2001.05.25

       
【絵本】

ごめんねともだち』(内田 麟太郎作 降矢 なな絵 偕成社 2001)
 オオカミとキツネのともだちシリーズ最新作。
 ゲームをしていてもオオカミくん全然勝てない。思わずキツネくんに「インチキしてる」といってしまい、ふたりは気まずい仲に。
 どっちもなんとか修復したいけど・・・。
 短い話の中で、うまいオチをつけています。さすが内田麟太郎。
 にやりと笑って、心が温かくなる。(ひこ)

『ベニーいえでする』(バルブロ・リンドグレン文 オーロフ・ランドストローム絵 長下 日々訳 徳間書店 2001)
 掃除をしながら、ぼくの大切なぬいぐるみまで洗濯しようろするママ。そりゃ汚れているけど。
 家出だ!
 でもだれもぼくを受け入れてくれないしね。
 『ごきげんなすてご』(いとうひろし)のような至福な時が訪れるわけではありませんが、人々の風景が現代的であり、ぼくが家に戻る気持ちが無理なく描かれていて、読む側が安心できる仕上がり。(ひこ)

『パパと10にんのこども』(ベネディクト・ゲッティエール作 那須田 淳訳 ひくまの出版 2001)
 もう、10人も子どもがいたら大変。でもこのパパ、子ども大好きで、いっこうに苦にすることなく子育て、でもでも、やっぱりこのごろちょっと。
 10人の子どもってだけでもうインパクトあるのですが、絵がいい具合にはねていて、楽しく読めますよ。
 ストーリーはお約束道理で、もすこし工夫あってもいいのでは?(ひこ)

『チビねずくんのあつーいいちにち』(ダイアナ・ヘンドリー作 ジェーン・チャップマン絵 くぼしま りお訳 ポプラ社 2001)
 友情物語。「チビねずくんのながーいよる」の続編、というかシリーズ。
 今回オオねずくんは庭の手入れなんかでいぞが恣意のにチビねずくんはいっこうに手伝ってくれない。
 よーにみえるんですが、でも最後はね。
 しかし安定度の高い絵本。こうした安定性のあるほのぼの絵本が今もとめられているということかな?(ひこ)

『みんなでピクニック』(彩樹 かれん作・絵 ひさかたチャイルド 2001)
 引越したばかりの子どもの不安は体験者にしか想像できないかもしれません。タヌキのポンちゃんもそうで、みんなとピクニックに行きたいけれど、言い出せなくて・・・。そこで、うさぎさんに化けて仲間になるのですが・・・。
 タヌキがポンちゃんってネーミングでいいんでしょうか?
 最後はポンちゃん、友達に受け入れられます。だから安心感はあるのですが、そのストーリーの持って生き方が、できすぎで、リアルさに欠けるのね。
 絵は特徴なしで、損しています。(ひこ)

『わんぱくだんのはらっぱジャングル』(ゆきの ゆみこ作 上野 与志作 末崎 茂樹絵 ひさかたチャイルド 2001)
 「わんぱくだん」の三人が見つけた秘密の原っぱ。それは、入っていくと体が縮んで、ま、コロボックルになってしまうのですね。チョウチョも大きい。カマキリに追いかけられて、さあ逃げろ!
 「コロボックルになって」なんて書いてしまいましたが、そこから先、驚異の部分が弱いのです。遊びに夢中になれば、想像の中でもこのような体験をすることはあるはずですから、その楽しさ、ワクワクが欲しい。絵もベタで、ドキドキがなし。
 設定はいいと思うのですよ。絵本という短いメディアにはふさわしいし。工夫はここから先の気がするけどな。 (ひこ)

『たまちゃんのすてきなかさ』(かわかみ たかこさく 偕成社 2001)
 お出かけをしたたまちゃん。雨。傘は持ってきてたのですが、あれれ、穴が空いています。どうしましょう・・。
 から始まって、様々な生き物がその穴をふさいでいってくれます。そのたびに仲間が増えて行く。
 これは巧いです。別に新しい工夫があるわけでもないのですが、次はどんな生き物がどんな風にして穴をふさいでくれるんだろうと次のピージを繰るのが楽しみになります。
 絵の素朴さもいけてます。(ひこ)

『ポモさんといたずらネコ』(すぎたひろみ 理論社2001)
 ポモさん、お気に入りのぼうしが風に飛び、追いかけ・・・・、と、町一番のいたずらネコがそれをくわえて・・・・。
 開ける場面場面に何かを発見! というおなじみの設定。
 頭がはげて、ちょびひげで、小太りのおじさんと、足の先の白い黒猫なんて取り合わせも、ほどよくよくありそうなもの。で、そうしたことが、この絵本にある安心感を与え、そこからほんわかしたユーモアが立ち上がってきます。
 うまい。(ひこ)

『あなたは ちっとも わるくない』(「だいじょうぶの絵本1 安藤由紀 岩崎書店 2001)
 児童虐待を受けている子どもに向けて、「あなたは ちっとも わるくない」と伝える絵本。「ぼくがわるいこだから おかあさんに ぶたれるんだ・・・・」と思いこんでいたちびくま。診察したやぎせんせいは体中にあるアザを見て・・・。
 ちびくまをぶつおかあさんもまた、心に傷をかかえている、ということまでふみこんで描いています。
 児童虐待を受けた子どもの治療方法や、フェミニスト・カウンセリングを学び、今、人権活動をしているという作者。
 巻末に大人に向けて、児童虐待防止法の資料を掲載しているのも、行き届いている。
 絵は、動きのある表情豊かなもので、マル。でも、おとなしい感はあり。
 こうしたお行儀の良さは、啓発系には多いけど、例えば『はせがわくんきらいや』(長谷川集平)のような力も欲しいのですが。(ひこ)

『メダカのかいかた・そだてかた』(小宮輝之:文 岩崎書店 2001)
 科学絵本は、基本的に正確なデータを豊富に、どれほどおもしろくアレンジして、かつわかりやすく見せるかに尽きます。
 この絵本の場合、データを豊富にとりこんでいる点ではいいのですが、見せ方がイマイチ。
 「もくじ」のところに「はじめに」があるのですが、この導入だけで、かなり引いてしまう。だってここにはこの絵本の世界に入る前に最初から「いろいろないきものが共存できる、田んぼをいつまでも残したいものです」と、「指示」がある。これは、絵本を見終わった時、その内容によって読み手が自然に感じ取ることでしょう。「とくちょう」「すみか」「とりかた」という段取りもまとも過ぎです。
 絵は難しいですよね。「メダカ」を正確に描くことと、絵本を描くことは別の問題ですから。
 例えば、メダカと、メダカだと思ってしまっている魚や稚魚との違いをクローズアップして描き、その周辺にメダカの詳しい説明を置くことも可能だと思うのですが。

『はじめての食育』(服部ゆきお・服部津貴子 岩崎書店 2001)
 おなじみ服部料理学校の二人による、料理と体の絵本シリーズ(既刊6巻)。
 毎巻、体と食の解説と提案、そうして、「キッズ・イン・ザ・キッチン」として、写真入りで巻ごとのテーマに即したレシピ。
 作りとしては、前半は過不足なく、うまく伝えています。が、「キッズ・イン・ザ・キッチン」はもっと工夫があってもいいのでは。これでは、雑誌に載っている料理のそれと変わりません。レシピ、写真の置き方など、もっとすっきりとしかも目に付くようにできるはず。大型書店に料理本辺りを覗けば、いいヒントは見つかると思うのですが。(ひこ)

【創作】
『ケンムンの島』(島尾伸三 角川書店)

 著者は、両親の不和と母の入院という家庭の事情で、小学一年生のときに二歳年下の妹と奄美大島の名瀬市にある母方の叔母の家に預けられる。父は島尾敏雄、母はミホ。兄妹が島に移って間もなく両親も東京から合流し、家族四人での緊張感溢れる生活が始まる。常夏の眩しいばかりの自然の中で、虫や小動物と好奇心旺盛な子どもたちとが織り成す物語が、小児喘息に悩む少年の繊細な眼を通して、こまやかに描かれていく。それはまるで、セヘ(奄美焼酎)の香りとともに、ゆったりとした奄美の時間の流れが、心地よく心に染み込んでくるようだ。しかしそこには、軋み続ける「死の棘」の家の不安定さが、微妙に影を落とす。内気な少年と対照的に活動的だったマーヤは、少年が六年生の頃から急に喋れなくなってしまうのだ。布団の中に迷い込んだ赤いアリを凝視しながら、少年はそこに、諍いの絶えない両親が「狂気という羅針盤」を生活に持ち込んで苦しみもがく姿を重ね見る。
一九五三年に日本に復帰して間もない奄美には、亜熱帯特有の生命力溢れる豊穣な自然と、島ならではの人情が濃密に息づいていた。名瀬市でも、舗装されていない道路を、アメリカ軍が残していったジープを改良したミニバスが、一日に数回走る程度。ハブに噛まれて手足を切り落とした人や、奄美諸島に伝承されている小妖怪・ケンムンに出会ったという不思議な体験も珍しくはない。少年時代の光と影を微細に見つめながらも、「あの時代の奄美大島にこそ子どもの幸福があった」と写真家の著者は言う。人も自然も狂気さえも豊潤に包み込んでしまうケンムンの島の不思議な魔力は、現代の空虚と心の飢餓を癒すオアシスのようにも見えてくる。(野上暁)

『いちじくの木がたおれ ぼくの村が消えた』(ジャミル・シェイクリー:著 野坂悦子:訳 梨の木舎 1993/2001)
 イラクからベルギーに亡命したクルド人作家のデビュー作。
 イラン・イラク戦争の後、クルドの排斥を強めたイラクで見聞きしたことから、この物語は生まれた。
 ぼくの村は兵士に襲われ、別の村に逃げる。父親は戦いへと。ようやく再開し、反政府ゲリラの拠点でクラスぼく。あこがれのおじさんもゲリラ。でも、毒ガス兵器によって彼は殺される。捕まり収容所に入るぼくと母親。そこには悲惨な結末が待っていた・・・。
 この辛すぎる物語を子どもに読ませていいのか? との疑問を持つ人もいるに違いない。けれど、これも一つの現実・真実としてあることを、子どもも知っておいたほうがいい。そこから、「今の自分たちがいかに幸せか」なんて結論を導き出す必要なんかない。日本の子どもだって別の意味で大変なのだ。
 そうではなくて、現実の大きさを感じてくれればいい。(ひこ)

『ベルリン1933』(クラウス・コルドン:作 酒寄進一:訳 理論社 1990/2001)
 物語は1932年8月、あと半年で15才になるハンスが、やっと見つかった仕事の初出勤日から始まる。第一次世界大戦の敗北に続いて大恐慌。不況の波はやむことなくベルリンを遅い、ハンスの父親も、結婚して独立した兄夫婦も失業している。そんな中、体操クラブのコーチの引きで、やっと職に就けたのだ。
 たった15才で初めての職。当然緊張はあり、職場ではさっそく、男たちの洗礼を受けるわけだけど、ここでは、そこに政治が絡んでくる。ナチズムと共産主義。
 主人公一家は共産主義者。なのだけど、父親は今の共産党の方針に納得していなくて、除名されており、兄はバリバリである。だから、会うと政治談義でけんかスレスレ。そんなことを見ながら育っているハンスは、どっちつかずの共産党シンパといったところ。で、彼が就けた職場の主任は社会民主党員。ハンスの体操クラブのコーチはこの主任の義理の弟で共産党員。
 あー、ややこしい。
 このややこしさが、当時のベルリンの政治状況の写し絵であり、作者はそうした「時代」(日常)を克明に描いている。
 今から振り返れば、この共産党と社会民主党の消耗戦が、ナチの台頭を許してしまうこととなるが、私たちはこの物語で、その現場に立ち会うことができるのだ。
 1943年生まれの作者はもちろん、30年代を知っているわけではない。にもかかわらず、または、だからこそ、その時代を距離をおいて冷静に描いている。そして、そのことが、読む側にとっての臨場感を生んでもいる。私たちは、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、このもう起こってしまった悲劇と狂気のまっただ中で苛立ち、うろたえつつ立ち止まり反芻することとなる。
 だだ、ここでは、描写より説明が優先されていて、それぞれのキャラが立っているとは言い難いのが惜しい。体験者であるリヒター(『あのころにはフリードリッヒがいた』岩波書店)との違いだろうか。それとも、訳者あとがきによればこれは3部作の2巻目で、日本人に一番知られている時代を描いたこの巻から刊行されたとある。だから、1巻目から読めた方がそれぞれのキャラはもう少し肉を持ったのかもしれない。刊行が待たれる。
 ここには、戦争(第二次)を知らない世代が、それを調べて、次に世代に伝えよう(説教ではなく)とする真っ当な義務感がある。
 読んで決して損はない物語ですよ!(ひこ)

『一方通行』(クラウス・コルドン:作 松沢あかね:訳 いよりあきこ:絵 さ・え・ら書房 1979/2001)
 『ベルリン1933』の作者らしく、ここでも描かれ方は、ドキュメントに近い。
 主人公チャーリーとヘルベルトとアンディはつるんでいるのだけれど、ある日からアンディのつきあいが悪くなる。彼、彼女が出来たのだ。だからといって、シカトはないだろうと、ちょっと嫉妬混じりにイライラするチャーリー。が、アンディの彼女はどうやらヤクにはまっているらしく、ヤバイ。ひょっとしたらアンディもまた?
 この物語、だからといって、「若者」世界を描いたのでなく、それにかれらの両親がからまってくる。そこが、うざったい人にはうざったいだろう。でも、親・大人との接点が、墜ちていく子どもを救う可能性があることも、作者は伝えたいに違いない。
 それはほんとそうで、大人と断絶することが若さのシンボルであったり特権であったりする時代、つまりは「青春時代」というカテゴリーは今、その枠組みをうまく描けないでいる。そのとき、どんな接点、コミュニケーションが出来るのかは、必要なのかは、様々考える必要がある。(ひこ)

『届かなかった手紙』(クレスマン・テイラー:作 北代美和子:訳 文藝春秋 1939/2001)
 これは子どもの本ではありませんが、ちょうど、『ベルリン1933』とのからみでご紹介しておきましょう。
 設定は、アメリカで成功した二人のドイツ人、ただし一人はユダヤ人。生粋のドイツ人は不況下のドウツへ戻ります。どちらも画商。そうして、商売をかねた二人の文通が始まる。物語を構成しているのは20通ほどの手紙。二人の往復書簡が作品となっている。したがって描かれていることはほんのわずか。時代は1932からですから、先の『ベルリン1933』とピタリと重なります。ドイツに戻ったマルティンが次第にナチズムに傾斜していく様と、彼に、ドイツにいる妹の安否を気遣ってもらいたいユダヤ人のマックスの書簡。
 今も述べましたように、数少ない書簡ですから、わずかな情報(しかも後半はナチの検閲も入ってくる)しかないなかで、読者はそこで何が起こっているかを想像するしかありません。それがかえってリアルさを生んでいる。(ひこ)

『ソクラテスつかまる』(山口タオ:作 田丸芳枝:絵 岩崎書店 2001)
 しゃべるネコ、ソクラテスのシリーズ最新作。町にサーカスがやってきて、ぼくはそこの子と友達になる。招待券をもらって一等席で見学。が、ソクラテスがしゃべることを知ったサーカスの団長は・・・・。
 このシリーズの魅力はソクラテスのキャラ。もちろんネコなので、ぼくのいうことに従うわけもなく、マイペース。今回は、「友情」を描いています。
 田丸の描くソクラテスの表情がなかなかいい。
 物語は、まっすぐすぎて、もう少しひねりが欲しい気もするのですが・・・・。(ひこ)

『ポピーとディンガン』(ベン・ライス 雨海弘美:訳 アーティストハウス 2000/2001)
 妹のケリー・アンは架空の人物ポピーとディンガンが大好きで、いつも遊んでいる。ヘンなやつ、とぼくは思っているが、母親や近所の人々もけっこう彼女につきあっている。
 一家は、ーオストラリアの鉱山近くに住んでいる。父親がオパール探しをしているのだ。
 いつまでたっても掘り当てられないオパール。
 ある日父親は、信じていなかったにもかかわらず、ポピーとディンガンを連れて鉱山に行くといい、そうして、鉱山にポピーとディンガンを置き忘れてしまう。それを知ったケリー・アンは落ち込み衰弱していく。
 妹を救いたい一心でぼくはポピーとディンガンを信じ、彼らを連れ戻すべく、坑道へ。
 弟が想像のドラゴンと遊んでいるのを知って、彼に寄り添っていく物語『ドラゴンといっしょ』(花形みつる 河出書房)がありましたが、それと同じくここでも父の影は薄く、「ぼく」の奮闘が、ほほえましくまた、せつない。
 住民もまたいいのよね。その半分は、ぼくといっしょにポピーとディンガンを信じてくれる。「信じる」ことの力、とでも言えばいいのか。それが届けられます。(ひこ)

『川の上で』(ヘルマン・シュルツ:作 渡辺広佐:訳 徳間書店 1998/2001)
 時は1930年代、ドイツ人宣教師のフリートヒは東アフリカ奥地の村で、夫婦と娘3人で暮らしている。町に用事で出かけ数日後、帰ってみると、熱病で妻は死に、娘のゲルトルートもまた生死を彷徨っていた。日頃、魔術師として見下している呪術師は言う。「小舟を用意した。一刻も早く川を下り、町の病院で看てもらうべきだ。川沿いの村々を頼ればいい」と。
 こうして、フリートヒは彼の信ずる科学からはおよそ遠い村々の人々に助けられながら、町を目指す。
 ここには、宣教師フリートヒがアフリカを知っていく過程と、娘との絆の回復が描かれていくわけですが、何よりその川を下る間の「アフリカ」そのものの存在感がいい。
 そして、娘を眠らせない(死の側へいかない)ために、自分の子ども時代を語っていく部分も小さなエピソードたちながら印象的。
 装丁もいい雰囲気を出していて、よし。(ひこ)

『メメント・モーリ』(おのりえん:作 平出衛:絵 理論社 2001)
 建築デザイナーの父と画家の母。12歳のほほは、二人の理想の子どもと自分がかけ離れていることを重く感じている、と同時に親に答えられない自分に落ち込んでいる。そんなおり、彼女のどこかへ行きたい気持ちに共鳴したオニのヨロイが現れる。
 舞台は、王子のモーリが将来何になるかを宣言しないために、時間が止まり、毎日が同じ日の繰り返しであるオニの国に移り、ここでもまた、親による子の抑圧とそこからの子(と親)の解放を描いていきます。物語の展開はスムーズ。
 ほほとモーリは当然重なっているわけです。が、現実のほほにおいて父親の影が大きいのに、モーリではほとんど母親。このねじれはどこからくるのでしょう。ほほが、女の子で、モーリが男の子だから? そうかも知れません。となると、今度はなぜ、女の子が男の子の変換されたのか?
 なにも完璧に重なる必要などないのですが、この物語の場合、そのズレの意味がはっきりしないため、モーリの「解放」がほほの「解放」になっていくのが、読んでいて今ひとつ心に落ちてこないのが、残念。
 でも、「今」を捕まえようとしている視線は好感。(ひこ)

『すいかおばけのおよめさん』(矢玉四郎:作 岩崎書店 2001)
 鏡の中のおばけの国の住人すいかおばけは、りえちゃんい見られてしまい、そのいいわけをするために、りえちゃんをつれて鏡の中へ。りえちゃん、むしばおばけってことにされてしまいます。
 さ、そこからりえちゃんが本当におばかかどうかのテストが行われるのですが、その場面での謎かけなんかは、子どもたちにちょうどよい案配で、矢玉のセンスが伺われます。オチもまた、程良い着地です。
 職人芸!(ひこ)

『それぞれのかいだん』(アン・ファイン作 灰島 かり訳 評論社 2000)
 合宿用のバスに乗り切れず、余ったから、バンにつめこまれただけの関係のまだ見知らぬ五人。クローディア、ピクシー、ラルフ、コリン、ロボ。ただそれだけのはずなのに、実は共通点があった。それは、五人とも、保護者欄に二つの住所を書いていたこと。
 バスがつくまでの間、五人は、宿舎の屋根裏で見つけた日記をきっかけに、それぞれの家庭事情を語りはじめる。
 「妖怪バンシーの本」や「ぎょろ目のジェラルド」でもすでにおなじみなように、この作家、とてもストレートに物語るのですが、今回もそうで、しかも、五人分ですから、もう、大盤振る舞いというのか、濃いというのか、お腹が一杯になります。
 それぞれの事情(みんなステップ・ファミリーの子ども)のいちいちに、「子ども」であることの不自由が描かれています。
 ラストがいささか強引ですが、これだけたっぷり読ませたのだから、その程度は、気になりません。(ひこ)

 
【評論他】
『なつかしの小学一年生』(熊谷元一:著 河出書房新社 2001)
 これは、評論でも論文でも、子どもの本でもないのですが、おもしろかったのでご紹介。
 写真集なのですが、信州は伊那の1954年の小学一年生たちを担任であった著者が写した記録本。
 このてのスナップは撮影の腕は別として、映された内容がおもしろいことが多い。
 ここではそれは、授業風景です。考えてみれば、授業中の生徒を担任が撮影していたという状況は、今ならかなりヤバイ出来事ですが、ま、そんなこと考えにもなかった頃だから残った貴重な写真です。
 たぶん、この写真集を観る世代で印象は違うでしょうが、注目して欲しいのは、「昔」の子どもは今よりおおらかなのかもしれませんんが、「学校」ではそうでもないこと。
 今風に言えば「学級崩壊」も起こってる。(ひこ)