臨時増刊2001.07.07

       

 7月21日より東京で、以降順次公開予定の『アリーテ姫』を巡る座談会です。
 原作本はかつてベストセラーとなった、ダイアナ・コールスの『アリーテ姫の冒険』(学陽書房・刊)。これを機会に再刊されました。
 さて、どんな話題がとびたしますか。お楽しみください。(ひこ)

「アリーテ姫」座談会


まえおき
 2001年5月、東京で数回にわたり『アリーテ姫』の試写会がおこなわれました。ひとりで試写へ行ったCは、別の日に見た友人と、電話やメールで感想を言い合いました。以下はそのおしゃべりを発展させたもので、ABの友人ふたりがゲストになっています。
 三人とも試写会の時点では座談会を想定していませんでした。記憶があいまいなところはご容赦ください。また、ネタばれが嫌な方は、公開(2001年7月21日〜)まではお読みにならないように! では、はじめます。

その一:アニメ映画になった『アリーテ姫』

C:『アリーテ姫』はイギリスの『アリーテ姫の冒険』をアニメ化しています。わたしの場合、原作を知っていたのが、アニメ版を見ようという動機でした。
A:わたしもそうですね。でも、むしろ、「えっ、いまごろあれをどうして?」っていう感じも強かったのですが、多少は義理もあって。
B:昨年のファンタスティック映画祭で先行上映されたことは知っていたのだけど、いつ公開になるんだか全然情報を持ってなかったの。試写のお知らせには飛びつきました。実は原作読んでません。いろいろ理由があって。
C:原作の話はひとまず置いて、まずアニメ映画に限定しましょう。ではあらすじを振りかえるのは、わたしの役目ね。
ある王国の一人娘アリーテ姫は、塔のなかに隔離され、お姫さま教育を受けている。彼女と結婚し、王国を手中にしたいと願う騎士は、はるか昔に滅んだ魔法使いたちの残した魔法の品を持ち帰るのが条件。ところがこの条件を満たす候補者が何人も現れる。候補者は思い思いにアリーテ姫のもとへ忍びこみ、自分を売り込むが、アリーテ姫は承諾しない。そこへ、魔法使いの生き残りと称するボックスが現れ、自分が結婚相手にふさわしいと、重臣や王を説得する。
そのころ、アリーテ姫は騎士たちの持ち帰った品々のなかに金表紙の書物を見つけ、それを持って城下を抜けだそうとしていた。だが衛兵にみつかり、ボックスの前に連れてこられる。ボックスは平凡な容姿のアリーテ姫を、美しい女性に変え、呪いを解いたとうそぶく。彼はあっというまにアリーテ姫を妻にすると、はるか遠くの城へ連れて行き、地下室に閉じこめてしまう。
じつはボックスは異星からきた一族の唯一の生き残り。故郷の仲間と連絡がとれないまま、水を支配して村人に自分の世話をさせ、無為に日々を過ごしていた。あるとき魔法の水晶玉で、アリーテ姫が自分にとって命取りになることを知り、先手を打って飼い殺しを企んだのだ。一方魔法をかけられたアリーテ姫は、三つの願いのかなう指輪を持ちながらも、「助けを待つ」だけだった。でもボックスの世話をするアンプルという女性から、村を救って欲しいと頼まれ、少しずつ自分らしさを取りもどしていく。
ある日、ボックスは手を汚さずにアリーテ姫を厄介払いしようと、難題を言いつけ、後戻りすれば死ぬという呪いをかける。だが、アリーテ姫はボックスの裏をかき、村に水を送りこむ。それを知ったボックスは怒りにかられ、巨大な力を呼ぶが…
映画はこの少し後で終わります。このあたりで、感想に移りましょうか。

C:わたしは見ている間、緊張しっぱなしでした。アリーテ姫がどうなるのか、予測がつかないという不安が大きかったみたいです。導入部分は、ちょっとわかりにくかったかな。
A:そうですね、けっこう中世風の職人たちの生活とか、おつきの女性の服装とか、リアルな感じなので、何の話になるのかしら、って感じでした。いつのどこともわからない昔ばなしふうじゃなかったでしょ。
C:冒頭にこだわると、「塔のなかの姫君」というと、「いばら姫」などを連想させるロマンチックな響きがあります。(白状すると、このネーミングはアン・マキャフリィの同名のSFから借用してます。)とにかく塔で暮らすアリーテ姫はじつに孤独な子ども時代をすごしていたんですよね。友だちもなく、親にもかまってもらえず、王女という肩書きに縛られて。「姫」とはいいながら、容姿はごくふつうの少女。頭がよくて、好奇心と冒険心をもっている。 大人は世間から隔離してあれば安全だと思っているのに、子どもは勝手に外を知る手段を手に入れていた。これは大人と子どもの関係を表していて、けっこう普遍的だったなあ。
 途中で、じつはこれはアリーテとボックスの物語だとわかってきた。でも、実際には女性のほうに比重があるんじゃない?ちょい役ながら、魔法の指輪をくれる魔女と、村人代表のアンプル、そしてアリーテ。あ、ちょうど三人だ。
B:私はなにしろ原作を読んでいないし、出版当時に聞いていたあらすじも記憶の彼方の状態。だから物語の展開については全くの白紙で最後まで観ていました。どこに物語の中心があるんだろう…って、かなり長いこと考えていました。途中から、あぁこの観客の不安も作品の観せ方のひとつなんだって理解しました。
C:昔話的要素はいっぱい入ってますよね。あの、カエルが人間になっているあたりは、「カエルの王様」を意識しているのかな。時代設定は中世でしたっけ。
A:わたしはなんだか、昔話的要素がかえって壊れているような気がしました。壊してるのかもしれませんけど、意図的に。ボックスがほろびた文明の後継ぎであるという設定は、ラピュタを思わせますね。こういうSF的要素を持ち込まないと、アニメってできないのかなあ。
B:そういう訳ではないと思うんだけど…。何を「SF的」と捉えるかってことかな。
A:わたしの言うのは、つまり魔法を魔法として終わらせないで、そこに何か合理的な、あるいは擬科学的な説明を持ち込む、ということです。
C: ところでテーマについて、Aさんは前に、絞りきれていないとおっしゃってましたね。
A:製作者サイドからは、あえてフェミニズム的なところは抑えたのだ、と聞いていました。だけど、結果的に、私の受けた印象としては、テーマが絞りきれず、ごたごたしちゃった、という感じがどうしてもしてしまうのね。あれもいいたいこれもいいたい。それが結局「まじめすぎる」画面を作ってしまったのかなと。
(恐れ多くも)わたしがこのアニメを作る側であったとしたら、閉じ込められた受け身な姫君と、自分を閉じ込めている魔法使いがオーバーラップするところをもっと強調してみたいですね。ここが結局、私には一番面白いところだったんです。つまり、女性も男性も、お姫さまも魔法使いも、そのジェンダーや役割が先行して、自分らしく生きることを見失っているところは同じなんです。このアニメが、原作を超えて、一歩進んでいるのはここだと思いました。あ、まだ原作のことは言っちゃいけなかったのかな。
C:いいえ、かまいませんけど。
A:ここをもう少し、はっきりとしたテーマで打ち出せば、フェミニズムからジェンダー・スタディへ広がって行くでしょ。だけど、自然や環境の問題や、滅びた文明の話が出てきて、結局、ナウシカか、ラピュタか、アリーテか迷って決めかねた、みたいなところが、どうも落ち着きが悪かった。
C:アニメだと、年齢とか時間の経過がよくわからない。アリーテはいくつの設定なんでしょうね? 今になって気づいたのですが、魔女は千年生きてきたというのに、四歳の幼女の姿をとっていたし、逆にボックスが中身は若者なのに、大人の姿をしていて、そしてその召使はじつはカエルを魔法で人間に変身させたものであったと、みんな見かけと中身がずれていた。かろうじて村の女アンプルだけが、見かけどおり。これは昔話のテーマとも共通しますよね。
B:んー…。昔話のテーマってどういうことかな。見かけと中身がずれてたってところ?たしかにそういうモチーフは昔話的といえるかも。あの、四歳の幼女の姿の魔女って、自分の魔法で子どもに姿を変えた後で、水晶の玉をなくしてしまって元に戻れなくなったのよね。で、その玉を探している途中でアリーテに出会う。そしてアリーテに贈り物をして物語から消えていく。こういう「ストーリーの進行の中で必要な時にだけ現れて、その後を語らない」っていう登場人物の扱いは、とても昔話的だったと思います。
C:おっしゃるとおり、テーマというよりはモチーフというべきね。で、塔に閉じこめられていたとはいえ、少女時代のアリーテは心が自由だった。それに、行動でも多少の自由度があった。ところがボックスの城へ連れてこられてからは、完全に自由は奪われ、おまけに自分を見失っている。あのへんはストーリー展開上必要なんでしょうが、フラストレーションがたまった。原作のほうが、行動また行動で作られていますからね。
A:アニメのほうは、要するに、少女にはある程度の自由があるが、思春期を迎えると、「おてんば」ジョー・マーチは髪を切って、お父様の「小さなご婦人」にならなければならないということの比喩的表現なんでしょうかね?姿が変わる前の彼女は明らかに「こども」だけど、あとは「女性」ですね。
(注:ジョー・マーチはオルコット作の『若草物語』の主人公。)


その二:原作と比べて

C:このあたりで原作『アリーテ姫の冒険』の話にうつりませんか。原題はクレバー・プリンセス(賢いお姫さま)で、イギリスのダイアナ・コールスが1983年に出した、いわゆる創作フェアリーテールです。翻訳書は学陽書房から出ています。
比較のために原作のあらすじを、おさらいしておきます。
お后に死なれたある金持ちの王様は、宝物がなによりも好き。一人娘アリーテ姫は、かわいがってくれる召使から読み書きを習った。姫が十五歳を過ぎると、父王は求婚者の持参金を楽しみにしていたが、姫が賢く、結婚もしたがらないと聞いてかんかんになる。花婿候補の王子たちが逃げ出したあと、魔法使いボックスが現れ、「姫は賢いという噂だから、三つの難題を果たしてもらいたい、それができなければ首をもらう」と言い出した。父王はボックスが持参金としてちらつかせた財宝に目がくらみ、彼の求婚を受け入れる。
姫はワイゼルばあさんに相談し、魔法の指輪をもらっておいた。ボックスは姫を連れ帰り、地下におしこめた。そして召使のグロベルと、姫にだす難題を考えたが、その間、姫は指輪に出してもらった絵具を使って絵を描き、またアンプルさんという女性が作ってくれるおいしい食事を楽しんだ。
アリーテ姫は、永遠にわきでる井戸の水を持ち帰る難題も、また金色のワシの巣からルビーを持ち帰る次の難題も、アンプルさんや蛇のおかげでうまくやりとげた。そして退屈しのぎにたくさんの縫い物をし、さらにペンと紙を手に入れて自分のつくった物語を書き留めた。
三つ目の難題は銀色の荒馬を連れ帰ることだった。ボックスは今度こそ姫が失敗して、事故死するものと予想した。だが姫はこれにも成功。怒ったボックスは、姫を殺そうとしてかえって荒馬にけり殺されてしまった。こうして自由になったアリーテ姫は城をきれいにすると、魔法使いのワイゼルさんを呼び寄せ、アンプルさんとふたりに留守を託し、自分は銀色の馬に乗り、各国をみてまわる旅にでかけた。

C:こうやって比べるとアニメ版は、かなり変えてあることがわかるわね。原作のほうは、フェミニズム色が強くて、受身のヒロイン像のイメージを打ち破るのが狙いだった。で、日本でもフェミニズムの絵本として紹介され、1989年(平成元年)ごろには、新聞にとりあげられたり、話題になったよね。
A:じつは、話題になっていたころ、読んだはずだったのですが、忘れ果てていて、映画を見る前に読み直そうと思って果たせず、見たあとでまた読んでみました。昔話のくり返しの構造や、男主人公がやることになっているタスクを、お姫さまがやってのける、という意識的なひっくり返しが、あまりにあからさまで、創作としてはいかがなものか、という批判が多かったように覚えています。私自身の印象としても、技巧的に巧みであるという意味で、「クレバー」ではある、つまり、お姫さまも「クレバー」なんだけど、おはなしのほうも。巧妙に作ってあるけれど、それがどーした、みたいな。
C:わたしも原作はあまり評価してないひとり。受動的なヒロイン像を打ち破る作品はほかにたくさんあるし、そういうものと比べて、取り立ててできがいいとは思わなかった。だから読み返そうと思ったことはなかった。ただ今回アニメと比べるので読んだでしょ。すると、アニメはこことここを生かしたのか、こういうところは変えるんだ、という興味を持ちましたね。読み方としては邪道だけど。
B:私が原作に興味を持たなかった理由は、昔話の様式の中で新しいヒロイン像を描こうとしたという書評かなにかを読んで、その方法論そのものがおもしろくないなって思ったからでした。だって、「昔話」って、その語り方の様式そのものにこそおもしろさがあるわけだし、形だけ借りてきてそれをひっくりかえすことで創作としての魅力が生まれるとは思えなかったから。読んでないからあんまり強くは言えないけど。
C:方法はかまわないと、わたしは思う。ただ、それが作品として魅力的になっているかどうかが問題で、そういう点をクリアした作品にはひかれます。ところで今、イギリスでこの本は売れているんだろうか? アマゾンUKで検索をかけた限りでは、見つかりませんでしたが。
A:この本が出たころ、ロバート・マンチの「ペーパーバッグプリンセス」とか、アメリカでも<行動するお姫さま>ものがずいぶん書かれました。イギリスの絵本では、赤ずきんちゃん、白雪姫などを転覆させたジョナサン・ラングレイがシリーズを出してました。ですが、いまイギリスの本屋へ行っても見つかりません(翻訳は西村書店から今も出てますが)。単なる転覆の時代は終わったのかな、って感じです。要は第一波フェミニズムですものね。
また、アンジェラ・カーターが、伝統的なイギリスの昔話にも、「くるみ割りのケート」や「フォックスさん」など、女の子が勇敢にも友達を救う話があることに注目して、アンソロジーを出しましたし、19世紀の創作昔話のほうでは、ニーナ・アウエルバッハとクノップルマッハーがアンソロジーを出してます。わざわざ書き直してくれなくてもあるんだよ、という発掘作業です。もっとも、これは両方、子ども向きの本ではありませんでした。
C:印象に残っている発言があるのです。フェミニストの児童文学者である横川寿美子さんが、いつだったか、「アリーテ姫」は児童文学としては質が高いわけではないと話をされたの。横川さんは、フェミニストのあいだでは評判が高いんだけれど、これが児童文学の水準だと思われるのは、とても困るって。それ聞いて、(児童文学者としては)すごく共感したんですよね。
A:できがよくて、フェミニズムな児童文学ってむずかしそう(笑)。私は、このごろ、結局読み方しだいじゃないの、って気がしてるんですけどね。トライツというアメリカのフェミニズム児童文学研究者は、フェミニズム児童文学というのは、男の子であれ、女の子であれ、読み手に力を与え、自分の主体性に気づかせる文学である、と言っています。アニメ・アリーテ姫はその点どうでしょうか?
B:極端に言ってしまうと、私はアニメ・アリーテが女の子であったことに絶対的な意味があったとは思えないの。例えば、アリーテが王子でボックスが魔女の生き残りであったとしても、この作品は成立したんじゃないかな。もちろん、「女の子の物語」であったことで生まれるものは否定しないけど。求婚譚などはお姫様じゃなきゃダメだしね。でも、それ以上に日本のアニメーション作品がずっとどこかで命題にし続けているアイデンティティ・クライシスっていうテーマが、この作品にもしっかりあったなというところが強く印象に残りました。


その三:アニメ版の評価

C:ここからは、アニメーションとしての評価に話を移したいと思います。といっても、AさんもCも素人なので、技術面の話はBさんが頼りです。
まずわたしは、映像がきれいだなと思った。音楽のほうは、あまり印象に残っていないんですが、映像には釘付けになった。最初の城下町の場面とか、人々の暮らしとか、描写に見ごたえありますよね。
もうひとつ印象的だったのは、各場面の長さが程よいこと。これは、テレビのアニメ版などで時間稼ぎみたいに、どんどん走っていくだけとか、間延びした場面に出くわすと、苦痛だった反動かな。
少女の顔とか、ほかの人物はどうだろう。ステレオタイプですか?
A:ちらしの絵がほとんど宮崎**だったので、そう期待してたら、ずいぶん違ってた。アリーテ姫より、アンプルさんのほうが、ステレオタイプじゃないですか。宮崎**によく出てくる「まかしときな」ふうのおっかさん。
風景やひとびとの服装なんか、リアルでよかったです。時代考証されている感じで。音楽は、今となっては覚えていないのですが、たいそう心地よかったですね。好きだったんだと思います。
B:監督の片淵さんは宮崎監督と長く一緒に仕事をしてきた方です。だから端々にその流れを感じてしまうのかも。ちらしのアリーテのラフスケッチは、確かに「魔女の宅急便」のラフにそっくりだったし。でもキャラクター設定にあたったスタッフなどは全然別の所から出てきてる人です。製作のSTUDIO 4°Cって、今までもクオリティの高い作品を発表してるスタジオですよ。ただし、このアリーテのような作品は初めてかな。今までのはもっと、サイバーな感じ。今回はフルデジタル作品ということで、最先端の技術を用いて作られていました。
C:ちょっと待って。フルデジタルというのは、門外漢にはなじみがない言葉です。特別なことなの?
B: 原画・動画・背景などは人の手で描かれたものですが、それ以降の作業をデジタルデータに変換して仕上げていく方法です。「撮影する」という行程がないので、基本的には「フィルムレス」なんです。画面の加工も編集もデータ上で後からいくらでも行えるので、いろんな効果を盛り込む、もしくは絞り込むことがずいぶん自由になりました。あと、色の問題は大きいかな。今までは絵の具の種類に縛られていたけれど、デジタル彩色だと選べる色は無限。これは、制作者のセンスがもっとも露わになる部分だと私は思っています。今は「紙に描く」という作業までデジタル作業にする方法があるから、厳密にいうと、これからは「ベーパーレス」「フィルムレス」の作品を「フルデジタル」って呼ぶことになるのかもしれません。
A:そういうことはシロートのわたしはぜんぜん気がつかないことで、教えていただいてもいまいち分かったわけではなくて、情けなくもはぁそういうものなんですか、という感じです。
B:私はこの試写を観る二日前に「メトロポリス」(原作手塚治虫・脚本大友克洋・監督りんたろう)を観ていて、あぁ、技術的にはまったく同等なのにこんなに観せ方の違う演出が可能なんだ…と、そのあたりに興味を持ちました。尺…長さね、これもちょうど同じくらいなんだけど、観る方に要求される神経の使い方が違っていたというか。「メトロポリス」は、画面に視点の逃げ場が全くないほどあらゆるものが描き込まれていて、CGの加工もほんとにお見事!という感じ。でも、私には映像酔いっていうか、自分の意志とは別に強引にトリップに連れ込まれたっていう感覚が残ったの。
C:映像酔いというのはわかるような気がする。画面が大きいとインパクトもあるものね。
B:「アリーテ」はその点表現方法が全く別の端っこのものだったな。音楽の使い方にしても、空白に語らせる画面構成にしても、決して叫ばない役者さんたちの演技にしても。技術は同等でもその用い方が両極端だったってことだと思う。印象的なシーンとしては、広野にたたずむボックスを足下からカメラがあおっていって、頭のずっと上から俯瞰するところまでぐーっと移動していくっていうカットがあったのね。これ、きちんと動画で描いていました。今ならCG組んで簡単に処理できる(してしまう)絵です。これを一枚ずつ描いて観せていたところに、強烈に制作者のこだわりを感じました。ちょっとぶれてたけど。
C:ええっ? そんなのがわかるの、すごい!
B:登場人物たちが幾度となく「手のひらをみつめる」っていうカットが繰り返されていたでしょ。あのメッセージがこの作品のバックボーンであることは明白なんだけど、作品の中で生きている人間たちも、作り手たちも、「人の手でできること」を真剣に見つめているっていう姿勢が、とても自然に伝わってきたと思います。
C:なるほど、アニメを見るにもポイントというか、コツがあるのが今の話でよくわかりました。といっても、かんたんに身につかないでしょうね。
A:わたしもCさんも、本読みの人なので、基本的にアニメを見ても、映画を見ても、そういう映像の捉えかたがなかなかできないんですね。つい、原作はどうなったとかにこだわってしまって。Bさんのご指摘を聞いて、ああ、なるほど、と画面を思い出しました。
C:日本人好みですか、こういう探求ものは?
B:日本人の好みかどうか…。どうなのかな。地味で静かな作品でしたからね、アリーテは。単純に「流行」という視点から言えば、逆行してるかも。一般公開は単館上映だしジブリの新作と当たるし、興行成績的にいったらやっぱり静かな結果になりそう。でも、21世紀の初めにこういう作品が発表されたことには、日本のアニメーション界の底力みたいなものを感じます。
C:それがそのまま、このアニメ座談会のまとめになるかしら。このあとは、みなさんが直接ご覧になって、確かめるしかないって、思います。
A:こうやって話し合ってみると、なかなかよかったんじゃないのって気がしてきて、もう一度見たくなりました(笑)。
C:では最後に、ABCの名前をあかしちゃいましょう。いざ!
A:名古屋在住かわばた・ありこです。
B:東京在住、すやま・けいでした。
C:そして司会は、神奈川在住のにしむら・じゅんこでした。おふたりとも、長時間ありがとうございました。 2001年6月22日