2001.06.25

       
【絵本】
『ゆいちゃんのエアメール』(星川ひろ子:写真・文 小学館 2001)
 聴覚障害のゆいちゃんと、アメリカに行ってしまった彼女の親友恵美子ちゃんの往復書簡と写真で構成されている。往復書簡は彼女たちを取材してきた星川の創作なのだが、それがかえっていい効果を生んでいる。つまり、現実を切り取った写真と現実の書簡では両者の距離が詰まりすぎ重くなるのだけれど、ここでは、写真が自立しており、文はそれを際だたせている。
 危ないところでは、こうした素材の作品は、「善意」と「同情」にまみれてしまうのだけど、ここにはそれがない。
 いい写真に、いい文。
 そうして、やがてエアメールはもっと身近なEメールへと変わるところで文は終わっている。離れて寂しい二人にとって恩恵のようなEメール。
 とても仕上がりよく、心が温かくなる感動的な写真絵本だ。(ひこ)

『トゥートとパドリ-きみがわらってくれるなら』(ホリー・ホビー:作 二宮由紀子:訳 1999/2001)
 シリーズ3作目。
 おなじみの二人の物語。
 テーマというか設定というか、それはもう「トモダチ」。
 今回は、トゥートが、なんだか落ち込んでしまっていて、それをなんとかしようと、「トモダチ」たちが色んなことををする。
 その「ユウジョウ」は決してうさんくさくなく、心地よい。
 しかしそのどれもが功を奏さず、みんなが、がかかりしているとき、嵐がやってきて・・・。
 そうして、元気になったトゥートのせりふ。
 「ときどきは大あらしみたいなのがひつようなんだよね」
 その通り!(ひこ)

『ぎゅっ』(ジェズ・オールバラ作・絵 徳間書店 2001)
 チンパンジーのジョジョ、抱き合っている親子をみて、「ぎゅっ」。で、ページを繰るごとにカメレオンやヘビなど、次々と親子の「ぎゅっ」が描かれていく。
 ま、オチは当然、ジョジョも「ぎゅっ」が欲しくなり・・・、なんですが、この「ぎゅっ」も連鎖を眺めていると、コミュニケーションの基本がそれだってことを、ぼんやりと思い出させてくれます。
 こういうまっすぐな表現もまた、絵本というメディアの力なのを知らされます。(ひこ)

『Tシャツのライオン』(ウーリー・オルレブ:作 ジャッキー・グライヒ:絵 もたいなつう:訳 講談社 1999/2001)
 『かようびはシャンプー』の続編。シャンプー嫌いのイタマルくんの物語です。
 今回は、彼の誕生日のお話。家族から色んなプレゼントをもらうのですが、一番気に入ったのが、姉から贈られたライオンが描かれたTシャツ。
 さっそく着て、そのまま寝ることに。
 と、そのライオンがシャツから飛びだしてくる。
 なぜかといえば、ライオンくん、こんなかわいく描かれたのが不満。
 かっこいいのがいいのか、すてきがいいのか、いやいや、「おっかない、ライオン」。
 物語は、ライオンくんがどう「おっかない、ライオン」になれるかを巡って進みます。
 このとてもシンプルなストーリー絵本の良さは、Tシャツの中に描かれたライオンくんの欲望が、イタマルくんという男の子とはおよそそぐわないものなのに、そのイタマルくんとTシャツ・ライオンくんが、ちゃんと心を通わすこと。
 二人は、「仲間」なんです。
 そうそう、姉のキャラもいいですよ!(ひこ)

『ラパンくんのあそぶのだいすき』『ラパンくんのおまるがだいすき』『ラパンくんチュッチュだいすき』『ラパンくんいたずらだいすき』『ラパンくんのなつやすみ』(共に、イヴ・ゴット:さく いしづちひろ:訳 岩崎書店 2000/2001)
 フランスの絵本。だいすきシリーズ。
 ちっちゃな子どもにとって「だいすき」ってキーワードはとてもわかりやすいのですね。
 チュッチュならパパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゅん、みんなにチュッチュ。
 「子ども」であることの喜びが素直に描かれている幼年物。(ひこ)


『ラパンくんのなつやすみ』(イヴ・ゴット:さく いしづちひろ:訳 岩崎書店 2000/2001)
 こちらは、「いっっしょにことばをおぼえよう」と副題にあるように、なつやすみのラパンくんの日々の中にでてくる色んな動物や物の名前を、覚えていきます。夏向きの、または夏らしい言葉を並べることで、その画面が夏休みの雰囲気を浮かび上がらせる。
 当然、冬休みなんかも出てくるんだろうな。(ひこ)

『いいタッチわるいタッチ』(安藤由紀 岩崎書店 2001)
 どれが、どこまでが性的虐待かなんて、子どもにはなかなかわからないもの。
 この絵本そこをわかりやすくちゃんと伝えています。
 自分の体を自分自身が愛すること。
 そのために、ノーが言えること。
 それを忘れないために。
 大人にもおすすめ絵本です。(ひこ)

『あるけ あるけ』(長新太:さく こぐま社 2000)
 だれでもしっていくことだと思うが、長新太はヘンである。
 この絵本もそうで、主人公の女の子があるいていくと、バスがきて乗ると、そのバスも歩きだして、バスが通った橋もあるきだし、見ていた飛行機もあるきたくなってあるきだし、とうとう山まであるきだす。
 ・・・・・・ヘンな話を考えるもんだ。
 で、そんな長新太のヘンな作品を体験すると、心がほぐれてきてしまう。
 ヘンというのはやっぱり大切なことなのだ。
 ヘン?(ひこ)

『とかげとゲン平』(かみやしん:絵・文 小峰書店 2000)
 主人公の名前自体からもう、これはノスタルジックな絵本なのはわかりますね。
 時代設定はあきらかにされていませんが、初春の庭先にでてきたとかげ、それもシッポがちぎれたのを好きになった「ぼく」のそれからのとかげとの「交流」が描かれています。
 古いといえば古いです。
 でも、とかげとの出会いを体験したことがない子どもには、結構新鮮な作でしょう。
 よく知っている私も、うんうんと、懐かしく読みましたので。
 かみやしんの絵の色遣いはいいです。全編カラーだともっと良かった。(ひこ)

【創作】
『アウトニア王国奮戦記 でたまか 問答無用篇』(鷹見一幸:作 Chiyoko:イラスト 角川書店 2001)
 スニーカー文庫。「時空のクロス・ロード」シリーズ(電撃文庫)の著者の風変わりなスペース・オペラ。
 マイドはマガザン帝国の下流貴族で19歳の青年。両親は既に亡く、カネもコネもない自分の身を立てるために軍人を志す。成績は抜群に優秀で、とりわけ戦術と戦略に能力を発揮する典型的な指揮官タイプ。裏工作によって優勝が約束された門閥貴族を打ち破って、3年間の帝国士官学校を締め括る模擬戦闘トーナメントで優勝する実績を持つ。そして、卒業式典での任官辞令。成績上位者5名だけに与えられる恩賜の短剣を授かったマイドは、近衛師団配属が約束されていたはずであった。しかし、任地はアウトニア。帝国と敵対勢力の神聖ローデス連合の境界地域にありながら、軍事的要衝ではないため、正規軍が駐在していない辺境惑星である。国民風土は牧歌的にして、軍隊はあってないようなもの。コネもなく門閥貴族に楯突いたことで島流しにされたのだ。やがてマイドは、アウトニアの最弱艦隊を率いて連合軍との戦闘を余儀なくされるのだが…。
 スペースオペラなのだけど、たとえば田中芳樹「銀河英雄伝説」(徳間書店)のような質感はない。見事に脱力してます。スペースオペラはちょっとと敬遠していた人でも気軽に読めるかも。ちなみに、タイトルの「でたまか」は「でたとこまかせ」の略。「英雄伝説」のようなタイトルが使えない時代なのでしょうか。
(追記)前号をお休みして紹介するのが遅くなったら、早くも続編「奮闘努力篇」が刊行に。気が抜けません。(目黒)

『夢界異邦人 竜宮の使い』(水落晴美:作 椋本夏夜:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫。「夢界異邦人」シリーズの2作目。前作『眠り姫の卵』は38号で紹介しました。
 高校3年生の拓也の周囲で次々と奇怪な事件が起きる。拓也に悪意を寄せた人間が不自然な事故に遭遇しているのだ。事故現場では、深海魚のリュウグウノツカイによく似た巨大な生き物が目撃されていた。サイコダイバー(夢界に侵入できるカウンセラーのような職業)の凛と紅美は、リュウグウノツカイが夢界(精神世界)の住人であることを突き止める。竜宮城を形成した拓也の夢界で、2人は思いもがけない体験をすることになる。
 サイコダイバーが夢界を解明するという設定上、仕方がないことなのかも知れないけれど、夢界が解釈されればされるほど、御し易い何かに変容してしまっているようで気になります。ネタばれになるので具体的なことは言えないけど、リュウグウノツカイは拓也の現実に則して解釈された途端、その魅力(不気味さ)を失っているように思えるからです。イメージ(リュウグウノツカイ)の選択が秀逸な作家だけに、そのイメージを壊さないで欲しいと思うのは書評子だけではないはず。(目黒)

『玄武塔事件 名探偵狩野俊介』(太田忠司:作 末次徹朗:イラスト 徳間書店 1994/2001)
 12歳の名探偵狩野俊介シリーズの5作目が徳間デュアル文庫に登場。ちなみに、4作目までは徳間文庫で読むことができます。
 女子高生のアキは、親友の紫織に誘われて、彼女の故郷にある玄武屋敷を訪れる。紫織は多賀谷家の当主、貴峰の姪で、ある理由から玄武屋敷に赴く必要があったのだ。玄武屋敷では、過去数度にわたって不可解な事故が起きていた。折りしも、アキたちが玄武屋敷を訪問したのに合わせるかのようにして、10年前に殺人事件を犯し失踪していた貴峰の弟が帰ってきたとの噂が村中で飛び交っている。そして、第一の殺人事件。状況から、紫織が容疑者になるのは必至。アキは、懇意の石神探偵事務所に助けを求める。
 ミステリとしては、ミスリーディングが弱いかと。むしろ驚きなのは、このシリーズの時間の進み方。第1作目で俊介は小学6年生(2月)。第2作から第4作目までが中学1年生の1学期で、本作は夏休みという設定。事件に遭遇する確率の異様な高さが気になるが、孤児の俊介の成長物語として読まれているようなので、探偵と事件のパラドクス(エンカウント率の高さ)は無視してよいでしょう。探偵小説というジャンルは成長物語を盛り込みやすい形式なのですね。(目黒)

『ふわふわの泉』(野尻抱介:作 御米 椎:イラスト エンターブレイン 2001)
 ファミ通文庫。書き下ろし作品。
 女子高生の泉は化学部部長。部員は昶という男の子が1人いるのみ。文化祭の準備のため、ある実験を行なっていたところ、ある偶然から超物質を発見してしまう。それは、理論上その存在が予測されていたダイヤモンドの硬度を超える立方晶窒化炭素であったばかりか、空気よりも軽いという夢の物質であった。泉によって「ふわふわ」と名付けられたそれは、昶の祖父の助けもあって、特許申請が認められ、一大事業として成功を収めることになる。やがて、「ふわふわ」はその特性を活かして、地上と宇宙を結ぶ軌道エレベータ建設のプロジェクトにまで辿り着くのだが…。
 ご都合主義といってしまえばそれまでだが、この作品の読みどころはストーリ展開にあるのではない。「泉はこれを眺めるのが好きだった。表面で冷えた味噌汁が沈み、内部の熱い味噌汁といれかわる。個々の味噌汁にはなんの意志もないのに、自然に蜂の巣状のパターンが生まれる。自己組織化現象というやつだ。なるようになる―この無為のところが心地よい」。引用箇所は、ベナール対流を説明した場面。ここで、理系ではなく、文系のセンスが問われていることに注意されたい。ベナール対流によって、泉というキャラの性格を見事にイメージ化しているからだ。ストーリもまた、泉によって牽引されるというよりも、「無為」に展開していく。粗筋を紹介するだけではハードな印象を与えかねないけど、「ふわふわ度」が高くて敷居も低い佳作。(目黒)

『だいかいじゅうオニイタイジ』(いとうひろし作/ポプラ社 2001)
 子どもたちのごっこ遊びは、現実と空想の世界を、自在に行ったり来たりする。それが楽しいのだ。怪獣ごっこもまた、怪獣になりきることによって、潜在化している怒りや暴力性を瞬間的に発散することができる。そこに、子どもなりのカタルシスがある。
 留守番のおやつは、ビスケットが二枚ずつ。おにいちゃんは、怪獣ごっこをして、勝った方が全部食べることにしようと提案する。それで、弟のぼくが怪獣になる。ところが、何度対決してもかなわない。ぼくは部屋に逃げ込んで、大声を上げて泣きつづける。すると、身体中に不思議な力がみなぎって、ぼくは怪獣オニイタイジに変身する。オニイタイジは、ビスケットの森に分け入り、ガオーっと火を吐いて、おにいちゃんをやっつける。

 左ページはモノクロで、部屋の中での兄弟のビスケットをめぐる現実の場面が。右ページはカラーで、怪獣になったぼくとおにいちゃんの想像世界での対決が。それが中ほどにきて、見開きいっぱいの格闘シーンに広がる。木にはビスケットの花が咲き、身の回りの文房具や玩具(がんぐ)やお菓子が、擬人化したユーモラスな姿で描き込まれていて、これがまた笑いを誘う。すべての場面に、兄弟の熱い戦いの傍観者然として、さりげなく登場するネコのキャラクターが効果的である。兄弟げんかの心理と論理を巧みにとらえた、隅から隅までなかなか見ごたえのある絵本だ。(野上暁)産經新聞2001.06.12

『ぼくたちが大人になれない、12の理由』(ラルフ・ブラウン:作 金原瑞人:訳 角川書店 2000/2001)
 もし過去に青春なんてものが存在したのだとしたら、その楽しさの方ではなく、生きにくさは、「青春」を「ノスタルジー」に収納した人にはもう皮膚感覚としては存在を消去されているに違いない。
 青春とはそんなあいまいな過去だ。
 イギリスが舞台。もうすぐ17才のジェイクとスティーブン。この冬の楽しみは仲間とのスキー旅行。ジェイクなんて、コンドームだってちゃんと用意している。
 が、楽しいはずの合宿が、雪崩に襲われ、ジェイクとスティーブンだけが生き残る。虚ろな、空しい日々。遺された彼らが、死んでしまった仲間達のために出来ることは?
 一年後に死ぬことにきめた彼らは、それまでにやらなければならないことのリストを作る。先に逝った仲間達のために、実行が難しい12のことを・・・・。
 自分たちの輪郭を描けないままの彼らの苦しみと、そこから生じてくるピュアなモラル(アン・モラル)が迫ります。(ひこ)

『トリニティ・ブラッド 嘆きの星』(吉田直 角川スニーカー文庫 2001)
 第2回スニーカー大賞を受賞した吉田の最新作。
 これはまあ、スニーカーそのもののスタンスがそうなのですが、ここにあるのは非現実な現実世界です。
 ちょっとわかりにくい言い方ですね。
 えーと、
 現実をリアルに描けない・描きたくない作家か、現実をリアルに捕らえたくない、捕らえられない読者、どっちでもいいのですが、そうした「場」において、作られる作品の典型とまではいえませんが、一つの事例として、これはあります。
 「この物語は『荒唐無稽』です」と先に宣言して、自由に書ける「場」を確保する。
 誤解のないように付け加えれば、私はそうしてノリは、蔑視されるものではないと思っています。
 本作。
 バンパイアが設定の要。文明が滅んだ未来。辺境の街イシュトヴァーン。支配者ジュラはバンパイアである。彼は「嘆きの星」というかつての文明の廃棄を遣い、人類抹殺を図っていた。それを知ってヴァチカンはジュラを倒そうと、アベルを送り込む。彼は一見ひ弱な神父なのだが・・・。
 ストーリ展開の早さ、くすぐりのやおいっぽさ、など、今風満載です。一気に読めますよ。(ひこ)
 
【評論他】
『教養としての<まんが・アニメ>』(大塚英志+ササキバラ・ゴウ 講談社現代新書 2001)
 大塚がまんが(手塚治虫・梶原一騎・萩尾望都・吾妻ひでお・岡崎京子)、ササキバラがアニメ(宮崎駿と高畑勲・出崎統・富野由悠季・ガイナックス・石ノ森章太郎)を担当した共著。とりわけ、表現(形式)と主題(内容)の相関を論じた大塚のパートは、(牽強付会な印象もあるけど)必読かと。 
ただ、書評子の関心は各論にではなく、そのスタンスにある。タイトルに「教養」という言葉を選んだことからもうかがえる。誤解を避けるために言っておくと、彼らは大学生の教養の低下を嘆く学者とは一線を画している点に注意(もちろん、その風潮を利用して売ろうとしているのですが)。というのも、いたずらに教養の低下を嘆くのではなく、「やはり自分たちが伝える努力を欠いていたのではないか」と考え、「伝える試み」の一環として本書を上梓しているからです。たとえば、文学が読まれなくなったのは、作品のレヴェルが問題なのではなく、文学関係者のアナウンスメントが不足していたと考えるべきでしょう。 
ということで、このメルマガもまた、児童文学関係者からのアナウンスメントなわけです。(目黒)


『ヒルベルという子がいた』(ペーター・ヘルトリング 上田真而子訳 偕成社 1974/1978)
 この物語が訳された当時は、国際障害者年が3年後に迫り、この国でも障害者解放運動が真っ盛りでした。また、養護学校義務化の是非で、議論は沸騰(私は、義務化に反対でした)。そんな時代に、この物語が登場したのです。
 主人公の男の子は生まれるとき、鉗子で引きずり出されたためか、頭痛持ちで、ときどき手に負えなくなります。また、言葉で自分の気持ちをうまく表現できません。だから、本名のカルロットーは忘れられ、ヒルン(ドイツ語で脳)とヴィルベル(混乱)をつなげたヒルベルと呼ばれている10歳の子ども。
 当然のようにこの物語は障害児を理解するためのテキストとして読まれましたし、それは間違っていませんし、今でも必要な物語です。けれど、彼が障害児であるかどうかは横に置いて、一人の子どもとして眺めてみればもう一つの側面が浮かんできます。
 ヒルベルは、母親に子育て放棄されたので、ずっと施設で暮らしています。そこでうまく生き延びるために彼は自分に優しい人とそうでない人を判別するのが得意です。そして、いじわるなショッペンシュテッヒャーさんを見事にやりこめるための戦略を立てることもできます。また、臨床医が心理テストでどんな反応を欲しがっているかも知っていて、それにあわせます。
 これはたまたまヒルベルの境遇がそうだったからといえます。けれど、どんな子どもでも程度の差はあれ、ヒルベルと同じように、大人を出し抜こうとしたり、大人が喜ぶように演じてみたりしているものです。この物語はヒルベルを通してそんな子どものありようをもわかりやすく私たちに見せてくれていると思います。そして、
 ヒルベルは家族になってくれる人を求めています。そんな彼に優しくする人々もいるけれど、希望を叶えてあげることはできません。叶えられない限り、その優しさはヒルベルを絶望に追いやるばかりです。「優しさ」の怖さとでもいいましょうか、子どもはこういうことでも傷ついていくのがよくわかります。
 担当医の子どもになりたくて、重病のフリをするヒルベル・・・。
「ヒルベルがなにを考えているか、ヒルベルはいったいどういう人間なのか、それは、マイヤー先生にも園長先生にも、だれにもよくわからなかった。けっきょくのところ、かれはよそ者だった。病気だったし、自分をはっきる表現することもできなかったうえに、ほかの人を混乱させたり、興奮させることばかりしていたのだ。」と作者は感情を抑えて、大人の側から見える彼の姿を書き留めます。
 ところで、今の私たちは、似たような視線で現代の子どもを見てはいないでしょうか?(ひこ)
「子どもの本だより」2001.05