2001.09.25日号

       
【絵本】
『わたしがすき だいじょうぶの絵本3』(安藤由紀 岩崎書店 2001)
 「だいじょうぶの絵本」シリーズ完結。
 ごくろうさま。そしてありがとう。
 今作は、「自己肯定」がテーマです。好きなところも、いやなところも、ぜーんぶひっくるめて、自分を抱きしめてやる心。それをどう育てていくのか。この絵本はそこをわかりやすく伝えてくれます。あとがきとして、安藤による「自己肯定」 関する大人に向けてのエッセイもリアルです。
 このシリーズは、大人にも使えます。
 もちろん子ども達にも。
 図書館には必ず置いて欲しい。ジェンダーなんかのコーナーがあるのでしたら、そちらにもぜひ。(ひこ)

『のれたよ、のれたよ、自転車のれたよ』(井上美由紀:文 狩野富貴子:絵 ポプラ社 2001)
 視覚障害の井上が書いた『生きてます、15歳』から、絵本へ仕上げた作品。
 この自伝的物語は、障害児と親とのとてもいい関係を描いていて、共感できる。同情や哀れみはもちろん、その反対の賞賛もない。ただただ、目の見えない我が子をサバイブさせるための親の突き放しつつも暖かくユーモラスなエピソードたちは、井上自身がそうした親に共感していることをよく示している。ようするにいい関係。
 ただ、絵本ですから、しかも小さい子に読めるように絵本化なら、この画と、場面構成は古すぎではなかろうか?
 インパクトのある話に、どういう画をつけるか? そこを見たいのですが。(ひこ)

『ほろづき』(沢田としき 岩崎書店 2001)
 都会の子供ユキ。彼は夏休み北の村のひいおばあちゃんの所へ遊びにゆく。つうやくがいるほど、ユキとおばあちゃんの方言は遠い。でも、心はそんなこと関係ない。また来年も遊びに来よう。でも、おばあちゃんは亡くなった・・。
 夏の活き活きとした動きから一転静かな静かな場面へ。
 『マディソン通りの少女たち』の挿絵などでもおなじみの沢田の画は、不思議な奥行きがある。遠近法が世界を写し取る技としてプレ近代に確立し、それを写真があっさりとトレースしてしまい、対して画たちが、遠近法から離脱する表現に向かったのが、近代であるとしたら、沢田の画は、いったん離脱した上でそこに新たな遠近を置く。数年前、ポリゴンがまだぎくしゃくしていた頃、3Dゲームでは「酔い」が云々されたものだが、沢田の画の奥行きは、それに似た「酔い」を生じさせる。決して異空間ではなく、むしろ既知感のある画の素材たちが、ほんの少しだけ見る者との距離を保ち、そこに世界を作る。
 『ほろづき』の物語は決して新しいわけではない。が、「命」の愛おしさは沢田の画で、新しいメッセージとしてよみがえる。
 最後のページは収まりすぎ。決めなくてもいいのに。(ひこ)

『田んぼのいのち』(立松和平:文 横松桃子:絵 くもん出版)
 立松、横松の父娘コンビによる「いのち」シリーズ第2作。
 過疎の村、隣の豊さんも歳でとうとう、田んぼをやめることに。70歳の賢治さんと連れ合いの春子さんだけとなる。
 物語は苗つくりから収穫までの日々を描いているけれど、米作り作業と、もう一つ流れる人の営みが巧くからみあっています。押さえた文。そして、横松の奔放でありながら静かな画。父娘だからではなく、息が合っています。
 表紙のタイトルの入れ方にもう少し工夫が欲しい。
 それと、これは立松が賢治記念館での講演前のあいた時間に書いたものがベースだそうだが、だからといって主人公の名前が「賢治」はないなー。イメージが先に立ってしまいます。(ひこ)

『ジュゴンのなみだ』(文:キム・ファン え:あらたひとむ 素人社 2001)
 沖縄の民話をベースにした、自然保護啓発絵本。
 ジュゴンの絵が可愛いすぎです。人はそうでもないのに、どうしてだろう? それもメッセージということか。しかし、そうだとしたらマイナスに働くと思います。現実の状況をちゃんと伝えるには。
 子ども向け絵本だからというのが理由なら論外です。
 ストーリー、元の民話とどう変わったのでしょう?
 ええ人が助かって、悪い人が死んでいく。うーん。そのパターンで、自然保護が子どもにちゃんと伝わるとは思えないのですが。創作絵本の最後に解説を付けるパターンではなく、もっと本格的に資料を提示して、写真絵本にした方が良かったと思う。(ひこ)

『青いひこうせん』(宮本忠夫:作・絵 ポプラ社 2001)
 「月刊・絵本」の新人賞作『おじいさんのかさ』でデビューした宮本は、その器用さ故に、却って印象が薄くなるという損をこうむってきたと私は思っているが、今作は印象深いものとなるだろう。
 視点はのら犬の「ぼく」。このぼく、本当はのら犬になるはずではなかったのだが、飼ってくれるつもりのたけちゃんが、両親に反対されてしまったのだ。両親は不和で、そのこともたけちゃんは悩んでいる。
 で、ぼくを拾ってくれたのは青いテントに住むホームレスのおじさん。たけちゃんとおじさんとぼくの日々が描かれる。タイトル通り、おじさんはこの青いテントを飛行船にして空を飛ぶというのだが・・・。
 たけちゃんの寂しさと、おじさんの頼りげない生活、そしてぼく。それが一緒になることで、力となる。画にある勢いが、物語を支えている。
 ただし、タイトルのロゴは工夫がなさ過ぎではあるまいか。そこで印象が薄くなってしまう。

【創作】
家出の日』(キース・グレイ:作 まえざわあきえ:訳 コヨセ・ジュンジ:挿絵 徳間書店 1998/2001)
 両親の不仲に怒ったジェイソンは「家出」を決意し、兄さんが住むリバプールへの列車に乗り込む。でも、やっぱりドキドキ。そんなとき、ジャムと名乗る男の子から声をかけられる。彼はなんと家出屋だというのだ。両親がいない彼は施設を抜け出す家出屋だと。もちろん無賃乗車だという。車掌から見つからないようにする仕方。販売カートからチョコバーの盗み方。ジェイソンは盗みなんかできないから、ジャムにチョコバーを買ってあげるしまつ。
 列車の中、たった数時間の小さな物語。けれど、ジャムの存在感と、ジェイソンの不安感がうまくからんで、テンポよく進み、物語を読む楽しさを味合わせてくれます。
 本を読み慣れていない子どもにはちょうどいい長さじゃないかな。
 挿絵は、翻訳物に日本人がつけるのは難しいけど、これはシンプルに描きまとめることで、うまく収まっています。名前を知らない人でも、見ればおなじみの画家です。(ひこ)

『あくまくん』(ハイケ&ヴァルフガング・ホールバイン:作 カロリーネ・ケーア:絵 徳間書店 1997/2001)
 ユスティンの秘密の友達はあくまくん。結構いいやつなんだけど、彼の悩みは、人間に何か悪いことをしないと、悪魔の世界から追放されそうなこと。両親もダメ悪魔で、地獄の端っこでかろうじて暮らしている。ここであくまくんもダメだとなるといよいよあくまであることを止めさせられてしまう・・・・。
 これも翻訳で140ページほどで、読みやすい長さかな。近頃とても長いファンタジーが多いので、ちょっと気が楽になります。
 物語はヨーモアたっぷりで、展開もこなれていて、あくまくんのドジも「やれやれ」とため息混じりに、彼へのシンパシーを高めてくれます。
 あくまくんはユスティンにとって親友だから彼にドジをしないでほしいけど、そうすると人間が困ることになる。というジレンマは、ラストに見事に解決されます。
 訳者あとがきによれば夫婦で年7.8冊のペースで物語を書いているとのこと。
 ナルホド、手慣れているはず。
 子どもが暇つぶしにちょっと手にとって、1時間ほどで読んで、あー、おもしろかった! となれば、嬉しい物語。この手のがもっと欲しい。(ひこ)

『ネシャン・サーガ2 第七代裁き司の謎』(ラルフ・イーザウ 酒寄進一:訳 あすなろ書房 1996/2001)
 第二作。今回は日本語版で600ページ、前巻より100ページ増えてでかい。
 こちらの世界のジョナサンとネシャンのヨナタン。ジョナサンは病弱で車椅子生活、ヨナタンは選ばれし者として冒険の旅。ヨナタンはジョナサンの夢の中の人物らしい。という設定で始まったこの物語、前作は、表紙見開きにある旅の地図のほんの少ししか旅をしておらず、どうなることかとおもったけれど、今回は動き出した。仲間もできてくる。
 ジョナサンとヨナタンの関係が最終的にはどうなるか、が、結構おもしろいけれど、ここでは書きません。ネタバレだから。
 この長い物語、長いけれど、仲間の増えていく様はTVゲームのRPGそのものです。しかも危機が襲っても、杖の力で簡単に助かるところなどは、TVゲームよりも簡単です。
 でも、よく読まれています(もちろんそれは『ハリー・ポッター』が売れている勢いに乗っているからでもありますが)。
 ということの一つの解釈として、難しくなったRPGをさける子供たちが、簡単な展開の『ハリー・ポッター』やこの物語に流れている、が浮かび上がるでしょう。
 ちょうど、少女マンガが難しくなって、少女小説に子供たちが移行したように。(ひこ)

『アンダ・マイ・サム』(伊藤たかみ 青山出版 2001)
 「僕は、自分自身から、外れた。」とのキャッチ。アイデンティティの喪失や崩壊とは違った、予めそれがはっきりしない「今」という時代と気分を生きている高校三年生ボクのアンリアルな物語。近代はカフカの『変身』からここまできました。
 アンニュイといえばアンニュイな高校三年生の僕。ケイタイメールのやりとりはほとんど日常というより、自動的。タイトルの意味はあかさないとして、使われているサム、つまり親指は僕の特徴(アイデンティティ)。とても長いのだ。だからメールするのはお得意ですが、ここにペニスを見るのはやめましょう。実際そのようなほのめかしもないわけではないのですが、それではあまりに『親指P』。
 彼はあるとき自分が体から外れる体験をしてしまう。それは、幽霊のように体から外れた僕が、僕自身を眺めている事態。ここにいる僕があそこにいる僕と、どちらがどうで、どりらもがどうなのか? 用意周到にこの物語では、そうした現象を当てはめる心理学やオカルト系の分析をできるコがいて、だから、当てはめられることで、この「外れ」がそのどれでもないことが示されるようになっている。つまりは、僕の「外れ」はこれまでのどれとも違う、これから起こりうる現象の一つとなっている。
 引きこもりの兄を持つ、友人の清春(は「SADS」から来ているのだろうか?)は、実直な破滅型。一方のぼくは、自分が誰かさしてわからないのだけれど、結構モラリストで、いつも自分の態度が相手にどう反応させてしまったかだとか、いろいろ考えてしまうタイプ。
 なるほど彼らは、「今」のグッズを所持し、「今」の気分を呼吸しているけれど、住んでいるところは、田舎、いや東京以外の所である。従って、つねに「東京」との距離(実際のそれから、文化まで)を生きている。その距離分、情報も遅れていればいいけれど、情報はタイムラグがないから、よけいに距離は浮き立つ。「僕」の文化祭頃の楽しみは、東京のメル友である彼女に会うことだけなのだ。やれやれ。
 物語は、ダラダラと進む。だって、日常がダラダラなんだからそれでいい。僕が時間をいかに潰すかを描く作者の腕はたいしたもので、そのつぶし具合のしょーがなさは、ちょっと感動的ですらある。
 この先に何があるか、それはおそらく作者にもわからない。ラストが気恥ずかしくなるほどまっすぐなのはそれ故だろう。
 ちょっと村上春樹なのが、気にかかるが。(ひこ)

『へんな犬 パンジー』(末吉暁子:作 宮本忠夫:絵 あかね書房 2001)
 「わくわく幼年どうわ」シリーズ第2弾。ノリくんは、のら犬と出会う。でもこの犬なんかヘン。アッカンベーなんて犬がするか? 犬はついてきて離れない。悪さばっかりする犬は家までやってきて、妹の前ではカワイイ振り。パンジーと名付けられます。
 短い話の中に、ちゃんと「今」が入っています。
 幼年物ですから、この長さで、このワンエピソードなのは仕方がないですが、この素材で連作にするか、グレードを挙げてじっくり書き込んでもおもしろいと思う。(ひこ)

『ダイオキシンの夏』(蓮見けい・原作 近藤眞理・文 岩崎書店 2001)
 環境保護系アニメのノヴェライゼーション。1976年イタリアのセベトで起こった、化学工場爆発でダイオキシンが巻き散らかされてしまった事件を題材にしている。
 ダイオキシンを発生させる化学工場(悪者)と市民運動の対立を子供の正義心と勇気に置き換えた、お定まりの展開ですが、この書物から手に入れるのは、物語のおもしろさではなく、「ダイオキシン」についてですから、これでいいのでしょう。ベタのストーリーですが、つまらないわけではありませんので。でも、日本の新聞記者とかはいらないなー。(ひこ)

『GLASS HEART冒険者たち』(若木未生:作 羽海野チカ:イラスト 集英社 2001)
 コバルト文庫。「グラスハート」シリーズの最新刊。
 テン・ブランクは、ロック界のアマデウスと称される天才、藤谷直季が率いるカリスマバンド。初の全国ツアーが決まり、ただでさえハードなスケジュールのなか、藤谷はアイドル歌手の日野ヒビキに新曲を提供することに。そんな藤谷に、ドラムの西条朱音は不信感を抱くことになり…。ガテン系の新マネージャー上山源司を迎え、テン・ブランクの新たなステージが幕を開く。
 バンドの履歴を知らなくても大丈夫。音楽を聴くのに、プロフィールが必要ないように。このバンドの魅力は、壊れる寸前の音と音のコラボレーション(=コミュニケーション)にあるのだけど、それが会話のテンポや文体で見事に伝わってくるからです。音楽を小説で表現しているとまでは言わないけれど、テン・ブランクの音楽は表現できているのでは。(目黒)

『プログラム・パラダイス』(渡瀬桂子:作 KIRIN:イラスト 集英社 2001)
 コバルト文庫。ちなみに、3月刊行です。
 菜緒の世界は激変した。それまで、幼なじみの2人の男友達から告白されたからだ。高校生になるまで親友だったのに、自分が「女の子」であるために、3人の友情は終わりを告げることに。そんなある日のこと、電話の受話器から「まだ、死ねない」という謎の声が聞こえたかと思うと、菜緒は別世界の住人になっていた。正確には、レイという「男」の身体に、菜緒の精神が入り込んだのだ。レイはレジスタンス組織の若き指導者で、その死が確認されたところに、菜緒の精神を宿したレイの身体が甦ったという訳だ。成り行き上、菜緒はレイとして生きていくことになる。
 女子高生が別世界に召喚されるタイプの物語なのだけど、精神(アイデンティティ)と身体(セクシュアリティ)が乖離していて、その乖離に必然があるところが面白い。菜緒は「女の子」であることを拒否していたので、その器としてレイの身体は好都合なのです。目新しい作品ではないけど、ツボを押さえたストーリ展開にキャラの配置の仕方など、よく出来た佳作。(目黒)

『真・女神転生 廃墟の中のジン』(吉村夜:作 金子一馬・金田榮路:イラスト 富士見書房 2001)
 富士見ミステリー文庫。
 悪魔が跋扈する世界。核戦争後の廃墟のなかで、人類は細々と生きている。ジンは10歳のときに、人狩りに捕まり、悪魔の生贄にされるところを、ライシンという悪魔使いの男に助けられた。悪魔使いとは、悪魔と契約して、ハンドヘルドコンピューターによって仲魔(契約悪魔)を召喚する者のことだ。ライシンのもと、悪魔使いの訓練を受けたジンはやがて、ク・リトル・リトル(身寄りのない子どもたちの集団)のリーダーになる。メシア教とガイア教の対立が激化するなか、ク・リトル・リトルも危機にさらされることになる。
 知らない人のために補足しておけば、『真・女神転生』はアトラスのRPG(現在は、プレステでもプレイ可)。本書はゲームの世界観をベースに、オリジナルのストーリを展開させています。ただ、文体というか雰囲気が児童文学しているような。メガテニスト(女神転生シリーズのマニア)には評判がよくないかも。児童文学とRPGの接点として、興味深い1冊。(目黒)

『わたしは虚夢を月に聴く』(上遠野浩平:作 中澤一登:イラスト 徳間書店 2001)
 徳間デュアル文庫。『ぼくらは虚空に夜を視る』の続編。
 探偵の荘矢夏美のもとに、奇妙な依頼が寄せられる。依頼人は醒井弥生という女子高生で、ある女性を探して欲しいというのだ。その女性とは親しい関係にあったらしいのだが、女性に関する記憶はない。また、周囲の人間もそんな女性は知らないと言う。知人の少女小説家・妙ヶ谷幾乃の頼みということもあって、調査に乗り出した夏美は、世界の成り立ちをめぐる争いに巻き込まれることになる。
 世界に対する違和を描くのが本当に巧い。「ブギーポップ」シリーズもそうだけど、とくに「夜視(ナイトウォッチ)」シリーズのこの2冊は出色。上遠野ファンにはたまらないキャラが登場するなど、上遠野ワールドからはますます目が離せない。ちなみに、『ブギーポップアンバランス ホーリィ&ゴースト』が刊行されました。こちらも要チェック。(目黒)

『公園ののら』(ダイアナ・ロス:作 エドワード・アーディゾーニ:絵 坂崎麻子:訳 徳間書店 1965/2001)
 36年も前の作品ですから、物語も絵も今から見るとシンプル。
 町の公園にいるきたないのら猫。でも彼は町の職員でもあります。どうして?
 物語は、その経緯を過去にさかのぼり語ります。
 庭師のモーガンさんは、最近居着いたのら猫が気に入らない。せっかく整備した花壇でトイレはするし、花も引っこ抜く。追いかけても追いかけても捕まらない猫。そんな彼を好きな人もいて、えさをあげている。彼は自由に公園で生きている猫。が、そこに・・・。
 モーガンさんも含めた心暖かい住民の話。カワイイ猫ではなく、猫を好きな人には楽しいし、この猫にシンパシー感じる子どもも結構いると思う。絵は、私は好きですが、今の子どもには好き嫌い以前に古いかもしれません。(ひこ)

『はせがわくんきらいや』(長谷川集平 すばる書房、1976)
 これはすばる書房が昔出していた『月刊・絵本』(の目次一覧はhttp://www.reviewers.jp/)っていう雑誌の新人賞を取った作品。長谷川集平(http://www.cojicoji.com/shuhei/index.shtml)のデビュー作。
 これは、衝撃でしたね。田島征三のパワーをモノクロで凌駕してしまいつつ、どこか優しいく、頼りなさげな画。こんなのホント初めてでした。
 はせがわくんの眼の寂しさもすごかった。
 ああ、中味の話をしないと。
 これは森永ヒ素ミルク中毒の子どもの話。はせがわくんは体が弱い。へなへな。だから、
「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ、がたがたやし、てえとあしひょろひょろやし、めえどこむいとんかわからへん」。
 でも、周りの子ども達はそれでも彼を遊びに誘う。そして、
「長谷川くん、もっと早うに走ってみいな。長谷川くん、泣かんときいな。長谷川くん、わろうてみいな。長谷川くん、もっと太りいな。長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。長谷川くん、だいじょうぶか、長谷川くん。」という子ども。
 でも、この絵本を、障害者に優しくしましょうなどという反差別的は作品たちの一つと思ってはいけない。そうではなく、ここでははせがわくんの周りの子ども達が、彼をうっとうしいと思いつつ、彼にかかわるのをやめず、かかわるのに、でもやっぱり、はせがわくんを嫌いで、それでもやっぱり、はせがわくんをシカトできない、そうした子どものジグザクな気持ちをきちんと絵本の中に留めているのが、すごい。
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい」
が、やっぱり今日もヘナヘナになってしまったはせがわくんを背負って帰る子どもの最後の言葉。
 こんなすごい絵本が今絶版なのは、ちょっと信じられない、と思うのは私だけでしょうか?(ひこ)TRC

『にわとりを鳳凰だといって売ったキムソンダル』(韓丘庸:監修 北十字星文学の会:訳 素人社 2001)
 南北朝鮮の昔話集です。
 日本の落語に似た「だれがもっとけちか」や、日本の昔話に似た「潮のわきでる石臼」、ユーモアたっぷりの知恵話「にわとりを鳳凰だといって売ったキムソンダル」など、どれもが活き活きとしています。そして今「似た」を繰り返しましたが、違う文化でも庶民の発想が似ていることがとてもおもしろい。南北朝鮮がぐっと近くなる1冊です。
 なお素人社(そじんしゃ)は多くのコリア児童文学を出版しています。興味の有る方はぜひ読んでみてください。郵便番号520-0016 住所:大津市比叡平3-36-21 電話077-529-0149です。(ひこ)

『少年たちの夏』(横山充男:作 村上豊:絵 ポプラ社 2000)
 1964年夏、四万十川、少年たちの夏の日々。
 ぼくとまもると圭造、3人の夏。
 少年3人組、夏の出来事、
 ここにあるのは、いかにもノスタルジックな、「男の子」の物語である。筏での川下りをクライマックスとする、3人の「出来事」は貧乏物語も含めて少しの不安定さもなく進展していく。ここには、家族や学校や社会への違和感や不信はいっさい存在しない両親の出稼ぎで別居のぼくにしても、両親が離婚し妹は養子にやられ、自分は祖母の元に転校してきている圭造にしても、そうして喪失への痛みはあるが、それは、違和感とは別の物だ。従って、世のおじさんたちにとってはよい物語かもしれない。自分が四万十を知らなくとも、ノルタルジーとは社会化された喪失感なのだから。ただしそれが過去に設定してかろうじて語ることのできる物語であることは忘失してはならないだろう。(ひこ)

『ロビンソンの島、ひみつの島』(クラウス・コルドン作 ダグマール・ガイスラー挿絵 本田 雅也訳 徳間書店 1991/2001)
 『ベルリン1933』のコルドンが描く夏休みの少年物。
 父親が役者で母親が児童文学作家のヨー。せっかく夏休みにオーストリアに来たっていうのに、役作りと新作執筆で、ヨーはかまってもらえない。それをただイライラするのではなく、「今」の子どもの一人である彼は、両親それぞれの事情も理解し、子どもであることに努めています。でもやっぱり気持ちは収まらず、万引きすることに。作家の息子が本を万引きして捕まったら、さぞかし母親は・・・。って考えるの。でもそのときだって、万引きする本が下らないのだったら、母親はショックだろうなとも考える。で、結局選んだのは古典の『ロビンソン・クルーソ』、なんてところが、巧い。
 せっかく捕まるためにどうどうと万引きしたけど、そんなときに限って見つからず、意味がない万引きをするはめになる。両親に報告しても信じてくれないし・・・。
 しょうがないから、買ってもらったゴムボートで湖へ。漕ぎ進み、無人島を発見! ヨーは自分をロビンソンに見立てます。これから毎日来て、小屋を作って。二日目、知らない男の子が島に。父親がユーゴから出稼ぎにきているのです。片言のドイツ語しか話せないスターネ。ぼくがロビンソンなら、スターネはフライデーだ。でも、釣りの腕も、小屋作りもなにもかもがぼくよりできるスターネ。三人目にやってきた女の子ユル。彼女がスターネを気に入っているのを知ったユーは嫉妬にかられ・・・。
 人種問題や人権問題などをからませながら、物語はいかにも生真面目なコルドンらしくまっすぐ進みます。ヨーの嫉妬からわき起こる差別感などを作家は直球で描いていく。
 よくもここまで、と思うほど。その真っ当振りが、近頃ではなぜか新鮮に見えます。
 それでも最初に書きましたように、「両親それぞれの事情も理解し、子どもであることに努めてい」る姿は、まぎれもなく90年代の子どもです(ひこ)