【絵本】
太鼓』(三宅都子文、中川洋展絵/解放出版社・2001)
 台風の季節が過ぎると、秋風にのって祭り太鼓が聞こえてくる。太鼓の音というのは、なんともいえず心を揺さぶる。大太鼓を近くで聞くと、からだ全体が震動して心地よい。運動会の応援合戦の太鼓には、自然に気持ちが高ぶってくる。祭り太鼓のリズミカルな音色を耳にすると、ひとりでに体が踊りだす。太鼓には不思議な魅力があるのだ。
 この本は、太鼓の音のように力強くエネルギッシュな絵で、その魅力や歴史をさまざまな角度から紹介する画期的な太鼓の知識絵本である。

 和太鼓の胴に使われるのは、樹齢五十年から百年の木目の詰まった重い木が適しているという。直径二メートル以上の巨大な太鼓の胴にするような木は、もう日本にはないと本は伝える。

 胴に張る膜は、主に牛革で、毛を抜いてきれいに水洗いし、天日で干した後に、カンナで丁寧に伸ばされる。

 太鼓職人による製造のプロセスには、初めて知ることがたくさんある。そして、この太鼓職人の素晴らしい技術が、世の中で評価されないのはなぜかを、絵本は読者に問い掛ける。

 「人権総合学習 つくって知ろう!かわ・皮・革」シリーズの最初の一冊。家庭でもできる太鼓の作り方や、演奏の仕方、世界の太鼓の色々など、豊富な情報がびっしり詰め込まれていて読みごたえがある。(野上暁)

『アジア! イチャリバ チョーデー』(大貫美佐子:文 スズキコージ:絵 光村教育図書 2001)
 日本人は自分たちをアジアンを思っていないことが多くて、だから、欧米のこともアジアのことも「他人事」として語ることができてしまうのですが(それが悪いと言っているのではありません)、そこにガガーンを入ってくるのがこの絵本。
 スズキコージの画は、やっぱりスズキコージの画ですが、結構アジアンに合って(逢って)います。
 だから、これは、さりげなく、この国のたくさんの子どもの側に置いて欲しい。かれらが狭い「非・アジアン」にならないためのも。
 ただ、文の大貫は語りすぎ。伝えたいこと、話したいことが一杯あるのは、伝わってくるのですが・・・。
 でも、おもしろいよ。(ひこ)

『やってみよう! はじめての手話』全6巻(こどもくらぶ:編・著 岩崎書店 2001)
 『手話をはじめよう』から始まるシリーズ絵本。
 写真を使って子ども自身による手話の見本と、イラストによる説明によって、親しみやすく、かつわかりやすくなっています。もっとも一杯詰め込み過ぎでもあって、一冊クリアするだけでも大変なんですが、ゲーム感覚で最初の一歩を乗り切れば、詳しさが、面白さに変わっていくタイプ。そう、聴覚障害者とのコミュニケーションはもちろん、子ども同士で新しいコミュニケーションツールとして使ってもいいというノリで覚えればいいのかもしれない。
 学校図書館には置いて、授業でも使えるようにすればおもしろい展開ができるでしょう、。
 いい仕事してます。(ひこ)

『ぼくといっしょにあそんでよ』(ドルフ・フェルルーン:作 ヴォルフ・エァルブルック:絵 うえのようこ:訳 BL出版 1999/2001)
 公園にやってきたクマ。ブランコで、滑り台で遊びたい。子どもはおそれて近づかない。
 でも本当はクマさん、みんなと遊びたかったんだ。
 ということがわかって、子ども達と仲良くなる。けど、公園にクマがいるのに驚いた大人達は・・・。
 と書くと、実にシンプルで、いかにもの話。それはそうなのですが、ヴォルフ・エァルブルックの画はいつものように、活きがよく、その世界に遊ぶ喜びを与えてくれますよ。(ひこ)

『トラックくん どこいくの?』『トラックくん まってたよ』(マイケル・グレイニエツ:文・絵 ポプラ社 2001)
 描きおろし幼児絵本シリーズの第一弾と二弾とのこと。
 タイトル通りの展開、「どこ」がどこか? 何が「まってたか」?が、ひっぱり所。
 とにかうトラックくんの走る、走りまくる姿に、そのリズムの乗れるかどうかで、幼児にとっての、この絵本の価値は決まるでしょう。
 私は、巧く跳ねているとおもいますが、画がインパクト少ないかな。(ひこ)

『にゃー にゃー』(長新太 ポプラ社 2001)
 350円という安価で絵本を提供しようとの試み「おはなしえほん」の一冊。
 製本等、確かに安っぽいが、読み捨て絵本と考えればいいでしょう。
 読み捨て絵本、なんて悪い言い方? ではなく、小さな物語を読んで、「あー、おもしろかった。元気でた」で、ぱっと忘れてしまうってこともいいことだと思います。その楽しい時を得ることだ大事。
 長のこの作、タイトルのダツリキカンから、内容のシンプルな楽しさとラストの安心感まで、まさにこの企画にピタリ。(ひこ)

『わにのスワニー』(中川ひろたか:作 あべ弘士:絵 講談社 2001)
 ナンセンスのツボの一つは、一般からは的はずれなポリシーや感覚などを徹底的にフツーだと信じ込んでいる登場人物ってのがありますが、この作、しまぶくろさん、いい!
 ま、しまふくろうのなまえがしまぶくろというしょーもなさからして、エライ。もう一ひねりしてしまうと、おもしろくなくなる。
 物語は、ワニのスワニー(これもエライ名付け)の元にしまぶくろさんが遊びに来る、3編からなっている。説明してしまうと読む必要がなくなるたぐいの「おもしろさ」なので避けますが、あべの画と中川の文、そうして、手書き文字の見せ方、レベル高いです。当たり前ですが、考えてます。(ひこ)

『のら犬ウイリー』(マーク・シーモント:作 みはらいずみ:訳 あすなろ書房 2001/2001)
 この絵本、まず表紙のタイトルロゴがちゃんとチョイスされていて、そこでまず好感です。たぶん何度も同じこと書いていると思いますが、絵本の場合は特に、こうした細部を責任をもって仕上げて欲しいです。だって、編集者のやる気が伝わりますもん。
 ストーリーはシンプル。家族で遊びに行ったキャンプ地で出会った人なつっこいのら犬。みんな彼をたちまち好きになり「ウイリー」って名前も付ける。でも、のら犬だから捕らえられそうになって・・。
 ええ話です。
 でもそれよりおもしろいのは、のら犬が飼い犬として「所有」されることで得る幸せ、なんていう、実はちょっとコワイ話が、「ホノボノ」と語られてしまう「絵」の力。
 もう少し述べれば、これって、大人(親)と子どもの関係なんですね。(ひこ)

【創作】
『風の子レラ』(AKIRA 青山出版 2001)

 アイヌの民話や伝説を絵本にしたものはたくさんあるが、その生活や文化を克明に描いた小説は、意外なほど少ない。ネイティブアメリカンについて書かれた本などに比べても、アイヌに関する一般書は圧倒的に乏しい。それは、アイヌ文化に対する日本の一般的な無理解を象徴しているようでもある。度重なる無知な政治家の、許し難い単一民族発言なども、そういった現状を無残にも反映している。この作品は、先住民族の文化や歴史に長いあいだ目を瞑ってきた、私たちの日常感覚を激しく揺さぶる。そしてまた、二十一世紀を迎えて一層混迷を深める、私たちの精神生活にも多くの示唆を与えてくれるようだ。
 小学四年生の少女レラ(麗蘭)は、眉毛が太く、自分のことを「ぼく」というので、しょっちゅう男の子に間違われる。学校では問題児扱いされ、当然にも登校拒否気味だ。両親は離婚していて、母親と二人で東京に住んでいる。中央線の電車の中で、母が脳溢血で倒れ、救急治療室に担ぎ込まれて息を引き取る。レラは母の死を現実のものと思えず、治療室の蘇生装置をめちゃめちゃに引きちぎる。沖縄生まれのレラの母は、アイヌ文化研究のために風の谷を訪れて、アイヌの青年カンナと結ばれたのだ。レラが物心つかないうちに別れた父親のカンナが、養母のチュプを伴って通夜に現れ、酔っ払って母方の叔父と大乱闘を引き起こす。純朴で粗暴なカンナと、呪術師さながらのチュプの登場は、現代文明に対するアンチテーゼでもある。
 火葬場での別れも、常軌を逸するものとして描かれる。レラに現実を直視させるために、チュプは母の遺体が焼かれる現場に立ち会わせる。炎の中で母の下腹部が波打って、足が開いていく。「あんたはあの足の間から、生まれたさ。汚いものでも、いやらしいものでもない。あそこがあんたのふるさとだよ」と、チュプはレラに言う。そしてレラは、別れた父親に引き取られて、北海道のアイヌの村で暮らすことになる。
 風の谷での暮らしは、レラの野生を蘇らせる。北海道の大学で文化人類学を学び、風の谷に定住している車椅子のハカスの妻タヌキの出産にも、レラは立ち会う。生命の誕生の瞬間が、克明に描写され、「あんたたちもこうして生まれ、こうして生んで、命を乗り継いでいくんだよ。目ん玉おっぴろげてタヌキの勇気を、母の底力を、よおく見ておけ!」と、チュプはレラにいう。現代には失われた、命の教育である。
 風の谷に、ダム建設の計画が進行している。推進派の町長と、自然破壊はカムイへの冒涜だと反対する村人たちの闘いに、アイヌの屈辱の歴史が重ねられる。レラの父カンナは、娘の教育資金を得ようと反対派を裏切って、村長に心を売るが、反対運動が弾圧される現場で、ダイナマイトを抱いてダムの破壊を企てて自爆する。母を失い、やっと出合った父親が無残に爆死する光景を目前にしたレラは、言葉を失い心を閉じたまま回復不能と東京の病院へ。自分が教えたアイヌの知恵が、カンナを死なせレラから言葉を奪ったと悲嘆したチュプは、急に老け込んで痴呆性老人として特別養護老人ホームに収容される。そこでは「神謡(ユーカラ)を歌えば妄想、昔話(ウエペレケ)を語れば虚言、伝承(ウパシクマ)を守れば痴呆」と記録される。ダムは完成し、物語は悲劇の終末に向って崩落していく。そこに意外なことがおこる。車椅子のハカスたちが、病院からレラを奪回して閉じた意識を回復させ、チュプをホームから逃走させる。「育みあう大地」の力が、心理療法の限界を超えてレラに野生を呼び戻し、チュプの力を蘇らせるのだ。
 著者は、アンディー・ウォホール奨学金で、ニューヨークアカデミーで学び、バスキアやキースヘリングとも交流した現代アーティストである。北海道の二風谷に足しげく通う中から、行き詰まった現代文明の彼方に、アイヌ文化の未来的な可能性を予感して、それを物語というカンバスに荒々しく力強い筆さばきで見事に描き出した。子どもから大人まで、激しく心を揺さ振られる骨太な物語である。(野上暁 『週刊読書人』)

『累卵の朱 万象史記』(大澤良貴:作 志水アキ:イラスト 白泉社 2001)
 白泉社MY文庫。新しいレーベルです。
 1千年にわたる「帝国」の支配に翳りが兆し、世は混沌割拠する逐鹿の時代。「帝国」は、霊導を操る人外の化生「天孫」の眷属による統一国家。その支配力はあまりに絶大で、国名すら必要としないほどだった。時代が降るにつれ、天孫と人の交配が進むと同時に、霊導に対抗しうるテクノロジーが発達したことで、「帝国」は衰微していく。天孫の名門で最大勢力を誇る「白秋」に、絶対的存在たる帝を弑逆した黒瞳を国主とする「後蓮国」が台頭し、天下は三分されている。やがて、「後蓮国」は「帝国」に進軍。「後蓮国」の参謀祭酒(国軍参謀長)で、黒瞳の次に畏れられている稀代の軍師・永冬の戦略は、三国の運命を決定付けることに…。
 霊導兵器に対抗するテクノロジーの台頭という構図が、一方的な展開になりがちな両国の戦争に戦略と戦術の機微を生み出しているのが醍醐味かと。小野不由美の「十二国記」シリーズ(講談社)に雰囲気は似ているけど、「漢(おとこ)」度が少し高いかも。いずれにしても、続編が楽しみなシリーズです。(目黒)

『時空のクロス・ロード3 バースデイは永遠に』(鷹見一幸:作 あんみつ草:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫。「時空のクロス・ロード」シリーズの完結編です。
 19歳の楠本樟にはトラウマがある。小学4年生の夏、樟は幼なじみの花美を助けようとして二人して川で溺れた。しかし、父親が助けようとしたのは花美であったばかりか、助かったのは樟だけであった。そんなある日、突然目の前に現れた老人から時空転移装置を渡される。転移先は、樟が住む浅羽野市の平行世界。原因不明のウイルスで社会は壊滅状態、大人になるほど致死率が高いため、残されたのは子どもたちばかり。既存のモラルを徹底的に否定する「選ばれし者」というカルト集団が跋扈している。しかし、樟にとって何よりも変わっていたのは、花美の一件であった。この世界では、樟と花美の立場は逆転していた。花美の父親が樟を助けようとして亡くなっており、花美だけが生き残っていたのだ。樟は平行世界で花美を救うべく、「選ばれし者」との戦いの渦中に身を投じることになる。
 現実世界と平行世界を往還するタイプの物語は目新しくないけど、両世界の距離の設定が巧い。異世界ファンタジーのように現実離れしているのでもなく、エブリデイマジックもののように現実に埋没している訳でもない。現実世界と平行世界が程よく重なっているからこそ(あるいは、程よく離れているからこそ)、生き直しができるのだ。人生の初期設定を替えて行き直すという発想は、一歩間違えれば新興宗教のような洗脳に終着しかねないので危険なのだけど(「選ばれし者」を見よ)、最近あまり見られない愚直なまでにポジティブなキャラたちにはそのような心配は杞憂でしょう。ちなみに、以前紹介した同作者のシリーズ「アウトニア王国奮戦記 でたまか」(角川スニーカー文庫)も完結。異色の傑作スペースオペラなので、要チェック。(目黒)

『呪禁官』(牧野修:作 米田仁士:イラスト 祥伝社 2001)
 祥伝社ノン・ノベル。
 ある事件を契機に、時代の趨勢は「科学」から「呪術」の時代に移行。違法呪的行為を取り締る呪禁官を育成するまでに、時代は変化した。葉車創作(通称ギア)もまた、呪禁官を志す男の子で、県立第三呪禁官養成学校の1年生だ。ギアは、不死者との戦いで殉職した呪禁官の父親の遺志を継ぐべく、鍛錬に励んでいる。やがてギアは、反オカルト勢力の科学者集団ガリレオに、究極の呪具の1つである「プロスペロの書」を手に入れんとする不死者の思惑が錯綜する事件に、巻き込まれることになる。
 「魔法」と「科学」を入れ替えるのではなく、「呪術」と「科学」を置換するところがホラー作家の牧野らしい。この世界観は一読の価値ありかと。学園モノとしても秀逸で、ギアをはじめとするおちこぼれグループの奮闘ぶりが爽やか。(目黒)

『暗黒童話』(乙一:作 西口司郎:イラスト 集英社 2001)
 乙一初めての長編。
 菜深(なみ)は県立高校の2年生。ある事故で左眼を失ったばかりか、そのショックから記憶まで喪失することに。正規の手続きを踏まずに、左眼を移植。移植手術そのものは成功したが、奇妙な現象が付随してきた。左眼がその網膜に過去投影された映像をフラッシュバックして再生してしまうのだ。記憶を喪ったことで、菜深のそれまでの人間関係は崩壊していた。記憶がないために、他人が自分に期待する役割を演じることができないからだ。もはや菜深は家族にとってでさえ、他人同然になってしまう。記憶を喪い、疎外感に悩まされていた菜深にとって、左眼の記録フィルムは他人のものとは思えない切実なものとして体験される。そんなある日のこと、左眼は少女の映像を再生する。驚くべきことに、その少女は行方不明の女の子と酷似していた。菜深は事件の真相を解明すべく、左眼の記憶を辿り始める。
 菜深は記憶を喪失することで人間関係を失う。しかし、それまでの人間関係が記憶と同時に御破算になったことで、左眼に導かれた新しい人間関係を手にした。人間関係にとって記憶は関係性を維持するために最低限必要な装置なのだけど、記憶に依存した関係性って自己陶酔的で排他的なものになりがち。時には、記憶を喪失して関係性を再構築するものよいかも知れない、などと思わせられました。道具立てはホラーだけど、記憶喪失を題材にすることでコミュニケーションのプリミティブな形を提示できている点において、「童話」としても完成度が高いのでは。(目黒)

『魔法使いはだれだ』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ:作 野口絵美:訳 佐竹美保:絵 徳間書店 1982/2001)
 イギリス正統ファンタジー作家による「クレストマンシー」シリーズ第一弾。
 舞台は確かに現代のイギリスにある寄宿舎学校。学園物です。が、このイギリスには何故か魔法使いが居て、彼らは見つかると火あぶりの刑に処せられます。主人公たちのクラス。先生に「このクラスには魔女がいます」とのメモが渡るところから物語は始まります。そして、自らの魔法に目覚めていく子どもたち・・・。
 パラレルワールドです。いい子なんか出てこないし、それぞれが怒りや憎しみやコンプレックスを抱えています。この似て異世界な空間を使って作者はリアルな子どもたちの内面を描くのですが、そこはお話の巧い作者のこと、一気に読ませてしまいます。
 同じ作者による、『魔法使いハウルと火の悪魔』『アブダラと空飛ぶ絨毯』(西村醇子訳 徳間書店)は、ジプリの次回のアニメになります。日本ではこれから旬の作家。(ひこ)

『ローワンと黄金の谷の謎』(エミリー・ロッダ:作 さくまゆみこ:訳 佐竹美保:絵 1994/2001)
 シリーズ第2作。
 リンの村は平穏な日々が流れている。前作でアランが持ち帰ったヤマイチゴは数を増やし、やがておいしい実をつけるだろう。そうすれば、それが村のよい収入源になる。
 「旅の人」たちがやってくる。外地の情報をもたらしてくれる彼らはよい客人でありつつ、村を乱すやっかいものでもある。歓迎するものも、煙たがるものもいる。数年に一度ふらりと現れる彼らは、去年、きたばかりなのに、どうしてまた来たのだろう? 彼らは何かを隠している。きっとヤマイチゴの苗を盗んでいくつもりだ。いやそんなことはない。
 そうしたおり、ローワンは老婆ジンの予言を聞く。謎めいたそれは不吉な匂いがする・・・。
 このシリーズの魅力はなんといっても主人公ローワンが「ただの子ども」であること。彼は決してヒーローではない。そんなローワンが村の危機を救っていく物語の意外な展開。
 ハリー・ポッターとは対極の物語の一つです。(ひこ)

『ねずみの家』(ルーマ・ゴッデン:作 おびかゆうこ:訳 たかおゆうこ:絵 徳間書店 1958/2001)
 原本では傑作『ねずみ女房』(石井桃子:訳 岩波書店)とカップリングで出版されている物語。
 メアリーがプレゼントされたドールハウス。ネズミの人形夫婦を住ませています。広々と豪華。一方家の地下に住む本物のねずみ一家は狭い家でぎゅうぎゅう詰め。おかげで末っ子のテリーはいつもはみ出してしまう。うんざりしたテリーは、人間の家の方に出かけ、そこのネズミの家を発見する。
 物語は収まるところにちゃんと収まって、めでたしめでたし。
 ゴッデンは本当に語るのが巧い作家。
 古い話なので、絵をどうつけるか難しいところですが、たかおゆうこは見事に違和感のない仕上がりを提供しています。(ひこ)

『フェアマウント通り26番地の家』(トミー・デ・パオラ:作 片岡しのぶ:訳 あすなろ書房 1999/2001)
 絵本作家の子ども時代の1エピソード。
 なにしろ第2次世界大戦前の話ですから、のんびりはしています。
 けれど、4歳の子どもには子どもなりの大変さもあって、作者はそこをよく記憶し、ナスタルジーではなく再生しています。
 特にディズニー・アニメの『白雪姫』を見に行く(もちろん、封切のを!)エピソードは秀逸だし、当時の現役の子どもの感想としても貴重な資料です。(ひこ)

『ワニがうちにやってきた!』(ポール・ファン・ローン:作 若松宣子:訳 岩崎書店 1993/2001)
エミーはお誕生日に犬をもらう約束が、朝起きてみるとなんと両親からのプレゼントは金魚。これなら部屋中に毛を落とさないし、糞の始末も簡単だし、というのが親の理由。お金儲けばかり考えている父親と母親。なんだかもううんざり。
 そこへ郵便屋さんがやってきて言うには、本当に欲しい物を手に入れたけりゃ、「どうしてもと、心に強く思わなきゃいけない」。郵便屋さんが届けてくれたのは、絵画コンクールでエミーが9位に入った賞品。それはワニの卵だった。ひょっとしたら生まれるかもしれない。心に強く願うエミー。
 もちろんワニの赤ちゃんは生まれてエミーはこっそりそれを飼う。でもやがて見つかって、てんやわんや。
 と、非常にシンプルなドタバタ楽しい物語です。
 でも、どこか濃いーのが、オランダ産。
 親にもらった金魚は、友達の連れてきた犬にペロリを食べられてしまうし、両親に施設行きを迫られているおばあちゃんはエキセントリックだし、金儲け主義の父親はずーっとそのまま(ワニ皮の靴を密輸しちります、この親は。んで、娘のペットである大きくなったワニをみて何考えるかとゆーと、そうです、そんなことを考える)だし、ラストもまたとんでもないといえばとんでもないハッピーエンド。
 その濃さを楽しんでくださいませ。(ひこ)

『のはらクラブのちいさなおつかい』(たかどのほうこ 理論社 2001)
 『のはらクラブのこどもたち』シーリーズ第2作、秋の草花編。
 第一作目からすでに安定度の高かい設定の作品でしたが、今回もその設定を踏襲していて、外れなく読めるでしょう。
 野原をかるくのが大好きはのはらおばさんが、のんちゃんといっしょに、野原を散歩するメンバーを掲示板で募集し、それの集まったこどもたちろ、秋の草花を観賞していきます。
 別に観察勉強本でもなく、かといって、軽いファンタジーってのでもありません。
 たかどのがこの物語に置いているのは、自然との交歓のすばらしさをさりげなく示すこと。(ひこ)

『シャイン・キッズ』(光丘真理:作 武田綾子:絵 岩崎書店 2001)
 親友まゆかの兄のひろちゃんは視覚障害者。彼の作るメロディに惹かれ、それに詩をつけたことから、わたしをボーカルとしてバンドができる。コンテストに向かって、様々な事件に出会いながらも、私たちは進んでいく。
 まぶしいほどまっすぐな成長+ロマンス小説。視覚障害者を設定することで、物語のエピソードは当然のようにそこに引きつられつつ緊張感を生む。一方それが、読者に視覚障害者をに関するエピソードを伝える。という構造になっている。
 そこに、お金持ちの親の子であるためにフテてしまっていた少年、ニンジンがからみ、ひろちゃんの優しさが彼を救う。とはいえひろちゃんはスーパーではなく、全盲ではない友人ケンちゃん(彼はドラマー)に嫉妬もしている。友人は友人で彼の潔さに嫉妬している。彼らは男らしいけんかによって、友情をより深める。またニンジンは視覚障害者「なのに」本当の友人がいるひろちゃんにムカつき、頬に切り傷を負わせてしまう。しかし、彼のギターに惹かれたひろちゃんはバンドに入れようとする。ニンジンを許せないケンちゃんは一度だけ思い切りニンジンを殴ることで、気持ちの決着をつける。男どうしのコミュニケーションである。
 という風にこの物語は古風にまっとうである。それが軽さを生み、読みやすくさせている。
 が、たとえば『ビート・キッズ』(風野潮 講談社)が、とんでもない展開をみせながら、「リアル」を踏みつけて勢いで読ませてしまう後に残る、ある種の爽快感はここにはない。
 一つ一つのエピソードが、うまく行きすぎているのだ。読者は物語に追いつけなかったり、追い越してしまったりすることはできない。書かれたことを書かれたまま、書かれたリズムで受け止めるだけだ。音を、音楽を中心の一つにするのなら、それが魅力的でなければならないが、メロディが浮かんでこない。
 ラスト決勝戦の舞台に上がるところで終えるのもお行儀が良すぎる。落ちるなら落ちる、優勝してしまうなら優勝する。その決意が欲しい。
 シリーズ化してその辺りのクリアを望みます。
 巧い書き手なのだから。(ひこ)

『呪われた航海』(イアン・ローレンス:作 三辺律子:訳 理論社 1998/2001)
 貧しく小さな島の住民たちは、遭難船がくることを待ちわびている。というのは、それで流された物資は自分たちのものになるから。
 というのは、歴史上の事実としてあって、この物語はそれを素材にし、今は描きにくい海洋冒険物語にしたてています。ポイントは、一つ。
 遭難船の物資を得ることができるなら、船を遭難させればいいのだ、と考える島民を登場させること。
 視点は、船乗りになりたいけれど、船乗りではなく、船での貿易を覚えさせたい父親の船に乗り込む少年。これが「ロビソン・クルーソ」ですね。クルーソの場合、遭難しますがそこで自分の世界を作るけれど、現代の物語はそんな「やわ」な設定ができるわけもなく、一人でも乗り組み員が生き残っていると、回収したブツは自分のものにならないので、遭難者を救うどころか殺してしまうやからのいる島に遭難し、逃げる少年の話にしてあります。
 サスペンス満載。
 ラストがチト出来過ぎで弱いけれど、読ませますよ。(ひこ)

『ラ・モネッタちゃんはきげんがわるい』(柏葉幸子:作 佐竹美保:絵 偕成社 2001)
 ファンタジー作家の大御所による、軽いユーモア物語。いつもきげんが悪いお姫様ラ・モッタちゃんと、その家庭教師になったバローロ先生。お姫様は色々悪さをしますがそれに動じないバローロ先生。
 お姫様専用の学校では、彼女たちの替わりに召使いや家庭教師が先生たちの質問に答えています。でもバローロはしない。
 そんなバローロとお姫様の丁々発止。でも、それからお姫様が反省するなんて展開をとるわけはありません。
 ラ・モッタちゃんはやっぱりラ・モッタちゃん。
 でも、バローロ先生だったやっぱり。
 シリーズになるのかな?(ひこ)

『「うそじゃないよ」と谷川くんは いった』(岩瀬成子 小学館 1991)

 小学校五年生のるいは学校では口をききません。話せないのではなく話さないだけ。事実、家では両親と会話しています。当然のようにるいはクラスで浮いた存在。
 谷川くんが転校してきます。仕事で両親がブラジルに行っていて、おばあちゃんの家に住むことになったそうです。彼はるいと違って饒舌。動物学者の父親と世界中を回った経験から、おもしろい話をたくさん知っていて、たちまちクラスの人気者に。谷川君はるいに「ぼくとは話せよ」と言います。それからるいの中で彼は特別な存在となる。
 谷川くん、本当は母親が新しい恋人と暮らすのに家を出てしまい、見つかると施設に入れられるかもしれないから、妹と二人で元のアパートにこっそり住んでいます。彼の饒舌は、理想の家族の子どもを演じるため。これは、とてもわかりやすいキャラクターです。
 ある時、谷川くんは「ここにいるのに、ここじゃないっていう、そういう気持ち」になったことがないかと、るいに訊きます。「ああ・・。ある。いつも。そういう気持ち」。彼女は学校から帰ると自分の部屋で、「まっ暗な宇宙にうかぶ地球」のビデオ映像をみたり、ベランダから望遠鏡で宇宙をみたりしています。そんなとき「星が空にういているのか、地球にいる自分が浮いているのかわからなくなりそうだった」。自分のいる場所や位置がわからない、いや自分の存在が希薄に感じられる瞬間をるいもまた何度も経験しているのです。ただし谷川くんの場合は、親から捨てられた(わずかな生活費は届けてくれますが)ため、「子ども」としての自分のアイデンティティが揺らいだからです。が、るいにはそうした背景はなく、なぜクラスでは話さないのかも、物語ははっきり述べてはいません。というか、はっきりした具体的な理由もなくコミュニケーションしないるいを描いています。ただただ「ここにいるのに、ここじゃないっていう気持ち」を抱えている子どもです。谷川くんは、その問題の所在が見えています。彼が属する家族にあります。でもるいのは見えない。ということは、るいの抱えている(抱えてしまった)問題は、家族ではなく、この社会にあるといっていいでしょう。子どもがこれまでのような子どもではいられない社会・・・。
 物語は、母親からの仕送りが途絶えたために施設入りを決意した谷川くんが去り、彼のことは大人になってもずっとおぼえていたいとるいが思うところで、かろうじて幕を閉じます。でも、本当に谷川くんはいたのか? との疑問は残ります。彼は、るいが「ここにいるのに、ここじゃなっていう、そういう気持ち」の出所を具体化するために仮構した存在では?
「うそじゃないよ」ってるいは言うかもしれませんが。(ひこ)
(徳間書店 「子どもの本だより」2001.10)

【評論他】
『20世紀を一緒に歩いてみないか』(村上義雄  岩波ジュニア新書 2001)

 中学生の頃だ。祭りの縁日で、子ども向けに書かれた、新書サイズの近現代史のシリーズを数冊買った。確か河出書房から出版されたもので、一九五七年に同社が倒産した直後にゾッキ本として流出していたのだろう。その本で始めて知った、女工哀史、関東大震災での朝鮮人虐殺、小林多喜二の拷問死、朝鮮人の強制連行といった、日本の近現代史の暗部に激しい衝撃を受けた。戦後民主教育の只中にあっても、学校では教えられないことばかりであった。それがきっかけで、下山、三鷹、松川事件などの、戦後の混乱期に起こった労働運動の弾圧につながるミステリアスな謀略事件にも興味を抱くようになった。後に、松本清張の『日本の黒い霧』を貪り読んだり、政治的な関心を持ち学生運動に関わるようになったのも、この本の影響が大きかったのではないかと思う。
 経済至上主義で戦後を突っ走ってきた日本が、バブル崩壊後にその行方を見失い、アイデンティティーの不在からか、国辱史観などという煽情的な言葉で、ナショナリズムを喚起しようという怪しげな動きが、若者たちにも浸透しつつあるこの頃だ。アジア諸国への侵略さえも矮小化する歴史教科書が出回ったり、国民的な人気作家の著作などを引き合いに、明治期の指導者を賞賛し、そこから学ぶべきことが多いなどの言説も拡がっている。学校教育を通して、子どもたちに近現代史をしっかり伝えてこなかった盲点が、逆利用されている現状は極めて危険である。このような中で、子ども向けに二〇世紀の百年を判りやすくたどってみせる、この本の意義は大きい。
 著者の村上義雄さんは、朝日新聞の記者として、様々な現場に立ち会ってきたジャーナリストである。イスラエル占領下のパレスチナへ、崩壊前のベルリンの壁へ、五月革命後のパリへ。子どもと教育問題を主なテーマに、国際的な視野から二〇世紀の後半を取材し、書きつづけてきた著者ならではの俯瞰的視点が、「20世紀を一緒に歩いてみないか」という表題に見事に集約されているようだ。
 ウォーキングのスタート地点は、明治維新。天皇制国家の建国と、富国強兵であり、その延長上に二〇世紀が幕をひらく。一九〇一年「田中正造、足尾銅山の悲惨を天皇に直訴」から始まり、一九〇二年「日英同盟締結―ロシアにらむ外交戦略」、一九〇四年「日露戦争勃発―一将功成りて万骨枯る」と続く。二〇世紀のキーワードとも言うべき内外の事件や事象を、著者の視点から約八〇項目選び、それを見開きか二見開きを使って解説するので、それぞれがコンパクトで読みやすい。
 著者は歴史をひもときながら、現在を語る。一九二五年「恐怖の治安維持法」では、同法の成立から小林多喜二の虐殺を紹介し、一連のオウム事件に対しての破防法適用論議にもふれ、オウムの犯罪は許せないが、ソフトなムードを漂わせながらの巧妙な手口による大衆心理の誘導に、「よく目を見開いていないと手遅れになる」と警告を発する。一九四〇年の「紀元は二千六百年」では、「日本は神の国」などと政治家が言い出したら要注意で、「日本人は油断すると何をするかわからない。カッと目を見開いてよく見つめておこう」と呼びかける。「人気抜群の政治家ほど危ない。拍手喝采に迎えられて登場したヒトラーがその代表選手だが、過去に例は山ほどある」とは、暗に昨今の小泉人気を指しての言葉であろう。
 一九五七年の、文部省による教職員の「勤務評定」強行に、戦後のいわゆる民主教育の変容を見てとり、現在学校の中に吹く「冷たい風」や、子どもたちの「すさみ」の原因の一つを読み解く視点も見逃せない。一九六〇年「「六〇年安保闘争」と革新政治家」では、安保反対で高揚し、国会前を埋め尽くした群集に対して、総評や共産党の指導者が即刻解散を呼びかけるという信じ難い光景を、新米記者であった著者は目にする。朝日新聞の社説も、全学連の「国会構内乱入」を「まことに思慮なきハネ上がり」と批判する。それに対して著者は、「この社説は、いつもは中立的な顔をしているマスコミの背後にかくされた、階級的立場を明らかにしている」と断ずる。著者自身がメディアの内側にありながら、それを相対化して見る視点も爽やかだ。一九五三年「テレビ、この現代の怪物」でも、今年起こった「本当に怖いことは、人気者の顔をしてやってくる」という、社民党のテレビCMの放映拒否続発に、「本当に怖いのは自分で自分を縛る自主規制だ」と述べる。
時代と並走し様々な現場に立ち会ってきたジャーナリストが、若い世代に贈る、なかなかエキサイティングな近現代史のガイドブックである。(野上暁 『子どもプラス』8号)