No.47  2001.11.25日号

       
【絵本】
12月はまいにちが すてき!』(二宮由起子:文 松永雅之:絵 エルくらぶ 2001)
 クリスマスに向けての絵本の一冊。
 だけど、タイトル通り、12月1日から、31日までの毎日を1ページづつ、日めくりのようにたどっていく趣向。
 クリスマスが、新年がいい!ってことではなく、そこに至る一日一日がドキドキ。ワクワクなこと。そっちにバランスがおかれています。
 考えてみれば、そうですよね。「もうすぐ」の時間が楽しい。
 今回初めて絵本の画をつけた松永は、冒険もできたのだろうが、あえて、カレンダーという枠組みに自分の画をはめ込むことで、そこにリズムを作った。(ひこ)

『スマッジがいるから』(ナン・グレゴリー:作 ロン・ライトバーン:絵 岩元綾:訳 あかね書房 1995/2001)
 「ホーム」で暮らすシンディは子犬を拾います。「ホーム」では飼えません。
 シンディは病院の掃除係りとして働いています。子犬をエプロンのポケットに隠して、出かけるシンディ。
 思い病気のシャンの見せると、ずっと沈んでいた彼に笑顔が。スマッジ(しみ)みたいな犬だな、と、名前を付けてくれます。さ、もうだからスマッジはシンディの犬です。が、ホームで見つかり・・・。
 動物によるケアをする病院や老人ホームが日本でもでてきましたが、「動物力」って本当にあります。
 シンディとスマッジの表情が非常にいい画たち。
 ストーリーだけなら、「ええ話」になる恐れがあるところを、これが支えています。(ひこ)

『ケーチェのあかちゃん』(ヤンティーン・バウスマン:作・絵 よこやまかずこ:訳 岩崎書店 1977/2001)
 原作はちょい古いですが、モチーフが普遍的なので、今も楽しめる一品。
 はりねずみのケースとケーチェに、あかちゃんができる。その出産までを描いています。
 どんな贈り物をしようかとか、仲間のトンチンカン振り、ケーチェの不安とケースによるそのサポートなど、全体がポッと暖かいでき。(ひこ)

『ぼくがおっぱいをきらいなわけ』(礒みゆき ポプラ社 2001)
 下の子ができたお兄ちゃん物です。
 母親のおっぱいから、乳牛から、父親の乳首まで、もうとにかくきらいという「ぼく」の気持が、心が、勢いのある画と字で、伝わってきます。
 でもラストが収まり過ぎ。同じ思いでいる子がこれだけで納得するでしょうか? ここに行かなくても、気持ち、心はもう共感できるのですから、納めない方が良かった(ひこ)

『こいぬのバーキス』(クレア・ターレー・ニューベリー:作 劉優貴子:訳 講談社 1938/2001)
 ずいぶん昔の絵本です。
 昔の絵本の復刻や、未訳だったものの翻訳はここ数年増えています。
 それは、単にネタ切れってわけでもなく(もありますでしょうが)、今ではもう描きにくいけれど、今でも欲しい絵本なんだと思いますよ。
 これは、とても安定感のある絵本です。
 画は、素直だし、物語もまっすぐ。
 誕生日のプレゼントに待望の子犬をもらったジェームス。姉も子犬と遊びたいのですが、彼女の子猫と遊ばせてもらえなかったジェームスは拒否。自分だけの犬に。それに頭にきている姉。ある日、子犬のバーキスが家の外の出ていくのを見てしまう姉。でも、あれは私の犬じゃないから・・・・。
 「安心」絵本の典型ですが、子どものエゴがちゃんと描かれているのが、いいですよ。(ひこ)

『たいせつなこと』(マガレット・ワイズ・ブラウン:作 レナード・ワイスガード:絵 うちだややこ:訳 フレーベル館 1949/2001)
 グラスから始まって、それぞれの「たいせつなこと」が語られていきます。「あめは そらからおちてきて/しとしと ざぱざぱ おとが して/いろんな ものを/つやつやに かがやかせ/どんな あじにも にてなくて/くうきと あなじいろを している/でも あめに とって たいせつなのは/みずみずしく うるおす と いうこと」。
 そしてさいごのたいせつなものは、あなた自身。
 今なら癒し系絵本として使えますね。様々なものと同等に並べてから、「あなた」にくるから、世界が愛おしくなるわけです。(ひこ)

『まりちゃんのこいぬ』(せきおかまゆみ ポプラ社 2001)
 まりちゃんの大好きな子犬シロ。でもシロには秘密があってそれは子猫のミケちゃんが大好きなことで、子猫のミケちゃんには秘密があって・・・・。と秘密の連鎖絵本。もちろん、最後は元の場所、まりちゃんとシロに戻ります。それだけのシンプルな絵本ですが、このレベルの小さな絵本はもっとあっていい。消費され、また新しい絵本が供給されていくという風に。ヘンに古典になって、自分が子どもの頃面白かったから、ではつまりません。もちろんその分活きの良さがもとめられるのですが。この作品は、画はともかくも、ストーリーのテンポがいい(ひこ)

『トクトクぴゅーん』(吉岡しげ美:作 津吉ゆうこ:絵 岩崎書店 2001)
 トクトクとは心臓の音。目をつぶることで聞こえてくる様々な音、匂い、それを体感する心の柔らかさ。
 そうしたことを絵本の中で表現しようとした作品。
「ねえ、みみをすまして なにがきこえる? しーっしずかに ・・・・ね」といった言葉が、「説明」になってはいまいか? そして添えられる画はまた言葉をなぞってはいまいか?
 絵本での試みが難しいだろうことはわかるけれど。
 最後の見開きがいいから、ここに至るまでが、惜しい(ひこ)

『おまめくん ビリーのゆめ』(シーモア・リア:作・絵 青山南:訳 岩崎書店 2000/2001)
 ビリーはロケットを作って、宇宙に行きたい。それを知ったともだちのおまめたちがいろいろな道具を持ってきてくれて、制作。いよいよみんなで乗り込んで出発! あ、でも、誰がロケットを発射するの?
 画のポップさと、細部のおもしろさ、そしてストーリーのテンポの良さ。いい後味。
 何度も読み返すタイプの絵本ではありません。その一度の出会いを楽しむ作品です。(ひこ)

『秋は林をぬけて』(小泉るみ子:作・絵 ポプラ社 2001)
 小泉の四季シリーズ3作目。
 彼女の少女時代の北海道の風景が、とても印象深く、色鮮やかに描かれている。そのために、ストーリーは押さえられ、しかし、切りつめられた言葉は、活き活きと少女の感性を伝える。
 のだけれど、これは誰に向けての絵本なんだろう?
 と、戸惑ってしまう。
 この画の心地よさは、子どもに伝わるだろうか?と。
 もちろん、すべての子どもに伝わる絵本を! などとアホなことを言っているのではない。ただ、私が共鳴してしまうのは、私もまた、子どもではなく、子ども時代を体験している視点からだけ眺めているからなのではないか? と思ってしまうのだ。何がそう思わせるのかは、まだよくわからないが、「印象深く」と書いたとき、そんなことを感じたのです。(ひこ)

『マドレンカ』(ピータ・シス:作 松田素子:訳 BL出版 2000/2001)
 乳歯が抜けたマドレンカ、うれしくて、みんなに知らせたくて。
 アパートを出たマドレンカ、ご近所中を回ります。
 そこには様々な国からやってきた人たちがいて、様々な方法でマドレンカを祝ってくれます。
 ちょいとだけ仕掛け絵本にもなっているのですが、
 どういえばいいのでしょう。
 マドレンカは喜んであちこち行くのですが、それは、アパートの建物群をグルリを一周するだけのこと。
 つまり、それだけのところにいろんな人が住んでいることを教えてくれます。
 マドレンカの走りの躍動感と喜びがピタリと重なり、それが周りのみんなも幸せにしてくれる。
 世界とマドレンカがちゃんと繋がって見えてくる。
 傑作!(ひこ)

『ちいさなやま』(小林豊 ポプラ社 2001)
 東京のはずれに残された「太郎山」。そこでは都会とはいえ、わずかながらも自然の営みがあり、人の日々・風景があり、そうした微細で柔らかな時間を小林は絵本の中に置こうとしている。
 それ自体は気持ちがいいのだけれど、画が音楽的にいえばどれもテンポがミディアムなのが、気にかかる。ズームイン、ズームアウトがもっとあってもいいのでは?
 おそらくこれは、この絵本に描かれた世界が小林にとってすでに身の内で完結・完成しているからではなかろうか?
 もっと、揺らぎを!(ひこ)

『オリビア』(イアン。ファルコナー:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2000/2001)
 ポップでキュートな6才こぶたオリビアの物語。
 隅々まで気を配った、非常にクオリティの高い作品。
 といっても敷居は低く、でも、
 子どもにも、もちろん大人にもこびていない。
 そしてオリビアにも。
 ただただ、オリビアのかわいさ、おかしさ、そしていとおしさに貫かれている。
 シンプルでリズミカルな画。
 オリビアに魅せられてしまいます。(ひこ)

『ずっと、いっしょに・うさぎのペパンとねずみのフワリ』(ブリジット・ミンネ:作 イングリド・ゴドン:絵 ほりうちもみこ:訳 ポプラ社 2001)
 「トモダチ」のお話。
 雪だるまを作っていたペパン。でも雪だるまは寒そうだよって声。誰? しろネズミのフワリ。で、雪だるまよりフワリの方がもっと寒そう。フワリは迷子。
 ということで、親の反対も乗り切って、ペパンはフワリと一緒に暮らすことに。
 でもでも、ハトが、迷子捜しの情報を。それってフワリのこと? なら、別れなければいけないの?
 お決まりのラストが用意されています。
 うーん、これって、共依存?
 冬の画の色合いが、何ともいいんですが。(ひこ)

『あの日・わたしと大吉と阪神淡路大震災』(日比野克彦:構成・絵 講談社)
 神戸市獣医師会が、募集したペットによっていやされた体験話を元に、復興事業にも関わっていた日比野が仕上げた絵本。
 震災後に、言葉は悪いが雨後の竹の子のように出版された震災物で、記憶の残るものがどれだけあるだろうか?(長谷川集平の仕事はいい。)
 時を置くことで、描けることもある。
 という一冊。
 震災でシーズー犬の大吉と一緒にタンスの下敷きになってしまった「私」。でも、大吉を助けなければとそこから必死で抜け出し、それから、大吉との日々、が綴られます。
 「大吉は、わたしの命の源です」。
 最後に置かれた言葉は、誰にも納得できるでしょう。
 でも、やはり、これも描けているとは思えない。
 読み手の情緒に頼りすぎている。
 ここから先を描くことの難しさを感じさせる一品。(ひこ)

『浜辺のコレクション』(浜口哲一 池田等 フレーベル館 2001)
 浜辺に落ちているいろんな物を、種類別に分けて見せる、写真絵本。
 作者達は博物館の学芸員。たぶん子どもの頃から、こういうのをコレクションするのが大好きで、なりたい仕事につけた人たちなんでしょう。
 120〜30種の貝殻から漂流物まで。
 ま、いろんな物があるもんです。
 探すことのおもしろさを伝えています。
 コレクションの喜びも伝わってきます。
 でも、もう少し、エコロジーも入って良かったのでは?(ひこ)

『ねずみくんとゆきだるま』(なかえよしお:作 上野紀子:絵 ポプラ社 2001)
 雪合戦をやっても雪だるまを作っても、もちろんねずみくんはライオンくんにもゾウさんにも勝てない。
 でも、一発逆転!!
 このシリーズの中でできがいいかといえば、「?」。
 ま、クリスマス向けということで。(ひこ)

【創作】
『氷菓』(米澤穂信:作 角川書店 2001)
 角川スニーカー文庫。第5回角川学園小説大賞奨励賞受賞作。
 折木奉太郎は神山高校の1年生。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」が信条の省エネ人間だ。姉の「古典部に入りなさい」という一言から、姉に逆らえない奉太郎は古典部に入部することに。3年連続入部者なしで、現在部員数ゼロの古典部は、今年に入部者がいなければ廃部になることが確実視されていた。誰も居ないだろうと敷居を跨いだ部室には、意外なことに先客がいた。千反田という女性徒で、「一身上の都合」で入部したというのだ。やがて二人は、古典部の文集「氷菓」から33年前の事件に辿り着く。
 古典部という設定が新鮮だっただけに、いわゆる古典部らしい活動の場面が描かれていれば良かったのに。謎解きはちょっと強引な印象があるけど、ミステリはこの作品にとってあくまでオプション。「青春」というレトロな言葉が似つかわしい佳作。(目黒)

『イリヤの空、UFOの夏 その1』(秋山瑞人:作 駒都えーじ:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫。40号で紹介した『猫の地球儀』(電撃文庫)の作者の新作。
 中学2年生の夏休み最終日。浅羽直之は夜の学校のプールに忍び込む。何か目的があった訳ではない。夏休み終わりに相応しく、おバカなことをしたかっただけだ。夏休みの大半をUFOの張り込みに費やした挙句、成果は無し。宿題は手つかずのまま。魔が差したと言うところか。プールには先客がいた。手首の裏側に金属の球体が埋め込まれていることを除けば、同じ年頃の普通の女の子であった。新学期。あの夜、黒服の男に連行されたはずの彼女・伊里野可奈は、直之のクラスに転校してくる…。
 夏休み。夜のプール。謎の転校生。学園モノの王道でしょう。とりわけ、冴えない男の子とミステリアスな女の子の組み合わせは、容姿というよりは、この年頃の男女関係の力学を(おそらく男の子の視点から)象徴している。恋愛経験に乏しい男の子にとって、女の子はミステリアスなエイリアン(であってほしい)ということ。それでは、女の子にとって男の子はどのように見えるのでしょうか。「ボーイ・ミーツ・ガール」と同時に、「ガール・ミーツ・ボーイ」がどのように描かれるのか、気になるところ。高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(小学館)に設定が似ているので(地方都市の牧歌的な学園生活と相手が不透明な戦争)、読み比べるのも一興かと。ちなみに、続編が早くも出ました。(目黒)

『イマジナル・ディスク』(夏緑:作 金田榮路:イラスト 角川春樹事務所 2001)
 ハルキ文庫。
 京都大学の院生・野辺剛史は、理学研究所遺伝子実験棟に所属する修士課程の2回生。ふとしたことから、蝶に噛まれたという女性と知り合いになる。進化が止まったと言われるなか(猿がこれから人間に進化することはないということ)、昆虫だけは進化を成し遂げている。ゆえに、科学者である剛史は「噛む蝶」の可能性を否定できないでいた。昆虫を研究対象にしており、修士論文が書けないことも重なって、「噛む蝶」が実在することに一縷の望みを賭けてみることになるのだが…。
「イマジナル・ディスク」という発想は好み。「イマジナル・ディスク」とは、昆虫の変態を司る設計図のようなもの。「噛む蝶」のイメージも良い。だからこそ、ストーリ展開とキャラの魅力がいま一つのが惜しまれる。ただし、研究職に就くまでの理系研究者の日常は、よく描けてます。ストーリより、センス・オブ・ワンダーに惹かれる方はどうぞ。(目黒)

『ザリガニマン』(北野勇作:作 菅原芳人:イラスト 徳間書店 2001)
 デュアルノヴェラ。徳間デュアル文庫に新設された中篇小説の部門。『かめくん』の姉妹篇です。
 トーノヒトシは有限会社ムゲンテックの社員である。今回の仕事は、「人類の敵」という設定の巨大ザリガニとのコンタクト。巨大ザリガニは生体素材から構成されているので、所謂「機械」ではない。さて、トーノヒトシは、自らの脳を生体素材にリンクさせることで、外部観察からは得られないレヴェルのデータベースを脳内に構築できる。ムゲンテックは、生体素材と人間のインターフェイスを提供する会社なのだ。ところが、ザリガニとのコンタクトの最中、謎の爆発事故が発生する。トーノヒトシの意識(データ)はザリガニの内部に残留することに。「正義の味方」ザリガニマンの誕生である。
 『かめくん』の姉妹篇だけあって、特撮(今回は仮面ライダー)好きには堪らない作品かと。一方で、「不確定な世界=私」という北野作品に一貫して見られる主題が展開されているのも興味深いところ。ネタばれになるので詳しく言えないのが残念だが、「特撮」が単なる意匠としてではなく、「不確定な世界=私」を表現する衣装として機能しているのが素晴らしい。(目黒)

『死にぞこないの青』(乙一 幻冬舎 2001)
 幻冬舎文庫。書き下ろしです。
 マサオは全校生徒が二百人程の小学校に通う5年生。マンガにゲーム、プラモデルが大好きで運動が苦手な男の子だ。サッカーが得意で快活な新卒の羽田先生は、マサオをスケープゴートにする。自分に対する不満をマサオに向けることで、学級を円滑に運営できるからだ。理不尽な扱いに疑問を抱き始めた頃、マサオの前に拘束服姿で、青色の肌を持った男の子が現れる…。
 ファミコンが子どもたちのツールとして登場していることから、時代は1980年代後半か。書評子が1978年生まれの作者に近い世代のせいか、ひどく懐かしい。ホラーではなく、児童文学としてお薦め(主観点が高いけど)。ついでに、「あとがき」の次の一文は作品のスタンスを明確に語っているので蛇足ながら引用しておきましょう。「僕は基本的に、語り手の年齢が低くてもあまり気にせず地の文ではさまざまな言葉を使用しています。それは、「言葉」そのものは幼いために知らなくても、その「言葉」が意味するものは名づけられないまま頭の中に収まっていて思考しているにちがいないと受け止めているからです」。乙一作品の魅力は、その語り口にあると思う。(目黒)

『ムシャノコウジガワさんの鼻と友情』(二宮由紀子:作 荒井良二:絵 偕成社 2001)
 絶好調二宮の、ナンセンス友情物語。 『鼻』を書いた芥川と、『友情』を書いた武者小路実篤がタイトルに埋め込まれているのは誰しもすぐに気づくでしょう。もう、そのタイトルからして、強引に笑わせようという作者の意図が浮かび上がります。
 ムシャノコウジガワさんは、とんでもなく鼻がでかい。どれくらいでかいかというと、重すぎて倒れたら、その鼻で地面に大きな穴ができてしまうほど。だもんで、そうなったら町の人みんなで彼を起こさないといけない。彼が倒れたら係りの人が鐘を鳴らし、町の人はどこにいたって駆けつけることになっている。
 もう、なんだかいきなり、とんでもない設定。無茶をします。
 ま、ここまでいきなり無茶をしておけば、あとはもうどんな無茶もOKってなわけです。
 いくらなんでも毎日何十回も駆けつけるのはシンドイと、ある人がつい言ってしまってから、物語は、ムシャノコウジガワさんとその鼻をどうするかで揉めること揉めること。
 良質のナンセンスってのは、そこに理屈(へりくつでもOK)がちゃーんと通っているのですが、もちろんこれもそう。
 鼻+ナンセンスというと、つい長新太を思い浮かべるのは私だけ?(ひこ)

『魔法使いの卵』(ダイアナ・ヘンドリー:作 田中薫子:訳 佐竹美保:絵 徳間書店 1998/2001)
 ぼくの両親は魔法使いで、だからぼくもやがては魔法使いになるわけで、そろそろそのための試験も近づいてきている。でも、ぼくらは普段魔法使いだってことは知られないようにしている。なのに、近づく試験に心が行ってしまって、学校でボーッとしているぼくに、学校は「お守り」を付けると行って来た。ぼくの勉強のためのサポーターね。あ、でもいつの側にいられたら、そんなの困る。だって、魔法試験のための練習ができない・・・。やってきたのはモニカ。なんかただの「お守り」とは違う感じ。秘密があるような、ぼくらの秘密を知っているような。
 ファンタジーというより、魔法使いを素材にしたユーモア小説。カルーク読めば楽しめます。(ひこ)

『預言の子 ラノッホ』(ディヴィット・クレメント・ディヴィーズ:作 多賀京子:訳 徳間書店 1999/2001)
 日本語訳で630ページの大作ファンタジー。シリーズ物ではありません。
 舞台はスコットランド。時代は遙か彼方。といっても、歴史以前ではなく、人間も登場します。バイキングによって、何度も征服された頃。
 アカシカたちの物語。
 『ジャングル大帝』と『ひげよさらば』と『ホビットの冒険』を混ぜて、シカ・ヴァージョンにしたような作品。
 という言い方は悪口でも皮肉でもありません。
 そうした先行作品が取り組もうとした様々なテーマたちを『預言の子 ラノッホ』は一つの物語に仕上げたのですから。
 ラス前の最後の戦い辺りはやや強引ですが、それも勢いで読ませてしまう力技があります。
 『ジャングル大帝』と『ひげよさらば』と『ホビットの冒険』を知らない子どもたちは、この作品で、「物語に夢中」を体験してくださいな。(ひこ)

『崖の国物語・深森をこえて』(ポール・スチュワート:作 クリス・リデル:絵 唐沢則幸:訳 ポプラ社 1998/2001)
 怒濤のごとく訳されてくるファンタジーの中の一冊。シリーズ物です。
 ウッドトロル族の中で育ったトウィッグ。しかし、彼は本当はウッドトロルではなく・・・。
 時が満ち、育ての親元を離れ、彼は危険な深森へと向かう。その先に自らの運命が待っているから。
 この物語は、濃密に世界が構築されているのが特徴。冷えると空に浮かぶ浮遊石、反対に熱を帯びると浮き上がる浮揚木、などの作者によって決められた世界の力学が物語全体を貫き、またそれが物語を動かしていきます。浮遊石の上に作られた神聖都市サンクタフラスクや。その石を原動力にする飛空挺など、お約束を受け入れれば、楽しい世界です。
 第一巻はとにかくトウィッグが深森の中、様々な危機から逃げまくるエピソード満載。いやー全編これ逃げまくりってのは珍しい。で、彼が逃げなければならない森の魔物や植物もまた、いちいちちゃんと構築されています。訳者あとがきによると、この物語は、リデルの絵を見て物語が進み、物語にそってまた新たな生き物が描かれるという、長編にしては珍しい、分と絵がほとんど共作レベルで競っているわけです。だから、生き物たちの濃いこと。ま、どこかで見たようなのも結構いるんですがね。
 こんだけ出して来て、この先いったいどうなるのやら、その期待が次作を待たせてしまいます。(ひこ)

『あかい花』(中脇初枝 青山出版 2001)
 全編初経を巡る短編集。
 様々な女の子と昔女の子だった語り手たちの様々な初経が出てくる。
 おもしろいのは、それが「女であることの繋がり」へと収斂していくのではなく、それぞれが個別にポツンポツンと置かれている点。
 彼女たちは、個別に生理との付き合いをし、それと自分との異和や内なる感情を言葉にして描き止める。
 そこはいいと思う。が、これらの女の子と元女の子たちの初経へのこだわりの意味が、イマイチ伝わってこないのはどうしてだろう? 私が男だからだろうか?
 生と体と心と気持と気分が融合した一点に向けて描くのか、パーツとして描くのか、それぞれの短編で、もう少し大胆に描き分けられてもいいのではないだろうか?
 「男」の私が読んで、目から鱗の初経がないのは、そこから来ていると思う。
 帯のキャッチ、「男には、わからない」は、ウリ文句として「わからない」ではないが、この短編集にとっては、マイナスに働いてしまう。もったいない。(ひこ)

『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(J.K.ローリングス:作 松岡佑子:訳 静山社 1999/2001)
 ハリーの3巻目です。
 洋の東西にかかわらず、ワープロ時代の創作は、シリーズが進むにつれ、ヴォリュウムを増してくるのですが、これもその一つ。次作は一作目の三倍とのこと。
 いくら長くても、おもしろい物語なら子どもは読む、という主張がこのシリーズでもなされていますが、それはなにもこれに限らず、昔からそうで、むしろ、長ければ長いほど、読書の満足感は大きくなるでしょう。
 さて、3巻目に至って、このシリーズの人気の理由が二つほど見えてきました(作品の魅力については、山ほどのサイトがありますし、批評も書かれていますから、パス)。
 一つは、小道具作りへのこり方。物語進展に重要な小道具はともかく、さして関係がないものも、作者は作り込んでいます。たとえば「バター・ビール」なんかですね。これはかなりオタッキィなノリです。ゲームのRPGでよくあることですが、その武器があろうとなかろうと、ストーリーはちゃんと進むのに、どうしても欲しくなる武器とかあるでしょう。集めたくなる。あれといっしょで、ここには様々なアイテム(小道具)がちりばめられています。
 二つ目は、ファンの人には怒られるのでしょうが、このシリーズ、ストーリー展開は上手ではありません。ベタです。毎度おなじみのハリーの家での苦労から始まって、魔法学校での学園生活が描かれ、そして最後に「ドンデンガエシ」的バトルがあって、ハリーは勝利を収める(次作用に、複線は残してありますが)。
 『フーテンの寅』や『水戸黄門』ですね。
 『フーテンの寅』だと、毎度おなじみの寅の夢から始まって、おきまりのマドンナとの関係が描かれ、最後はマドンナの意外な事実が明かされ、寅なまたフーテンの旅に出る。
 その意味で、このシリーズは『フーテンの寅』や『水戸黄門』のようにとても安全なのです。3巻目のテーマが裏切りであっても。(ひこ)

『肩胛骨は翼のなごり』(ディヴィット・アーモンド:作 山田順子:訳 東京創元社 1998/2001)
 コテコテの癒し系といえば、そのとうりです。
 ですから、その時点でヤな方は、読む必要はありません。
 が、この物語、癒し系ですが、そのために使っている「マジックリアリズム」はいいんですよ。
 「マジックリアリズム」とは、フツーの日常では起こりえないと私たちが思ってしまっていることが起こるのを、なんの理由付けも、いいわけもせず、堂々と描く手法(かなりすっとばした、説明です)。ここではそれは、翼を持った男という形で使っています。
 引越してきた「ぼく」。彼の家族の今の気がかりは、生まれたばかりの妹。心臓病で入退院をくりかえしています。その小さな命への愛おしさ。
 あるひ「ぼく」は壊れかけている物置小屋で彼を発見します。体は衰え、悪臭を放つ彼。吐きそうになったとき背中に触れたら、肩胛骨ではなく、なにかがあります。ひょっとした?
 「ぼく」は親に隠して、彼に食事を運ぶのですが、彼はちっとも小屋を出たがらない。友人となった隣の女の子とやっと、彼を彼女の隠れ小屋(祖父からの遺産で、18歳になったら相続できるアパート)へ移動する。服を脱いだかれの背中には翼が・・・。
 一方「ぼく」の大切な妹はいよいよ心臓の手術をすることに。
 マジックリアリズムによってしか描くことのできない世界。堪能できますし、心が柔らかくなります(ひこ)

【評論他】
『児童文学最終講義・しあわせな大詰めを求めて』(猪熊葉子 すえもりブックス 2001)
 私もお世話になった多くの児童文学を日本語に直してくれた、猪熊の白百合退官にあたっての最終講義を(もちろんその後手は入っているが)一本にしたのが本書。
 子どもの本のことというより、自分の中の子ども心に関して、かなり率直に吐露されている。歌人であった母親との葛藤。母と子の関係をうまく結べないままだった故に、猪熊の中の子どもは宙づりのまま生き残ったのだ。しかし、そうしたことを最終講義の中で話せるという意味において、猪熊の中の子どもはあいまいなままでなく、今は輪郭を持って存在しているのだろう。この辺りの母と娘の「物語」は、児童文学に興味はなくても、読むに価値はある。
 また、若い研究者に向けて、刺激的な書物をいくつか挙げ、挑発している様は、猪熊がまだまだ現役として、この世界で生きていく宣言ともいえる。
 またそうでないと困る。(ひこ)