2001.04.25

       
【絵本】
『かえるだんなの けっこんしき』(J・ラングスタック:再話 F・ロジャンコフスキー:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 1955/2001)
 これ、半世紀前絵本ですが、そのいかにもシンプルな画がかえって新鮮。同じようなパターンのストーリー展開がページを繰るごとに繰り返されるシンプルさもいい。
 語り歌としてあったものらしく、最後に譜面も載っています。
 だから、言葉のリズムが一番大切。この場合、日本語のリズムになっていて、それが心地いい。
 オチは収まるところに収まって、ホッとしますね。(ひこ)

『びっくりめちゃくちゃなビッグなんて こわくない』(トニー・ロス:作 金原瑞人:訳 小峰書店 1992/2000)
 たいくつしているヘラジカくん、建築現場で働く。自分にぴったりの大きなスコップもマグカップもソファーもみんなクマのびっくりめちゃくちゃなビッグのものだから使ってはいけないと言われる。頭に来たヘラジカくんはびっくりめちゃくちゃなビッグと対決に・・・。
 ベテラン、トニー・ロスの爆笑ではなくクスリと笑わせるユーモアがここにもあります。それは、出てくる生き物(人も含めて)の表情の豊かさに負うところが多く、今作のヘラジカだって、ご覧なさい、ページごとの彼の心の動きがよく判ります。目の黒目(ま、点ですな)の位置がいい。(ひこ)

『ちいさなきかんしゃレッドごう』(ダイアナ・ロス:作 レスリー・ウッド:絵 みはらいずみ:訳 あすなろ書房 1945/2001)
 これも半世紀前の絵本。
 まいあさ元気に走るレッド号。その姿を見るのがカモもネコもカエルもみんな楽しみ。
 ところが、今日は走ってこない。どうして?
 疾走するレッド号の姿がストーリーの中に活き活きを描かれています。
 そして、レスリー・ウッドの絵のモダンなこと。
 ご覧あれ。(ひこ)


『ジェニー・エンジェル』(マーガレット・ワイルド:作 アン・スッパッドヴィラス:絵 もりうちすみこ:訳 岩崎書店 1999/2001)
 不治の病の弟デイビー。ジェニー・エンジェルは自分はエンジェルだからきっと弟を治せると信じている。自分の背中には天使の羽がある。だから、それを隠すのにコートは脱がない。デイビーを励まし続けるジェニー。
 言葉と絵がとても静かに物語をすすめます。
「心の底からなみだする絵本」って、惹句は「?」。『一杯のかけそば』じゃないんだから。(ひこ)

【創作】

『テディベアの夜に』金の星社(2000年12月刊)
ヴィヴィアン・アルコック著、久米穣訳。
原著『THE CUCKOO SISTER』1985.
 金の星社から2000年末に新しく出た、海外ヤングアダルト・シリーズ「ハートウォームブックス」。第一弾3点のうちの一冊。これはYAといっても小学校高学年からOKだと思う、よくできたサスペンス。BBC連続ドラマにもなっているそうだ。
 裕福な弁護士一家の語られざる不幸は、赤ん坊のころ誘拐された長女。次女のケイトはひとりっ子として育つが、そのことを知らされていない。そこにあらわれたひとりの少女は、「誘拐された子どもを返す」という手紙をもっていた。彼女ロージーは、本当にお姉さんなのか。原題にあるように、貧しい親が自分の子を裕福な家に育てさせようと押しつけたのではないか、という疑惑が持たれるのだが、両親は疑おうとしない。自分の居場所がなくなるような不安もあって、十一歳のケイトは、ひとりで真相を探ろうとする。
 恵まれた育ちのケイトと、貧しい母に育てられたロージー。異なった境遇のふたりの交流が、こまやかに描かれる。なぞ解きの楽しさも、児童書としてはかなり高得点といえるだろう。こういう良質のエンタテインメントは大歓迎。(芹)


『悪童ロビーの冒険』白水社(2000年12月刊)キャサリン・パターソン著、岡本浜江訳。
原著『PREACHER,S BOY』1999.
 自身も牧師一家に育ったベテラン作家が、十九世紀末のアメリカ、つまり百年前の「牧師の息子」を主人公に描いた。YAで快進撃の白水社、ルビはあれど、少年少女にはちと難しそうな一冊ではある。百年前の子どもの暮らしぶりを描いた歴史ものとしては、同じ作者の『ワーキング・ガール』や『北極星を目ざして』同様、読みごたえ十分。
 いずこも世紀末、世界が終わるといううわさが町に。それなら思い切り悪い子になってやろうと決心したロビー。牧師の息子という「よい子」の立場がきらいな彼は、だから、生粋の「悪童」では無論ない。仲良しと作った秘密の隠れ家を拠点に、いたずらや家出を試みるものの、浮浪者の親子と出会ったことから計画が狂いだす。
 貧富の差というテーマが浮かび上がってくる展開は、タイトルから悪童の活躍を期待する読者には「やっぱりパターソンだなあ」という感じ。パターソン・ファン(こっちの方が、コアな児童文学読者なのかなあ)には安心できる展開だろう。そんな意味もこめて、「じつに児童文学らしい」物語ではある。(芹)


『放課後のギャング団』ハヤカワ文庫(2001年3月刊)クリス・ファーマン著、川副智子訳。
原著『THE DANGEROUS LIVES OF ALTER BOYS』1994.
 こちらは同じアメリカの悪童でも、1970年代のカトリック学校でミサ侍者をつとめる少年たちの話。本書の校正中に病死してしまった著者の自伝的青春小説である。ちょっと『ライ麦畑〜』の伝統を想起させるあたり、正統派YAかもしれない。ちなみに本書をジョディ・フォスターが制作して映画化、今年アメリカでは公開されるという。
 舞台は1974年、ベトナム戦争や公民権運動も影を落とす米国南部の厳格なカトリック学校だ。ウィリアム・ブレイクを信奉する早熟な読書家ティムをリーダーに、悪業を重ねる「ギャング団」の少年たちの物語の語り手は、初恋とヘルニアに悩む13歳のフランシス。神父やシスターをモデルに聖書をパロディしたアダルト・コミックを制作した彼ら悪童は、それが見つかって罰を受けそうになり、さらなる危険を求めて暴走する。
 少年たちの揺れ動く心理がたくみに描かれ、フランシスの性体験の部分など超リアルで生ツバもの(?)である。黒人クラスメイトとの軋轢と和解のエピソードも、映画化のポイントとなりそうに感動うるうるだ。「自分か子供だったころ世界がどんなふうだったかを思い出してほしいから。なにからなにまで完全におとなになってほしくないから。」という本文のフレーズには、「自伝的青春小説」というジャンルの神髄がある、と思わされてしまった。(芹)


『蛇の石、秘密の谷』新潮文庫(2001年3月刊/1997年新潮社刊『アンモナイトの谷』を改題、文庫化)バーリー・ドハティ著、中川千尋訳。
原著『The Snake−Stone』1995.
 厳密には新刊ではないけれど、「カーネギー賞受賞作家」というオビがなければ、児
童書ファンも見逃してしまいそうなので、あえて紹介。森絵都と同じようにダイビング
が素材なのも、グッドタイミングかも。
 タイトルからはファンタジーを連想してしまいそうだが、さにあらず。飛込みの選手として活躍している少年が、何不自由なく生活しているもののどうしても気になること−自分の本当の親はだれなのかーを求めて、ひとり旅に出るという物語。冒険の旅を描いた休暇物語とも言えるし、自分探しのサスペンスでもある。そうした少年の一人称物語は、明るく冒険にみちたものだが、それと並行して挿入される少女の語りはトーンが異なる。望まれない新しい生命を、たったひとりで産み落とす少女の物語で、こちらに作者の資質があるのかもしれない。血の匂いのする暗い秘密の物語である。
 ふたつの語りの対比に、この物語の魅力があるとは、訳者の言うところでもある。この「ふたつの語り」、かたや少年の明るい物語(いかにも児童文学らしい)、かたや少女というか母親の暗い物語(いわゆる「小説的」世界)を共存させるというのは、多くの現代日本創作児童文学に共通する傾向、というのは、うがった読みだろうか。(芹)

ビリー・ジョーの大地』(カレン・ヘス  伊藤比呂美:訳 理論社 1997/2001)
 1930年代、オクラホマ。干ばつ、土嵐など、厳しい環境下に生きる家族。
 『大草原』の30年代大不況時代版です(『大草原』自身は、ちょうどこの作品の時代設定の頃に出版されたのですが)。だからといって、『大草原』的ノスタルジーな手法をこれはとっていません。むしろ正反対かな。
 物語は、男の子を望んだのに女の子が生まれたけれど、当初男の子用に考えていたビリー・ジョーなる名前をさずけられた少女の語りで進むのだけど、これが、まるで詩のように短い言葉で綴られています。
 だから小説を読むつもりだった人は最初とまどうと思います。
 けど、その無駄のない文は、入り込めれば読む者に強いイメージを残します。
 あーこんな方法があったんだと、感心。
 切なく愛おしい物語ですよ。(ひこ)

『ズッコケ家出大旅行』(那須正幹:作 ポプラ社 2001)
 50巻までが予定されているシリーズ42作目。
 このシリーズの安定感は抜群で、子ども読者の定番になるのも頷けるところです。
 今回は、母親が勝手に塾通いを決めたことに怒ったハカセが家出を決意し、もちろんそれにミーちゃんもハチベエも加担し、大阪までやってくる物語。
 大阪は私の地元なので、チェックが入ってしまうからかも知れませんが、今回のノリはイマイチです。
 家出の理由の曖昧さと、その途次から大阪までの冒険もこのシリーズにしてはトキメキません。「お約束通り」が、このシリーズの魅力ですが、今回はそのメリハリが効いていないのです。
 ここではインターネットも活躍するのですが、インターネットへの理解力不足も目立ちます。
 ま、たまには外すこともあるってことですね。
 次作が楽しみです。
 それにしても50巻でやめないでほしいなー。ズーッと書いてほしい。(ひこ)

『緋色の皇女アンナ』(トレーシー・パレット:作 山内智恵子:訳 徳間書店 1999/2001)
 久々に本格的歴史・フィクション物語の登場!
 時は11世紀、ビザンチン帝国。世継ぎの皇女として生まれたアンナが主人公。彼女は父である王から世継ぎと定められていたのですが、その知性故、実質的権力を握っている父の母、祖母に疎まれます。つまり、祖母が思いのままに操れないということですね。アンナもそうした自分のスキルを隠せばよかったのですが、自己顕示欲でそれを明らかにしてしまいます。祖母は、アンナの弟で、凡庸極まりないヨハネスを帝位につけるべく、画策・・・。
 といったドラマが、スリリングに展開していきます。
 ここには、勧善懲悪はなく、それぞれが抱える欲望と倫理が、作者の手によって、同じ距離でちゃんと制御されている。
 と思ってあとがきをみると、ノンフィクション作家なんですね。
 ナルホド。
 表紙もよしよし(好き嫌いは出るでしょう)。(ひこ)

『サギとり』(桂文我:文 東菜奈:絵 岩崎書店 2001)
 「きみにもなれる落語の名人」シリーズの一冊。文我が、短い落語や小話を紹介。そして基礎知識として、語られる時代背景や、落語のQ&Aを書いています。
 さしたる工夫があるわけでもありませんが、子どもたちに落語を残そうという文我の心根がよく伝わってきて、気持ちのいいできあがり。
 枝雀さんが亡くなってから、落語聞いてなかったですが、また聞こう(ひこ)

『銀のキス』(アネット・カーネス・クラウス:作 柳田利枝:訳 徳間書店 1990/2001)
 16歳のゾーイは、重病の母親への心配と、親友が転校していくことへの寂しさに、参っています。父親は母親の看病で疲れ果て、ゾーイと話す余裕もない。孤独感のゾーイ。
 一方、時を越えて生きてきたサイモン。邪悪な兄を倒すべく生き延びてきた、彼は、ゾーイと出会う。バンパイアである自分と、その獲物であるゾーイ。がゾーイの孤独とシンクロしたサイモンはゾーイに惹かれ始まる。ゾーイもまたサイモンに自分と同じ孤独を感じていく。彼が何者かも知らずに・・・。
 すでに『ポーに一族』(萩尾望都)を持っている私たちにとって、新しい驚きはないかもしれません。私もそんな感じで読み始めました。けれど、二人の孤独がふれあい始めてからが読ませます。ラストのせつなさと希望は、ホロリと。うまいね。(ひこ)

『ダブル・ハート』 令丈ヒロ子  講談社  2001・2

 子どもの頃、自分とそっくりのもう一人の自分の存在を夢想するのは、ちょっと妖しく怖いけどエキサイティングでもあった。恐らくそれは、"自分"というものを対象化して考える最初の契機だったような気もする。
 父親と二人だけで暮らしてきた由宇は、憧れの花水木女子学園中等部に入学した日、父親から双子の由芽という妹がいたことを知らされる。由芽は、出産のときに母親とともに亡くなったのだ。それ以来、もし由芽が生きていたらとか、私が生きているのは偶然じゃないかとか、幸せになれないのではと、死んだ妹のことが気になって落ち着かない。
 そんなある日、由宇は通り魔事件に巻き込まれ、金槌で頭を殴られて意識を失う。そのとき森崎という少年に助けられて一命を取り留めるが、それがきっかけで死んだはずの由芽が姿を現す。幻影かと思うがそうではない。森崎少年にも由芽の姿は見えるのだから。由芽は由宇とそっくりだが、派手な化粧をしていて乱暴で、自販機を蹴飛ばしてジュースのただ飲みを企て、煙草はプカプカと吸うし、由宇が心を寄せる森崎くんを横取りしようともする。突然現れた正反対の性格のもう一人の自分に辟易しながらも、由宇は由芽への反発を次第に溶解させていく。揺らぐ少女の幸せへの思いや不安を、巧みな構成でしなやかに描いて、深く心にしみる好作品に仕上がっている。(野上)

『メールの中のあいつ』 赤羽じゅんこ・作 長谷川集平・絵  文研出版

 アメリカや韓国に比べて、大幅に普及が遅れているインターネットだが、小学校にもパソコンが浸透し、子どもたちがメールを自在にやり取りする日も、そう遠くはなくなった。すでに中学生は、携帯電話のメールを日常化しつつあるのだから、もはや時間の問題だともいえよう。
 この作品では、顔を見たこともないメールだけの友だちの一人が、突然上京することになり、会いたいといってきたので、主人公の少年がうろたえるところから始まる。それというのも、メール上での少年はバスケット部のエースで、クラスの人気者ということになっている。実際は運動など苦手で、いささか不登校気味のパソコンおたく。クラスでは仙人などとからかわれているのだ。明るく饒舌にメール上で振舞っている、偽物の自分が一方にいて、それとは反対の自分がここにいる。それで、会うことができずに悩んでいる。しかも学校では、パソコンが得意だからと、担任の先生から学級新聞委員に指名される。
 メール友だちに会えずにいる自分と、なかなか思うようにまとまらない学級新聞の編集作業。みんなが本音を出し合って、新聞をなんとか完成させるプロセスから、メール友だちに本当の自分を打ち明ける決意ができる。偽らざる自分をさらけ出すことが自然体でいい。メールマジックは、新しい自分の再発見でもある。(野上)

『ウィザーズ・ブレイン』(三枝零一:作 純珪一:イラスト メディアワークス  2001)
 電撃文庫。第7回電撃ゲーム小説大賞銀賞受賞作。
 22世紀、人類は滅亡の危機に瀕している。大気制御プラントの暴走による異常気象とそれに端を発する第3次世界大戦の勃発により、陸棲生物の大半は死滅、人類の総人口は2億人にまで激減した。人類は、世界にただ7つだけ残された完全自律型閉鎖都市「シティ」とその周辺でかろうじて生存している。情報制御能力者、通称「魔法士」の男の子である天樹錬は、ある依頼を受ける。内容は、神戸シティに輸送される実験サンプルであるフィアという女の子の奪取。実のところ、フィアはシティ存亡の鍵を握る存在で、錬はある陰謀に巻き込まれていたのだ。やがて錬の前に、魔法士のなかでも近接戦闘能力に優れた稀代の騎士、黒沢祐一が立ちはだかるのだが…。
 情報制御戦闘の描写が熱い。たとえば、「(騎士剣「冥王六式」完全同調。光速度、万有引力定数、プランク定数、取得。「自己領域」起動準備)」「(運動係数制御デーモン「ラグランジュ」常駐。知覚倍率を二〇、運動能力を五に設定)」など。細部にこそ神は宿るのですね。(目黒)

『星界の戦旗3』(森岡浩之 早川書房 2001)
 ハヤカワ文庫JA(原題の巻数はローマ数字)。90年代を代表するスペース・オペラの傑作「星界」シリーズ(1996年〜)の最新作。
 アーヴ帝国は、銀河の大半を支配している星間国家。宇宙生活に適応すべく、遺伝子操作で生み出された種族から成る。今回の舞台は、惑星マーティン。ジントの故郷である。惑星マーティンがアーヴに降伏したのは、ジントが10歳のとき。惑星政府主席が父親であったことから、幼いジントは帝国貴族に列せられることに。以来、ジントは帝国貴族として帝国王女ラフィールとともに、星間戦争に従事してきた。さて、今回の任務は、三カ国連合艦隊の撤退により帝国領に復帰した惑星マーティンを含むハイド星系を伯爵として統治すること。しかし、惑星マーティンの領民政府は、帝国の支配を頑なに拒否していた。帝国の武力行使から、故郷を救えるのは、皮肉にも故郷から裏切り者の烙印を押された帝国伯爵のジントのみであった。
 このシリーズの魅力の一つは、平行宇宙戦に空識覚(アーヴの額に埋め込まれた空間を把握するための特殊な器官。宇宙船操作に要される膨大な情報量を処理することができる)など、SF好きにはたまらない設定だろう。しかし、書評子にとって最も興味深いのは、アーヴ帝国という支配者の視点からシリーズが構築されているところ。もっとも、アーヴは星間を統治することが目的であって、惑星の人民を帰属させることには一切関心がないので、「支配者」という語感とはニュアンスが異なるのだが。シリーズが惑星マーティンの侵略から開幕したことを考えれば、今作で一区切りついたと言えなくもない。次作から、アーヴ以外の星間国家について語られるということなので、期待大。(目黒)

『鬼童来訪 起の章』(一条理希:作 山田章博:イラスト 徳間書店 2001)
 徳間デュアル文庫。
 百帝の御世。鬼が跋扈し、人々は為すすべもなく喰われるしかなかった。というのも、鬼を倒すことができるのは「鬼童」のみであったからだ。鬼童は、命鬼に天命を喰らわせることで鬼を倒す力を得るかわりに、寿命が4年に縮んでしまう。真那は最後の鬼童で、鬼を生む障母を滅することができるという実を探す勅命を百帝から受けている。薬師の泰冥に、巨大な木の実に封じられていた少女のあけびを伴に旅を続けるが、真那に残された時間は2ヶ月余りしかない。
 日本の古代を題材としたファンタジーに人気が集まるようになって久しい。最近では、コーエーのプレステ用ゲームソフトで『LaLa』に連載されていた『遥かなる時空の中で』(白泉社)がヒットしているようだし。理由は分からないけど、剣と魔法の正統派ファンタジーが飽和状態で描きにくくなったのかも知れませんね。(目黒)

『レインボゥ・レイヤー 虹色の遷光』(伏見健二:作 藤川純一:イラスト 角川春樹事務所 2001)
 ハルキ文庫。
 30世紀。陽帝国の植民コロニーでバイオハザード(生物災害)が発生。コロニーの2億人が恐怖死する。人類が外宇宙に進出して以来、遭遇することになった未知の生体であるカウンター・イディオム生物が発生したのだ。これを鎮圧すべく、新鋭艦クラフティ4番艦が派遣される。クラフティ艦は、遷光機関という物理法則を越えた動力装置を搭載しているのだが、この遷光機関は魔術師と呼ばれる超識能力者にしか動かすことができない。そればかりか、魔術師はカウンター・イディオムに耐性があるので、クラフティはカウンター・イディオムに対抗できる唯一の組織なのである。4番艦がコロニーを調査したところ、唯一の生存者が冬眠ポッドで発見される…。
 サイエンスとオカルトが絶妙に配合されたコズミックホラーSF。外薗昌也氏が解説で述べているように、「コズッミクホラーの怪物やら、サイバーパンク美女やら、魔術師やら、アンドロイド乙女やら、マッドな科学者やら、果ては少女と猫に、もちろん擬似科学まで」、よくぞここまで詰め込んでまとめあげたものだと感心しきり。お腹いっぱいになれます。(目黒)

『猫の地球儀』全2巻(秋山瑞人:作 椎名優:イラスト メディアワークス 2000)
 電撃文庫。1年以上前の作品なのですが、2000年度のSF作品で随分と評判がよかったので、遅ればせながら取り上げます。
 地球の衛星軌道上に浮かぶコロニー。そこには、ロボットを従え、電波でコミュニケーションをする猫たちが暮らしている。理由は不明だが、人類は消え去っており、そのテクノロジーのみがコロニーに残されているのだ。猫社会は大集会によって管理運営されており、大集会の手によって地球と宇宙飛行に関する知識は隠蔽されてきた。そのような社会にあって、スカイウォーカーは、禁断の知識を一子相伝によって代々伝え、地球帰還を試みる稀有な存在だ。幽(かすか)は37番目のスカイウォーカーで、それ以前のスカイウォーカーたちの多くは大集会の武装集団「宣教部隊」によって殺されてしまった。やがて、スカイウォーカー幽は最強の戦士、焔(ほむら)と一戦を交えることになるのだが…。
 設定(地球帰還もの)そのものは新しくないし、猫社会を描いただけならば児童書にだって上野瞭の『ひげよ、さらば』(理論社)がある。ただ、この設定で猫たちが地球帰還を目指すとなると話は別。独創的ではないかも知れないけど、ツボを押さえています。それに、登場する猫たちがキュート。想像するだけでハイな気分になれます。(目黒)

『ニア アンダーセブン』全2巻(安倍吉俊+gk 角川書店 2001)
 角川コミックス・エース・エクストラ。マンガです。
 まゆ子は、クレーター周辺区に下宿している貧乏予備校生。予備校の授業料に下宿代など生活費をかせぐためにアルバイトに日々、東奔西走している。クレーター周辺区とは、巨大宇宙船の落下地点を中心とした地域で、宇宙人の居住区でもある。宇宙人たちはアンテナが頭部についている以外、人間とほぼ変わらない外見をしており、普通に暮らしている。まゆ子の下宿にも、ニアという宇宙人が居候しているのだが、何故かしらアンテナはついていない(アンダーセブンとは宇宙人の序列のようなもの)。「貧乏予備校生のまゆ子とオチコボレ宇宙人・ニアのヘタレ青春ぐらふてぃー」。
 繊細かつ美麗なデザイン。地味な服装がよく似合う優等生のまゆ子なんて、見事なまでに視覚化されている。にもかかわらず、その内容はちょっとお下品。絵柄の印象をよい意味で裏切ってくれます。絵柄と内容の落差は中毒性高し。そのためか、「いい子」症候群のような児童書っぽい挿話も嫌味にならない。こういう提示の仕方もあるのですね。(目黒)

【評論他】
<こども文化関連書>
『イギリスのいい子 日本のいい子』(佐藤淑子著 中公新書 2001年3月刊)

 比較教育学、児童心理学の立場から、日英の子育て文化を論じておもしろい。日本人は伝統的に、自己主張せず抑制を重んじる集団主義的な人格形成をよしとしてきたが、それが裏目に出て「キレる子」を生んだのではないかという主張に、説得力がある。
 児童文学との関連では、「情緒教育」の話が目をひいた。連帯や協調に重きをおく相互依存的な日本社会では、悲しみや恐れといった「負の感情」を理解することが尊ばれる。そこで国語教育でも、さまざまな局面での感情の読み取りが重視されるという叙述には、「おお、そうだったのか」と改めて驚いた。子どもをめぐる道徳律には成文化されない面が多々あるということに注意を喚起される一冊。(芹)