが大きなツリ−を買ったにはいいが、部屋に入れると、いくらなんでも大きすぎて、天井にあたってしまう。ので、侍従はツリーの先を切って処分。
 けど、それはささやかな生活を営んでいる人(私みたいなやつです)にとっては十分ツりーになるので、持って帰る。
 と、そこでもやっぱり、先が天井に・・・。
 話は、どんどんツリーの先が小さくなって、それを、より小さい動物が拾って、という風に、ま、お約束通りに心地よくすすむの。
 このシンプルさは楽しい。
 オチ?
 教えませんよ。(ひこ)

おさるのたしざん』『うさぎのひきざん』(かすや なみ:作・絵 赤木かん子:企画 ポプラ社 2001)
 子どもがつまずきやすい「さんすう」をわかりやすく伝えようとの赤木かん子企画によるさんすう絵本の第一弾。
 ちょっと見なら、よくある学習絵本ですが、そうしたものにありがちな、子どもをナメたような、「わかりやすい」物でも、親に目線を送っている物でもないのが買い。
 一言でいえば、とっても簡単。たしざんやひきざんの基本部分だけを、なんの工夫もなく(正確には、工夫がないように見せる工夫をして)、差し出しているのよ。
 でも、わり算はこの工夫では難しいかもしれない。(ひこ)

【創作】
夢界異邦人−眠り姫の卵−』(水落晴美:作 椋本夏夜:イラスト メディアワークス 2000)
 電撃文庫。デビュー作だとか。
 凛はサイコダイバー。他人の深層意識―「夢界」と呼ばれる―に潜りこむ能力を持つ。同業者の紅美がダイブしたまま、現実世界に戻ってこないため、サイコダイブすることに。患者は高校1年生の女の子。身体に疾患はないのに、眠りから覚めないのである。凛がダイブした夢界は、感情や記憶までが管理された世界であった…。
 サイコダイブという設定上、仕方のないことなのかもしれないけど、夢界が現実世界の説明になってしまっていて残念。夢界の住人の亡骸がチョコレート化するイメージは不気味で秀逸だっただけに、現実世界との関係で説明して欲しくなかった…。(目黒)

『かめくん』(北野勇作:作 前田真宏:イラスト 徳間書店 2001)
 徳間デュアル文庫。「SF」ではなく、「空想科学超日常小説」という括り方が似つかわしい作品。
 リストラされた「かめくん」は、ヒトではなくカメを募集している仕事を見つける。仕事の内容は、フォークリフトの運転。時には、荷物に紛れていることがあるザリガニイという怪物を退治しなければならない。実のところ、「かめくん」は、カメ型ヒューマノイド・レプリカメで、木星戦争において開発された兵器であった。レプリカメのジレンマ(自らの存在を疑う思考そのものもまたプログラムされたものかもしれない)を生きる、「かめくん」の「His−Story」。
映画『ブレードランナー』のレプリカントがカメの着ぐるみを身にまとっていたら奇妙ではなかろうか。そのようなことが許されるのは、ウルトラマンなどに代表される「特撮もの」の世界だから。イラストは、平成ガメラのデザインで有名な前田さんだし。特撮そのものの世界観は、もはや私たちが世界を特撮のようにしか生きられないからこそ、リアルなのだと思う。傑作。(目黒)

『NOVEL21 少年の時間』(デュアル文庫編集部編 徳間書店 2001)
 徳間デュアル文庫が企画した全編書き下ろしのアンソロジー。執筆者は、上遠野浩平・菅浩江・平山夢明・杉本蓮・西澤保彦・山田正紀の6氏。巻末に、西澤・山田両氏の対談の前編を収録。「ハイブリッド・エンタテインメント」だけあって、ファンタジー・SF・ミステリー・ホラーなど、多種多様。インターネットもの・クローン・交換殺人・引きこもりなど、題材も豊富。
 アンソロジーのタイトルが象徴的かと。「おれは自分の歴史と巧くつきあっていけない予感がする。おれが40になるのって、想像できないよ。このまま空っぽで退屈でいるなんて、うんざりだよ」。この文章は、高校生の殺人をライブ感覚でポップに描いた『メイド イン ジャパン』(黒田晶 河出書房新社 2001)からの1節だけど、「自分の歴史」(時間)は「少年」を苛立たせるほど、ウエイトを占めている。にもかかわらず、アンソロジーでは、「少年」たちは「時間」と折り合いをつけていく。「はじめに」で述べられていた「的確な現実逃避」先を用意しているのだろうか。男の子たちは、このように「時間」に対してアンビバレントな感情を抱いているのかも知れない。2月刊行予定の姉妹編は『少女の空間』。女の子は「空間」を生きる?この欄で取り上げる予定。(目黒)

『失踪HOLIDAY』(乙一:作 羽住都:イラスト 角川書店 2001)
 スニーカー文庫。表題作の他に、短編「しあわせは子猫のかたち」を収録。
 6歳で母親が大富豪と再婚。小学2年生で母親が病気で亡くなって以来、ナオは施設に入れられるのではないかと不安でたまらない。そして、中学2年生の冬休み、父親が再婚してから半年後、継母と喧嘩をして家出をすることに。しかも、自宅に隣接した使用人が住む離れから、家族の動向を探ろうというのだ。使用人の女性を共犯にしたドタバタ劇は、意外な展開を見せる。
 「無敵」という言葉で、他者による否定を前提としない幼児の全能感を意味するなら、ナオは間違いなく「無敵」な女の子です。でも、幼いけれど、彼女はアクションを起こすことが出来るだけ、世界に対して開かれている。だから、この作品は風通しが良い。象徴的なことに、カップリング作品の主人公は、引きこもりがちな大学生の男の子。世界を憎んでます。ナオであれば、個別の誰かを憎むことはあっても、関係の総体としての世界を憎むことはないと思う。世界を憎むのって、結局は個別の関係性(コミュニケーション)からの逃避なのかも知れませんね。(目黒)

『図南の翼 十二国記』(小野不由美 講談社 2001)
 ようやく、十二国記シリーズの講談社文庫版が講談社X文庫版に追いついた。本書は1996年にX文庫から刊行されていて、現在読むことができる十二国記シリーズの最新のもの。講談社文庫版の刊行は、ティーンズ・ノベルの現在を告げているようで興味深い。
 珠晶は豪商の娘で、12歳。先王の没後、恭国の荒廃は妖魔が跳梁するなど凄まじい。十二国は、王によって国土の安寧を得る世界である以上、玉座が空席の国は傾くしかないのである。王は民に選ばれるのではない。天上の生き物たる麒麟が「王気」を認めた者にしかなれない。そこで、珠晶は国を救うべく自らが王になるために、麒麟が住まう蓬山を目指す。
 12歳の女の子が主人公だからか、シリーズで最も児童文学してる作品。荒廃した国で、不自由のない生活をする不自由さ。彼女の動機は、民を救うというよりは、個人的なだけに切実で、説得力がある。蓬山の道中は、十二国記らしく苛酷なもの。4月に刊行予定の最新作が待ち遠しい。(目黒)

『シャーロットのおくりもの』(E.B.ホワイト さくまゆみこ:訳 あすなろ書房 1952/2001)
 子ブタのウィルバーは、ペットとして飼われたのですが、大きくなると農家に売られてしまう。ってことは、やがてハムになる運命です。
 で、ブタ小屋に住み着いているクモのシャーロット。彼女はウィルバーにシンパシーを感じ、彼をなんとか救う方法を考える。そして、ある計略を立てる・・・。
 児童書を好きな大人はほとんど知っているであろう、長く読み継がれるべき作品の待望の新訳登場!
 こういう読む継がれていく作品の言葉は、やはり数十年に一度は、新訳があっていい。
 シャーロットの行いを「自己犠牲」の美しさと捉えてしまうとつまらない。(ひこ)

『はじまりのことば』(可能涼介 理論社 2000)
 小学校6年生の唯一の語りによる物語。拾ったサイフを届けたお礼にと若い男から貰った紙。それは書いても書いても文字が消えていく。ただし本物の言葉以外は・・・。
 どこか六〇年代の大学生の日々を彷彿とさせる、観念と感受性が落ち着く場所を探しているような話。
 でも、これが一二歳でも少しも違和感がないのが「今」です。(ひこ)

『マーガレットとメイゾン-マディソン通りの少女たち1』(ジャックリーン・ウッドソン:作 さくまゆみこ:訳 沢田としき:絵 ポプラ社 1990/2000)
 アフリカ系アメリカ人の少女マーガレット(11歳)の物語。
 大親友メイゾンとはずーっと一緒だと思っていたのに、彼女は受験に合格し、遠くの町に行ってしまう・・・。送った手紙に返事はこない。
 下町マディソン通りでの日常、学校生活、さりげなく流れる日々、でもマーガレットにはとても濃密な日々。ウッドソンの押さえた描き方は、そこをくっきりと浮かび上がらせるのね。
 とてつもないドラマがあるわけでもないのに、物語は熱いです。
 3部作なので次作が楽しみ。(ひこ)

『幸せの行方』(吉本直志郎:作 山本祐司:絵 ポプラ社 2000)
 海女になった千夏19歳の物語。
 民俗学がすきだという著者が、海女の暮らしに魅せられ、やがてこの物語に結晶したということになる。
 従って、海女の暮らしぶりなど興味深い記述はそこかしこにあり、ナルホドと読ませます。そこにドラマとして、おばあちゃん(大先輩の海女)から聞いた、昔おじいちゃんに頼まれて海の底に沈めた宝物を探すエピソード、後輩海女恵子の成長、千夏の恋愛感情などが組み合わせられています。それもまた案配良くうまい。
 のですが、うまい故か、流し読みできてしまう。のめり込めないんですね。(ひこ)

【評論他】
『少年たちはなぜ人を殺すのか』(宮台真司・香山リカ 創出版 2001)
 社会学者の宮台真司と精神分析科医の香山リカの対談集。映画「ユリイカ」の監督青山真治との座談会も収録。同じようなタイトルの出版物が数多くあるなかで、「知識人」(死語かな)としての誠意が感じられる数少ない1冊。
基本ラインは以下の通り。「脱社会的存在」の登場は、社会が「学校化」ならびに「情報化・コンビニ化」した結果である。「脱社会的存在」とは、「コミュニケーションのリアリティが狂って人と物とが区別できない」人たちのこと。「学校化」は、家庭・地域が実質的に学校の出店となること。社会全体が「勉強の出来不出来が専ら自尊心の糧になるような生活環境」と化したという訳である。一方、「情報化・コンビニ化」とは、具体的な他者とのコミュニケーション(社会的関係)を経由せずに、生活できる環境が整ったことを指す。前者は自己信頼とは無関係なプライドを肥大化させ、後者はそのようなプライドの温床となる。後者は利便性のため、改善することは不可能なので、前者に対する処方箋(自己信頼を育成する教育プログラム)が必要であるというのが骨子。
 両氏ともに、近年の仕事量には目を見張るものがある。そのほとんどが啓蒙活動であることを考えると、彼らの仕事量は日本社会の民度に反比例しているのかも知れない。(目黒)

『ある朝、セカイは死んでいた』(切通理作 文藝春秋 2001)
 昨年(2000)、相次いでユニークな著作(編著『地球はウルトラマンの星』ソニー・マガジンズ、共著『日本風景論』春秋社)を刊行した批評家の評論集。
県立所沢高校、戸塚ヨットスクール、宮崎勤、柳美里、オウム真理教、小林よしのり、「エヴァンゲリオン」、「ガンダム」、「ザ・ワールド・イズ・マイン」など、話題は多岐に及ぶ。たとえば、社会学のような一般論というか総論では物足りない読者には、各論の集積によってパッチワークのように現代社会の構図を浮かび上がらせる本書は魅力的なはず。
 いつも思うのだけど、切通さんの著作って、タイトルが抜群に良い。カバー・イラストは古屋兎丸さんだし、書物として見た場合でも買い。たとえば、山本直樹さんが描くところの女の子の繊細さではないとでも言おうか。蛇足だけど、イラストの廃墟に佇んでいるのが男の子だったら(実際の構図は廃墟にセーラ服姿の女の子の立ち姿)、最終章でさりげなく明らかになるタイトルのポジティブなセンスが誤解されてしまうのです。(目黒)