44号 2001.08.25

       
【創作】

『ゼブラ』(ハイト・ボトク 金原瑞人:訳 青山出版社 1998/2001)
 どう言えばいいのやろう? ここにある6つの短編は、底が抜けたり、世界の輪郭を失ってしまった手触りのなさや、浜崎あゆみが演じてみせる「私」への「癒し」や、宇多田ヒカルが告白する「君」への「せつなさ」や、スピルバーグが「A.I」で臆面もなく描く「童心」などの、「今」の先っぽ風景とは全く別の場所で物語が生成されている。
 だからといって、時代遅れだの、時代とズレているだのの批判は当たらない。いやむしろ、しっかりとした言葉でこれらの短編は「今」もまた、決して特異点ではなく、日常であることを惜しげもなく描き、差し出している。
 「今」の先っぽ風景は、常に更新されること(例えば浜崎が数年後、検索にひっかってこない可能性)で、私たちに「今」を感じさせるわけだけれど、『ゼブラ』に集まった物語たちは、「夢見る事ですら 困難な時代でも 忘れないで欲しいよ 」(「UNITE!」 浜崎あゆみ )とは決して言わない。「夢見る事ですら 困難な時代」に「忘れないで欲しいよ」なんて、そりゃ無茶というものだから。
 「よその家のことは知らないけど、うちの家族には大きな秘密がいくつかある」から始まるBBなる女の子が語る話(「BB」)を見てみよう。息子(BBの弟ティミー)を亡くしたために父親はもう子どもを欲しくない。でも母親はもう一度男の子を生みたい。そこで、ピルを呑まずに・・・。で、妊娠する。
 ここまでで私たちは、父親の抱く価値観と母親のそれが、カテゴリー・レベルで違うのをBBから知らされる。というか、そういう事態があるのを娘のBBがすでに知っていると知らされる。彼女は、自分がそれを「知っている」のを「秘密」にするしかないのだ。「家族」に軋みが起こらないために。
 出産の日、父親はNYに出張している。早く戻って来て欲しい。不安一杯のBB。出張のたびに父親はボイスレコーダーにBBからの「早く帰ってきてね」のメッセージを入れてもらっているのだが、なんとそのボイスレコーダーを持っていくのを彼が忘れているのを発見してBBはかなり落ち込む。ためしに聞くとそこには彼女の声ではなく、父親からBBたちへの別れの言葉が・・・。息子の死からまだ立ち直っていないぼくには新しい子どもを迎える自信はない、と。これを母親に伝えるべきか? いや、今は言えない。ところが父親は何食わぬ顔でNYから帰ってくる。BBに聞かれてしまったのも知らず、それを消し、BBにもう一度声を入れてくれと頼む。こうして、新しい弟を迎え、何気ない日常が始まる。BBは、一瞬かいま見た父親の心の内を秘密に、そしてそれを知っていることをも秘密にしなければならない。
 それを聞きさえしなかったら、何の変哲もなく流れていった子ども時代。作者はボイス・レコーダーという現代的なアイテムをたった一つ置くことで、BBの中に闇を描きとめる。この闇もまた、BBが世界を受け留めていくためには必要なのだ。
 短編たちのタイトルはすべて、主人公である子どもたちの名前が使われている。それはもちろん彼らが他の誰でもない、たった一人の子どもなのを示している。物語の中で彼らは何かを失い何かを得るけれど、成長とはちょっと違う。むしろ、彼らが子どもである実感を手に入れる方にバランスは置かれている。夢見るよりまず、自分が子どもである事実への苛立ちや限界や、それでも自分は自分でしかない、たったそれだけのことを、作者はしごく丁寧にそして、鮮やかに描いて見せている。
 絶品。(ひこ)
読書人2001.08.24

『奇跡の子』(ディック・キング=スミス:作 さくまゆみこ:訳 講談社 1998/2001)
 ディック・キング=スミスの物語力は、今更指摘するまでもない。今作は「ピュア」を素材に持ち込んでいる。
 設定はシンプル。
 第二次世界大戦が始まる15年ほど前のイギリス。領主の農園で働く、子どものない夫妻が捨て子を拾う。彼らはその子どもを育てる権利を得、かわいがる。が、この子スパイダーは殆ど話せないし、愚鈍の極み。からかう人もいる。でも、才能はあって、それは、どんな動物とも仲良くなれること。
 と述べた時点で、色んな作品を思い浮かべることでしょう。
 そう、決して新しくはない。けれど、この動物を描かせたらとてもうまい作家は、スパイダーと動物の交流を過不足無く自然に見せてくれる。農園でしだいにその特異な才能を活かし始める彼を眺めていると、こちらの心が柔らかくなっていく。(ひこ)

『レオ王子とちいさなドラゴン』(ノベルト・ランダ:作 若松直子:訳 徳間書店 1998/2001)
 ぜんそくを治しに王様とお后はイタリアへ。あとをまかされたレオ王子。出かけ際に王様、「ドラゴンには気をつけるんだぞ」。? 何のこと?
 小さな王子様、初仕事だから、どうしていいかわからない。と、料理長が、大きな大きなドラゴンの卵が庭先に落ちているのを発見。いかにいたしましょう? もちろん将軍は、危険だからただちに処分をというし、料理長はおおきな卵焼きにしましょうと・・・。
 困った王子様、卵焼きに同意し、料理長のいないすきに、山ほどの鶏の卵を大きなフライパンでスクランブル。
 ドラゴンの卵はこっそり育てることに。
 こっそり子(ドラゴン)育てをする王子様の物語です。先の王様の「ドラゴンには気をつけるんだぞ」の意味と、隠し育てるレオの必死さが、ユーモラスに描かれています。
 だから、オチもいいし、たのしく読めるでしょう。
 それと、子ども(レオ)をある意味で捨てて、自分たちの治療に出かける(疑似子捨て)両親。そして、そのレオが疑似親になって子育てをすること。育てたドラゴンの親が、子捨てをしていたこと、ナドナド、楽しいお話の背後には、ちゃんと、現代の親子の物語が仕組まれています。(ひこ)

『小春日和』(野中柊 青山出版社 2001)
 春に生まれたというのに、「小春」と「日和」と名付けられたふたごの物語。生まれ落ちた時、日和は丸々と太っていたのだけれど、小春はその半分ほどの体重。母親のおなかにいたとき日和がたくさん栄養をとってしまったから? だもので、幼い頃の二人はそんなに似ていなかったが、生まれてからの母親の食事差別(?)により、小学校では見分けがつかないほどに。ふたりは、両親のいい子として、仲良くふたごを生きている。母親に勧められたタップダンス教室。やり始めたとたん二人はそれに魅了されてしまう。発表会で目をとめたTVCMプランナーにくどかれて出演したケチャップのコマーシャルが大ヒット。二人は芸能界入りを反対する父親と、そうでもないらしい母親の板挟みに・・・。
 と書けばなにやらドタバタユーモア小説のようですが、そうではなく、外装的には、一般人からアイドルへと変わってしまった自分たちへの違和感、そしてふたごという仕掛けからは、小春と日和の互いへの違和感と似ていることへの違和感、などがテンポのよい日和の言葉で語られていきます。なぜ語り手が日和になったのか?は、彼女が一番観察屋、つまりは、自分も含めた他者(自分が含まれるのが、今は重要です)へのまなざしの安定感故でしょう。時代設定は、花の中三トリオの頃。そしてザ・ピーナッツの引退のころ。ここに定めたのは野中自身の子ども時代でもあるからか、それともアイドル全盛期だったからかは判らないが、ノスタルジーになっていないところが、腕。
 これを現代に持ってこれなかった辺りは、この違和感がもはや日常の物だからだと思う。野中はその始まりの辺りを描いてみせたのだ。そういえば、この時代設定より前に、開高健がTVのちびっ子アイドルの風景を描いていましたっけ。(ひこ)

『小春日和』(野中柊 青山出版社 2001)

 小春と日和は双子の姉妹。三月に生まれたのに、娘に小春日和などとネーミングするあたりからは、両親の性格も窺い知れる。母方の祖母と一緒に、逗子で暮らしているのだが、映画好きの母のすすめにより、タップダンスを習い始めたのがきっかけで、二人はテレビのCMに出演することになる。時代は一九七〇年代の中頃で、ちょうどオイルショックで物価が急騰し、トイレットペーパー騒動などがあった後。スター誕生で、山口百恵や櫻田淳子が登場し、キャンデーズが人気絶頂で、子どもたちの間で芸能ブームが巻き起こっていた時期とも重なり、その時代の空気が、鮮明に伝わってくる。
 双子のあどけない少女たちが踊る、トマトケチャップのCMは大ヒットし、二人は芸能界デビューかと思いきや、父親がそれに難色を示し、両親の中が険悪になる。少女たちの戸惑いと、両親との心理的な葛藤に、双子の人気歌手ザ・ピーナッツのさよならコンサートが微妙にダブる。ヒット曲『可愛い花』の歌詞を随所にはさみ、小学三年生の双子の少女が、両親や世間と折り合いを付けて行くプロセスが、いじましくもあり、また微笑ましい。父親の突然のインド赴任。祖母と、彼女の恋人との関わりなども入れ込み、七〇年代を突き抜ける子どもたちの視点が軽やかで、今を生きる少女たちにも共感できそうだ。しみじみと読ませる気持ちのいい作品である。(野上暁)

『英国妖異譚』(篠原美季:作 かわい千草:イラスト 講談社 2001)
 講談社X文庫。第8回ホワイトハート大賞優秀賞受賞作。
 ユウリ(悠里)は英国人と日本人のハーフで、16歳の少年。イギリス西南部の全寮制のパブリックスクールに在籍している。夏の風物詩をテーマとした討論会でユウリが取り上げた百物語が好評で、ユウリのグループの10人は百物語を催すことになる。しかし、ユウリは百物語の開催には反対していた。というのも、ユウリには在らざるもの(幽霊や妖怪の類)が見えるからである。案の定、10人目のシモンが学校の近くにある湖畔にまつわる伝説を披露したとき、異変が起こった。寮長の上級生が見回りで会場に入ってきたとき、そこには11人の人間が居たというのだ。その後、百物語をきっかけに、学園内では生徒の失踪事件に憑き物騒動が起こる。ユウリは親友のシモンとともに、事件の解決に挑むことになる。
 全寮制のパブリックスクールを舞台に、妖精の国で日本の百物語を導入するセンスに脱帽。多少、詰め込みすぎで消化不良の感は否めないけど、キャラも立っているし、文章も巧い。デビュー作としては上出来でしょう。人種や階層による差別意識などが描きこまれている点もまた良し。少女マンガがお好きな人はどうぞ。(目黒)

『学園アドベンチャー ダイスは5』(松井千尋:作 こなみ詔子:イラスト 集英社 2001)
 コバルト文庫。ちなみに、4月刊行なので新刊コーナにはありません。
 尚美は女子高の1年生。いじめられている。そんな尚美のもとに、ゲームの招待状が届く。冒頭は次の通り。『周囲にあなたの味方はいません。/あなたの言葉も行動も、周囲の人に誤解され、まちがって解釈され、あなたの立場を孤立させます。/そんなあなたには、この遊びに参加するだけの資格があります。(以下略)』。このゲームは、サイコロで加害者と被害者を各1名選び、攻撃と防御の方法もまたサイコロで決める。行動表には「物質・環境・意思・移動・情報・人物」「集団の悪意・過去の暴露・器物の破損・身体の危険・日常の変化・信頼の崩壊」といった抽象的な概念のセットがサイコロの目に対応している。具体的には、「物質による過去の暴露」という攻撃方法に対して、「環境」による防御で対抗することになる。ゲームは1週間に1度、土曜日に実施される。このゲームの参加者は6名の高校1年生。尚美もまたゲームに参加することを決意する。
 適度な制限と適度な選択の自由。しかも、行動指針を与えるのはサイコロなのだから、言い訳の口実も用意されている。このゲームはよくできでます。とりわけ、責任の所在が曖昧で、加害者と被害者の選択が偶然に委ねられている点は、まさしく「いじめ」の構造そのもの。いじめられている尚美がそのようなゲームに参加するという設定が魅力かと。それにしても、例の手紙は性質が悪い。「あなたの言葉も行動も、周囲の人に誤解され、まちがって解釈され、あなたの立場を孤立させます」なんて、誰にでも当てはまる文句なのだけど、いじめられているときには有効だから。残念なことに、このような悪意に満ちた設定が最後で挫折してしまっているように思うのは書評子だけ?(目黒)

アルシア・ハード 翼を継ぐものたち』(鈴羽らふみ:作 針玉ヒロキ:イラスト エンターブレイン 2001)
 ファミ通文庫。第2回ファミ通エンタテインメント大賞東放学園特別賞受賞作。
 友佳里は、地球にただひとりの見習い飛翔魔法使い高校生。ルイールで正式な魔法使いになるべく訓練している。銀河系は二大勢力−魔法世界ルイールとラウレイズ銀河系帝国−によって分割されていた。ルイールが魔法文明圏であるのに対して、ラウレイズは科学技術文明圏。ラウレイズ人は、直接こちらの世界に干渉できない正体不明の侵略者がルイール人を対ルイール用に改造した戦闘人間の末裔。そして地球人は、ルイールとラウレイズのハイブリッド。侵略者によって改造された元ルイール人をルイール人に戻す実験の結果、誕生したからだ。地球文明が魔法と技術の両文明を併せ持っているのはこのため。ようやく二大勢力による戦争が中断を余儀なくされ、5万年ほど放って置かれた地球がある思惑から注目されることになる。侵略者を倒した伝説の魔法戦士「光翼の騎士」の力を継ぐ者が地球に誕生しようとしていたからだ。
 上のように世界観を説明してしまうと大仰で作品のイメージとかけ離れてしまうので補足。「少しだけ未来の、少しだけ魔法に目覚めた地球」。この程度が適当かと。飛翔魔法のイメージがきちんと伝わってくるので、アニメを見ているように読めます。ライトノベルの見本のような作品。(目黒)

DIVE!! 3−SSスペシャル99』(森絵都 講談社 2001)
 飛び込みを題材にしたスポ根小説の第3巻。
 ミズキ・ダイビング・クラブは廃部の危機に瀕している。生き残りの条件は、シドニー・オリンピック代表を輩出すること。知季と飛沫という未知数の有力選手が控えているものの、この条件をクリアできる最有力候補が要一だ。要一は冷静沈着で確実な演技が売りのミズキのエース。両親がともにオリンピック選手のサラブレット。ほぼ内定が決まっている寺本健一郎を除いた残りの枠をライバルたちと争うことになる。ほとんど挫折することなく、キャリアを積んできた要一だったが、今回はある事件をきっかけに経験したことがないスランプに陥る。スランプを脱出するために、要一はとんでもない決断を下すことになる…。
 第1巻が知季、第2巻は飛沫、そして第3巻で要一。ようやく、ミズキのトリオが全員語られたことになる。しかも、これまでの巻と同じく、最後には必殺技が登場する。お約束な展開なのだけど、それが心地よい。おそらく次巻では、3人がそれぞれの必殺技をひっさげて選考会で対決することになるはず。ダークホースが出てくることを期待しているのだけど。個人的には、孤高のエース寺本のエピソードは外伝か何かできちんと描いて欲しいところ。(目黒)

天帝妖狐』(乙一 集英社 1998/2001)
 待望の第2作品集が集英社文庫に。表題作のほか、「A MASKED BALL−及びトイレのタバコさんの出現と消失−」を収録(「A MASKED BALL」は仮面舞踏会)。処女作にして、その名声を不動のものにした『夏と花火と私の死体』も同文庫で読めます。
 夜木の顔には、目の下から顎にかけて包帯が巻かれている。顔だけでなく、露出している部位を包帯で隠している。ある日のこと、行き倒れになった夜木は女学生の杏子に助けられる。杏子のおかげで、町工場に職を得て幸福な日々が続くかに思われたが、その隠された素顔が暴かれそうになったとき、悲劇が起こった。
 ネタばれになるので詳しくは言えないけど、夜木は狐狗狸(こつくり)さんで人外の身体を手に入れる。その代償が包帯な訳だが、夜木は殊更にそのような身体を求めたのではないし、何か罰せられるようなことをしてもいない。霊感など特異な能力を有している訳でもない。ごく普通の少年がただ何気なく狐狗狸さんをしただけなのに、その代償の理不尽なまでの大きさには驚かされる。乙一の作品全般に言えることなのだけど、ホラーというジャンルの約束事である超常現象のあまりな日常感覚には眩暈すら覚える。誤解がないように述べておけば、超常現象の内容がエブリデイ・マジックのように陳腐なのではない。むしろ、その異常さは突出している。にもかかわらず、リアルなのは、その語り方を含めて、超常現象そのものが現実を別の形で表現できているから。狐狗狸さんというオカルトの定番アイテムがどこか懐かしげな雰囲気を醸し出ているのも、演出が効いていて良い。カップリング作品もまた、トイレの落書きというレトロな感覚が作品を非凡なものにしている。(目黒)

黒いバイオリン』(ウルフ・スタルク:作 アンナ・ヘグルンド:絵 菱木晃子:訳 あすなろ書房 2000/2001)
 病気で寝たきりの妹サラ。心配で心配でぼくはたまらない。
 ある夜、サラはバイオリンを聴かせて欲しいと頼む。ぼくのバイオリンってひどい音を出すのにな。そこへ死神が現れ・・・。
 ほんとうに、小さな小さな物語。
 ぼくの気持ちが心に迫ります。と同時にスタルクのユーモアもちゃんとあります。
 アンナ・ヘグルンドの絵もピタリ。(ひこ)

マリアンヌの夢』(キャサリン・ストー:作 猪熊葉子:訳 冨山房)

 十歳の誕生日を楽しみにしていたマリアンヌ。が、彼女は病気になり最低九週間はベッドの中。チェスターフィールド先生が家庭教師としてやってきます。病気で学校に行けない子どもたちの家を巡回して教えている。ポリオで歩けないマークもその一人。マリアンヌはある日、ひいおばあちゃんの裁縫箱から鉛筆を見つけだし、家を描く。夜、夢の中でマリアンヌはその前に立っている。でも家の中に誰かいないことにはドアを開けてはもらえない。次の日彼女は二階の窓の中に男の子を描き、夢の中へ。彼は本当はまだ会ったことはないけれど、マークのようです。こうして夢の中でマークと過ごし、目覚めれば足りない物必要な物を描き足しという行き来が始まります。本や食料やテーブル、そしてマークの歩行訓練用の自転車。描いた物が次々出現する様は楽しく、病気療養している彼女の心をなぐさめる世界のようです。でも、それだけではありません。
 先生の誕生日、マリアンヌはお小遣いをはたいて数本のバラを買いますが、現実のマークが先に先生を招待してしまいます。プレゼントは両手に余るほどのバラの花束! マリアンヌは自分の用意したバラを渡せぬまま、怒りを夢の中のマークに向けます。家の周りにおいた岩に眼を描き監視させ、歩けない彼がいつも外を眺めている窓を鉛筆で塗りつぶす。現実のマークじゃないからいいや、と思っているわけではなく、彼女はその男の子をマークだと信じているからこそそうした行為に及ぶのです。そこには「いい子」から一歩踏み出した子ども像があります。しかし、現実のマークが体調を崩し始めたのを先生に教えられたとき、彼女は自分のせいだと思い、夢の中でマークを救おうとする。そして彼がしだいに元気になり、歩けるようになっていくのと合わせて、現実のマークも回復していきます。この現実と夢のシンクロは、それがファンタジーだからだといってしまえばそれまでなのですが、たかが、夢(絵)の中のマークを一瞬憎んだことを、彼女はあがなわなければならないわけです。本当に現実のマーク=夢の中のマークなのでしょうか? もし偶然の一致だとしたら? その場合、マリアンヌは自分の「怒り」を罪と感じていて、夢の中で自己批判していることとなります。「いい子」の魔法がまだ解けていないんですね。
 もっとも、夢の中で歩けないマークとは自己投影した病気のマリアンヌ自身であり、夢の中の元気なマリアンヌは彼女の願望が形になったものだと考えてもいいでしょう。その場合、この物語は九週間もベッドで過ごさなければならなかった痛みと怒りと、そこから回復していく様を子どもの内面からも描いているといえるのです。(ひこ)徳間書店「子どもの本だより」2001.07

【評論他】
『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』(石坂啓 幻冬舎 2001)
 なかなか、刺激的なタイトルだ。ううん、そうだよねと、思わず唸ってしまった。"義務教育"というのが、子どもたちをも、親をも、どうしようもなく呪縛しているのが現状だ。学校は行くべきであり、行かなければならないという重圧から解放されたら、どれだけ楽になるか。恐らく、死ななくてすんだ子どもも、たくさんいたに違いないのだ。不登校などと"問題視"されることもないだろう。
明治以来、国家の要請によって様々に上塗りされてきた"学校幻想"が、その制度疲労によって実態から崩れてきているにもかかわらず、いまだに権威を保ち聖域化している現状を根底から疑わないことには、現在子どもたちに覆い被さっている問題群からの脱出口は見えない。にもかかわらず、事態は逆行しつつある。
日の丸・君が代を強要し、学級崩壊などというセンセーショナルな話題を喧伝して規律の回復を求め、奉仕活動を制度化するとか、教育勅語の復活までも画策する。そういう状況だからこそ、「学校に行かなければ…」に、今日的な意味があるのだ。
 著者は、学校の軍隊化を危惧する。規律を重んじ、団体行動をとらせ、風紀の乱れをチェックするあたりに、それを直感する。それは、近代日本が学校に課してきた制度的な残滓でもある。戦後の民主主義教育で、かなり是正されてきたとはいえ、間欠泉のようにそれが復活する。日の丸・君が代なども、その一例だが、だから日の丸の代わりに、温泉マークを国旗にしたらいいと、著者はユーモラスに問題提起する。その、軽いノリが鋭く本質をえぐる。
 そもそも、大人が成熟していて、子どもは未成熟だという発想が、"教育"を正当化しているのではないかと、著者は考える。子どもは半人前だから、大人がしつけ、鍛え導いて成長させていかなければならないなど、おこがましいという。大人だって、完成しているわけじゃないんだからと。そして、「三歳児には三歳児の、十歳児には十歳児の完成度がある」という。「子どものためにと考えることより、大人がまず自分をちゃんとすることの方が、よほど有効なことのように思えるのです」という言葉には、深く考えさせられるものがある。
 子どもをめぐる周辺にも様々な問題があると、著者は自らの子育て体験からのエピソードを紹介する。まず、子どもを産むということにかかわる、一種の特権意識のようなものに疑問をはさむ。そこには、プラスもマイナスもない。それぞれの、生き方があるのだからと。その多様性を繰り込まないことから、母親の過剰な負荷が生じ、それがまた子どもに被さっていくことになるのだろうから。子育てへの、男の不関与への疑問。保育園の大らかさと、幼稚園の窮屈さ。幼児教育の過熱。とりあえず著者は、私立の小学校をと考えるが、子どもの感性を無視した準備のバカバカしさに閉口して、お受験ママになりきれず、子どもは近くの公立小学校に入学する。
 入学した小学校の、校長の挨拶にはホッとするのだが、担任がいけない。やたらに子どもを立たせたり、体罰を下したり。それで、夫婦で担任と校長に抗議しに学校へ行く。「つまらない叱り方をする大人がひとりいると、子どもはどんどんつまらない基準でものを見るようになります。目に見えない弊害とは、そういうことです」と著者は厳しく対応する。
 本誌(『子ども+』)に連載された「イトコ関係」も収録し、今日の学校教育に不安や不満を持つ親たちの迷いや悩みを弾き飛ばす、爽快な教育論であり、しなやかな子ども論でもある。(野上暁)

若者のすべて ひきこもり系VSじぶん探し系』(斎藤環 PHP 2001)
 「社会的ひきこもり」で著名な齋藤の評論集。ちなみに、著者はラカン派の精神分析科医。
 とりあえず著者の問題意識を押さえておきたいのであれば、2章「「じぶん探し」の次の若者モードとして「ひきこもり」の適応形態あたりが新しい?」と3章「表現ジャンルにおける「じぶんさがし系」VS「ひきこもり系」」を読めばよい。齋藤によれば、「じぶん探し系」は自己像(自己を規定するフレーム)が定まらない、あるいは定まることを拒否しているが、コミュニカティブないしコミュニケーション過剰なタイプを指す。自己像が緩いほど、コミュニケーションは容易になるのである。稀薄な自己像が過剰なコミュニケーションを欲望する結果、ますます自己像が拡散すると言い替えることも可能だ。一方、「ひきこもり系」はコミュニカティブではなく、時としてコミュニケーションが欠如していると評価されるが、自己像は安定ないし固着しているタイプである。自己像が安定しているから社会を必要としない意味で新たな適応形態だと評価できるし、社会から撤退した結果、自己像が固着した不適応だと診断することもできよう。以上の対立軸を基本線に、渋谷系(じぶん探し系)と原宿系(ひきこもり系)のフィールドワークなど、現代の若者とその文化について示唆に富む思考を展開している。
どちらがより社会あるいは時代に適応しているのかはどうでもよいような気がする。齋藤の仕事の意義とは、多数派の「じぶん探し系」と少数派の「ひきこもり系」の間に架け橋を渡すことにあるのであって、その優劣を判定することではないのだから。(目黒)