2001.07.25

       
【絵本】
『わらって! リッキ』(ヒド・ファン・ヘネヒテン:作絵 のざかえつこ:訳 フレーベル館 1999/2001)
 右の耳がたれてしまっているウサギのリッキ。
 みんなにからかわれるから、枝を支えにしたり帽子で隠したり。
 その様々な努力そのものはおかしく、けれど悲しい。この辺りの表情がいいです。
 耳はみんな色々なんだ、ってこと、リッキも知っていく。
 絵の素朴さがいいですよ。(ひこ)

『ふれ、ふれ、あめ!』(カレン・ヘス:作 ジョン・J・ミュース:絵 さくまゆみこ:訳 岩崎書店 1999/2001)
 暑い暑い夏。人間も植物もぐったり。
 暑いからトモダチもすがたを見せないる 雨をまつ私。
 画が、本当に暑そうなんです。色もそうだし、風景の切り取り方も、「私」の仕草も、暑そう!
 そこから画が、物語が動いていきます。ともだちを訪ね、雨を祈り、雲が黒くなり、落ちてきた雨に、水着姿で飛び出す「私たち」!
 その解放感を、画は、繰り返せば、風景の切り取り方が巧く、活き活きと描いていて、心地よい読後感が漂うのね。(ひこ)

『森の水はうたうよ』(かみやしん 岩崎書店 2001)
 こちらも雨を待つ絵本。カエルを始め、森の動植物がポツンと落ちてくる雨粒を待っています。
 油彩、CG、控えめなコラージュ。イエローからグリーン、そうしてブルーへ、画は次第に深度を増していき、自然に生きる生物たちの命は輝いていくさまは迫力満点。
 でも、表紙だけは、あんまりいいと思わない。タイトルは平板だし、ロゴも色使いもその配置の仕方も、もっと工夫がいる。これでずいぶん損をしていると思うよ。(ひこ)

『どうぶつなんびき?』(はた こうしろう ポプラ社 2000)
 はたの画は、そのシンプルで伸びやかな線が、こちらの心を緩やかにしてくれる。
 今回の絵本は、タイトルにあるように、一匹のクマから二匹のキリンと、ページを繰るごとに違った動物が数を増やしながら野原にあつまってくる。
 それはさして新しい趣向ではない(そのことは別にかまわない)。従って、出来はそれをどう見せていくかにかかってくる。
 共に仲良く出会うはずもない動物たちが画面一杯に遊ぶ様は楽しそうなのだが、そう感じさせるための仕掛けがここにはない。
 もちろん小さな子どもはそれを喜ぶ、ということなのだろうが、それでは、造りとして、安全過ぎまいか?
 もう少しの怪しさが欲しい。(ひこ)

『しりとり』(まつおか たつひで ポプラ 2000)
 まったくタイトル通りの幼年絵本ですが、いいですよ。
 「ひと」からはじまるのですが、言葉と絵のつながりが実に巧い。「とび」が「びわ」に爪をかけている絵から、次は「びわ」の枝にぶら下がっている「わに」が「にわとり」を食べようとしていて、その「にわとり」のくちばしがくわえようとしている物は、次のページで明らかになる。
 という風に、おかしく、同時に次を繰らせる勢い。シンプルですがレベルは高い。(ひこ)

『タテゴトアザラシのおやこ』(福田幸広:写真 結城モイラ:文 ポプラ社 2001)
 CMでもおなじみのあの真っ白いタテゴトアザラシの赤ちゃん。
 この写真絵本は、そんな赤ちゃんが生まれ、2週間で親と別れるまでを撮っている。
 ここにも書かれているけど、一日2キロずつ大きくなって、40キロほどになったとき親と別れる。短いといえば短い子育て。生まれて2週間で自立です
もの。
 この絵本、写真をみているだけで、可愛いので、ふにゃってしてしまう。だから、文は最低限の補足説明でいいと思う。へたな感情を差し挟まないで。
 結城の文はその辺り心得てはいるのだが、それでもやはり、ポロリと余分がでてしまう。
 ここは、福田が書いた方が良かったかもしれない。
 でも、やはり、ふにゃっとはしてしまうのだ。(ひこ)

『ともだち ぐんぐん』(西内ミナミ:作 和歌山静子:絵 ポプラ社 2000)
 「こぎつねダイダイのおはなし」シリーズ。
 こぎつねのぐんぐんが蜂蜜を食べようとすると、クマが現れて、ともだちじゃないと分けてあがない。ともだちとは、この木を持ち上げること。なんて言われても、ぐんぐんは出来ないから、蜂蜜をあきらめ・・・・。と、いろんな動物と出会いともだちの条件を示されて、クリアできないぐんぐん。
 「ともだち」の一端を見せていておもしろいのですが、最後にみんなともだちになる、その詰めは甘い。(ひこ)

『彼の手は語りつぐ』(パトリシア・ポッコラ 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 1994/2001)
 作者の家に語り継がれてきた実話。
 南北戦争、北軍の少年兵シェルダンは黒人兵のピンクに助けられ、彼の家で匿われる。自分たちの闘いとして誇りを持っているピンク。一方、シェルダンが誇れるのは、リンカーンと握手した手だけ。
 二人は敵軍に捕まり、離されることに。最後にピンクが求めたのは、リンカーンと握手したシャルダンの手だった。
 ここには大きなドラマが描かれているわけではない。しかしシェルダンが体験した大きな出来事が、そこにある。
 語り継ぐことが出来なかったピンクのために、自分たちが語り継ぐこと。そして、絵本作家のパトリシアはここに、絵本として、その出来事を私たちに語り継いでくれている。(ひこ)


【創作】

『ツーティのうんちはどこいった?』(越智典子文、松岡達英絵/偕成社 2001)
 舞台は中米の熱帯雨林。主人公はハナグマの子どもツーティ。横長の絵本を縦いっぱいに使った場面の上に、真っ赤な花をつけた巨大なデイゴの樹が。眼下には広大なジャングルが広がる。
 さまざまな生き物が、まるで隠し絵のように描き込まれた樹上で、ツーティは力みながらウンチする。お尻から排泄(はいせつ)されたウンチは、蝶やトンボやインコが飛び交う空を舞い、ジャングルに消える。なかなか印象的で、秀逸な導入場面である。文章もいい。

 「ツーティは おもらししたことが ありません。あかちゃんのときから いちどもです」と始まるから、「え?」と思うが、「だって、どこでしたって いいのですから」と続いて納得。大袈裟(おおげさ)に言えば、ここにこの絵本固有の哲学がある。

 ツーティは考える。動物や鳥や虫たちは、みんな毎日ウンチするのに、どうして森はウンチだらけにならないのだろうと。そこでウンチ探索に向かう。

 ツーティのウンチにモルフォチョウが来て、吸水して飛び去る。さらに接近すると、ウンチは突然動いたのだ。ツーティは、びっくりして仲間にそれを伝える。恐る恐る見に行くと、ウンチの周囲をハエが飛び、下からたくさんのフンコロガシの仲間が姿を現した。

 ウンチをキーワードに、熱帯雨林の生態系をユーモラスに物語化した、濃密で楽しい科学絵本の傑作だ。(野上暁)
産經新聞2001.07.17

『ブンダバー』(くぼしまりお作、佐竹美保絵・ポプラ社・九八〇円)
 道具が百年を過ぎると魂を得て、人を化かすというのは、室町時代の『付(つく)喪(も)神記』以来、伝承されてきた、妖怪(ようかい)にまつわる共同幻想でもある。古い道具に人々が抱く、捨てがたい愛着を物語化して伝えてきたのだろうか。
 この作品でも、ホルムという小さな港町を舞台に、古道具屋の主人が、奥さんの誕生プレゼントに、拾ってきた洋服ダンスをきれいに手入れすると、意外なことが起こるのだ。

 タンスには、ネコの彫刻がほどこされていて、それにヒゲを書き加えてやると、人語を話す奇妙なネコが登場する。それが、ブンダバーである。タンスもまた、魂を得るあたりは、付喪神的だが、物語世界はいたって西洋的で洒落(しゃれ)ていて、この新人作家の豊かな才覚が感じられる。

 ブンダバーと暮らすことになった夫妻は、人前では絶対に喋ってはいけないと約束させるのだが、当人はお喋りしたくてしようがない。ちょっとした事件がきっかけになって、お喋りするネコが国中の話題になり、テレビが取材に来る。しかし、ブンダバーは取材をぶち壊してしまい、おしゃべりネコの存在は、ホルムの町の人々だけの秘密となる。

 ちなみに、ブンダバーとは、ドイツ語で「すばらしい」という意味だという。ユニークなキャラクターの誕生は、シリーズ化をも予感させ、今後が楽しみである。(野上暁)
産経新聞2001.07.03

『ルー=ガルー 忌避すべき狼』(京極夏彦 徳間書店 2001)
 「読者からの応募による未来社会の設定を盛り込んだ画期的な双方向性小説」だそうです。
  21世紀半ばのネットワーク社会が舞台。直接に人と会うこと(リアル・コンタクト)がもはや常態ではない世界。葉月の居住区の周辺で、14から15歳の女の子が連続して殺害される事件が起こる。葉月もまた14歳で、リアル・コンタクトが苦手なことも含めてごく普通の女の子であったのに、ある偶然から一連の事件に関わることになる…。
 コミュニケーションとは何か、根本的なところまで考えさせてくれる作品です。曰く、「コミュニケーションというのはそういうものです。常に一方向的なものなんです。どんな場合も、その一方向的な思い込みを誤解し合うことで成り立つのがコミュニケーションです。現在、その誤解の仕方が解らない人間が増えている。それだけのことです」。コミュニケーションを支えているのが「誤解の仕方」なのだということ。つまり、「家族」だとか「友達」だとかは、「誤解の仕方」をコミュニケーションの度に学ぶ手間を省きたい人たちのために用意された、対人関係のマナーについてのマニュアルにすぎないのです。「誤解の仕方」が解らない本作の女の子たちが魅力的なのは、コミュニケーションの度に「誤解の仕方」を学ぶ労力を惜しまない意味で、あまりに誠実だからなのかも知れません。(目黒)

『紫骸城事件』(上遠野浩平:作 金子一馬:イラスト 講談社 2001)
 講談社ノベルスの「戦地調停士」シリーズの最新作。
 紫骸城は、かつて世界を支配していた魔女リ・カーズによって設計された。宿敵オリセ・クォルトを倒すために必要な呪詛エネルギを貯める装置として。それから300年余り。紫骸城は禁忌の場所として封印されているが、限界魔導決定大会だけは例外であった。5年に1度開催されるこの大会は魔術の向上を目的としたもので、魔法を吸収するという性質から紫骸城が開催場所として選ばれていた。フローレイド大佐は大会の審判員として紫骸城に赴くことになる。やがて起こる大量殺人に巻き込まれるとも知らずに。
 異世界ファンタジと本格ミステリが見事に融合(前作『殺竜事件』ではこの世界がわれわれの世界のパラレルワールドであることがほのめかされていたりもしたのでSFも外せないかも)。犯人を中てることはさして難しくないけど、トリックには感心しきり。悪魔絵師・金子一馬のイラストもまた、よし。世界観と見事にフィットしてます。(目黒)

『刑事ぶたぶた』(矢崎存美:作 杉山摂朗:CG 徳間書店 2000/2001)
 シリーズ第3弾。徳間デュアル文庫では3番目ですが、廣済堂出版の刊行順だと2作目だそうです。
 山崎ぶたぶたは、バレーボールほどの大きさのぶたのぬいぐるみ。ぬいぐるみだからって、侮ってはいけない。刑事課捜査三係(盗犯係)でも有名な敏腕刑事だからだ。ぬいぐるみならではの特技をいかして、事件を解決している。それに妻子もいるらしい。宝石窃盗事件に赤ちゃん誘拐事件など、ぶたぶたに休日はない。
 ぬいぐるみのまま刑事で、しかも中年のおやじという設定が絶妙かと。見た目は可愛いけど、心は人情派。このギャップがたまらない。それに、CGのぶたぶたがキュート。とりあえず、表紙だけでも見てください。(目黒)

『ランブルフィッシュ (1)新学期乱入編』(三雲岳斗:作 久織ちまき:イラスト 角川書店 2001)
 角川スニーカー文庫。
 瞳子は、恵理谷闘騎技術専門学校でRF設計士を目指す16歳の女の子。RFはレイド・フレームの略で、強襲型有骨格兵器という人型兵器のこと。恵理谷闘専は、人型兵器の運用に際して必要な、設計・組み立て・操縦・整備といった各部門のエキスパートを育成する専門学校なのだ。学生は班単位で実際にRFを製造するだけでなく、模擬戦闘での結果を要求される。瞳子の班は下位に低迷しており、闘騎士(パイロット)と調教士(情報系整備士)が他班に引き抜かれて窮地に立たされていた。なんとか編入生の中から欠員を補充するのだが、そのうちの1人が闘騎士初心者でヤンキーの問題児であった。おまけに、沙樹と
いう名前から女性だと勘違いされて瞳子のルームメイトに…。模擬戦闘トーナメントに向けて波乱の学園生活が始まる。
 ロボットに搭乗して戦うだけでなく、その設計から整備までチームとして行動する場として全寮制の専門学校を設定しているところなど、ツボを押さえてます。同じような設定のPS用ゲームソフト『ガンパレードマーチ』(SCEI、2000)がユーザーから高い支持を得たことは記憶に新しい。ロボットと学園ドラマの組合せは強いということでしょうか。(目黒)

『Hyper Hybrid Organization01-01 運命の日』(高畑京一郎:作 相川有:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫です。
 貴久はハイブリッド素材を研究する大学院生。ハイブリッド技術は従来では考えられなかった新素材を生み出すテクノロジーで、言うなれば現代版の錬金術のようなもの。先輩の実験から解放され、百合子とデートをしていたところ、貴久たちは事件に巻き込まれる。ユニコーンと呼ばれる覆面集団とガーディアンの戦闘現場に出くわしたのだ。ユニコーンはハイブリッド技術の産物たる改造人間を所有しており、警察では対処できなくなっていた。ただ1人、ガーディアンを除いては。ガーディアンもまた改造人間で、ユニコーンと対立しているので、正義の味方と称されていた。にもかかわらず、百合子はガーディアンのミスによって殺されてしまう。貴久は百合子の敵討ちを誓い、ユニコーンとの接触を試みる…。
 仮面ライダーの現代版です。ただ違うのは、善悪の区別が曖昧なところ。正義の味方はヒロインを誤って殺してしまうし、ユニコーンは標的以外の被害は最小限に留める努力を惜しまない。設定は好みなのだけど、キャラがちょっと古臭いかも(仮面ライダーだからいいのかも知れないけど)。たとえば、百合子は幼稚園の先生で聖母のようなキャラなのです。もったいない。(目黒)

『Missing 神隠しの物語』(甲田学人:作 翠川しん:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫。
 高校2年生の恭一は幼い頃に「神隠し」に遭い、生還してきた経歴をもつ。ある日のこと、恭一は異界の女の子に出会う。通常の人間には見えないはずなのだが、「神隠し」に異界に連れ去られた経験のある恭一だからこそ見ることができたのだ。やがて恭一は行方不明に。親友たちは恭一を捜索していくなかで、「神隠し」に隠された真実を知ることになる。
 「神隠し」という懐かしげな題材を現代版の学園ホラーに仕立て上げているところなどは好感触。ネタばれになるので詳しくは言えないのが残念なのだけど、「神隠し」の解釈が現象学っぽいところが好みでした。
(蛇足)4月1日生まれの作中人物が同級生の誰よりも誕生日が早いという設定になってるけど、4月2日生まれでのはず。4月1日生まれは1つ上の学年になってしまうのです。念のため。(目黒)

『ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語』(パット・マーフィー:作 浅倉久志:訳 早川書房 1999/2001)
 ハヤカワ文庫。「ゆきて帰りし物語」から判るように、トールキン『ホビットの冒険』のパロディ(「ゆきて帰りし物語」は『ホビットの冒険』の副題であることはあまりにも有名)。
 ベイリーは典型的なノービット。ノービットは、冒険よりも軌道上での安楽な生活を好む集団の名称である。人類が地球を離れてから数十世紀を経て、星間旅行が当たり前のように行なわれている時代にあって、ノービットは保守的な一族として認知されている。ところが、ベイリーがメッセージ・ポットを拾ったことから、女性探検家ギターナに率いられたクローンの冒険一家ファール一族と深宇宙にまで冒険をする羽目になる。
 『ホビットの冒険』を換骨奪胎してスペース・オペラにした着想に脱帽。ホビット=ノービットほど、スペース・オペラが似つかわしくないキャラはいないだろうから。ただ、スペース・オペラとして読んだ場合、オーバーテクノロジーがあまりに万能で興醒めなところも。内容以上に気になるのは、『ホビットの冒険』って日本でメジャーなのかということ。非常勤先の大学生は知らなかったし。ただ日本の場合、オリジナルは知らなくても、ホビット的な物語(パロディ)を知らないうちにサブカルチャーを通して摂取しているのは確かでしょう。(目黒)