No.48  2001.12.25日号

       
【絵本】
『くつがあったらなににする?』(ビアトリス・シェンク・ドゥ・レニエ:ぶん モーリス・センダック:絵 いしずちひろ:訳 福音館 1955/2001)
 くつから始まって、いす、そうしてベッドまで、様々な使い方をして遊ぶ男の子と女の子。
 言葉のリズムとセンダックの画がページを繰らせて行きます。
 ラストはもちろんお決まりどうりです。
 でも、このお決まりどうりを心地よく描けるかというと、ほんとうはとても難しい。
 これはOK。
 でも、センダックの画、今はさすがにちょい、古いかな?(ひこ)

『しんぱい しんぱい ウェンベリー』(ケビン・ヘンクス:作 いしいむつみ:訳 BL出版 2000/2001)
 心配性のウェンベリーちゃん。もう、心配のタネをみつけるのが趣味みたいな心配性。
 なのに、ようちえんに入園で・・・・。
 この心配性がなくなるまでが描かれます。
 不安って、何歳でもあるけれど、たとえば大人なら、その不安がどこから来ているかとか、何が遠因かなんてことわかったりするのですが、ちっちゃな子はそういうスキルがないので、もう、心配モード全開になります。でもそれが、フツーなんだってわかれば、少しは心配も薄れるかも。
 これを読むことで(読んでもらうことで)、そうなればいいんですよね。(ひこ)

『森はどこにあるの?』(バン チハル:作 くもん出版 2001)
 「サバー西アフリカの人達を支援する会」(NGO)の企画絵本。「収益は熱帯雨林の再活動」に使われます。
 ムサが暮らす村。大好きなマンゴの木たち。でも、木材にすればお金になるので、次々と切り倒される。
 森をめざすムサ。でも、行っても行っても森はない。
 動物たちt種を植えることに・・・。
 メッセージに絵本が使われることは、OKと、以前書きましたが、しかし、その難しさも大きいです。
 今作は、動物と使うことで、ポイントがぼやけてしまった気がします。使わずに同じメッセージを送るパターンもあると思うのですが・・・。この絵本を読むのは、キリンもゴリラも動物園でしか知らない子どもたちです。そこに野生の動物を擬人化して持ち込むのはどうでしょうか? 子どもたちは動物園のそれとして、野生の動物をイメージしてしまわないか? せっかくの企画なのですから、そこをもっと詰めて欲しかった。(ひこ)

『クリスマスはきみといっしょ・トゥートとパドル』(ホリー・ホビー:作 二宮由紀子:訳 BL出版 2001/2001)
 自作でも絶好調が止まらない二宮による翻訳、トゥートとパドルのシリーズ最新作。
 時期物です(っても、今日は25日ですから遅いですね。すみません)。
 これはもう、トゥートとパドルの友情をおいしくいただく絵本ですから、今回も、ごちそうになりましょう。
 イブ前にトゥートはスコットランドのペグおばあちゃんの家に。そこでおばあちゃんがずっとおまもりにしていた、しあわせのくるみの実をもらいます。
 さあ、トゥート。移送でボストンまで帰らないと。
 一方パドルはトゥートが帰るのを今か今かと待っています。
 でも大雪。
 果たしてトゥートは間に合うのか?
 約束された温もりに満ちた一作です。(ひこ)

『王女さまは4時に おみえになる・ある愛のお話』(ヴォルフディートリヒ・シュヌレ:文 ロートラウト・ズザンネ・ベルナー:絵 ひらのきょうこ:訳 偕成社 2000/2001)
 これは、副題の方がテーマで、本題は設定説明、というおもしろい日本語のタイトルです。
 ドイツの絵本。
 主人公の男の子、動物園にでかけ、いろんな動物を見、そうしてハイエナの檻に。と、ハイエナは自分は実は王女で、誰かがお茶に招いてくれたら、元の姿に戻るといいます。
 だもんで男の子はハイエナを家に招待し、ごちそうするのですが・・・。
 画がいいです。綺麗でも巧いでもなく、そんなことに力を注ぐより、ハイエナの表情をいかに描くかに絵描きは気を配っています。
 オチは書けませんが、確かに「ある愛のお話」です。(ひこ)

『ちいさな おんどり』(ウィルとニコラス:作 はるみこうへい:訳 童話館出版 1960/2001)
 生まれつき小さな小さなおんどり。仲間からはからかわれ疎まれますが、彼には他の動物と仲良しになる才能がある。が、やっぱり、にわとりの仲間が欲しい。
 キツネに襲われないように夜中に見張りをたてることに。ちいさなおんどりは問題外。でも、ちいさいなりにできることはある! 
 40年前の、かなり画もシンプルな絵本ですが、赤をとても効果的に使っていて、それが勢いになってます。(ひこ)

『トリフのクリスマス』(アンナ・カリー:作 松波史子:訳 くもん出版 2000/2001)
 はい、これも時期物です。
 サンタさんへのクルスマスプレゼントのお願いをネズミの子たちはそれぞれ書きます。トリフはフラフープ。
 イヴの夜。一枚の毛布で眠る兄弟たち。でも小さすぎます。誰かの足が出てします。
 そこでトリフ、サンタさんを待って、願いを毛布に変えてもらおうとするのですが、待てどもこない。そこで、探しに出かけます。
 この作品、読み聞かせを意識して、訳文を何度も子どもたちに聞いてもらって、その反応で、また推敲をくりかえしたそうです。そのせいでしょうか、わかりやすいけれど、読む側にひっかかってくる文章ではありません、
 読み聞かせにおいて絵本はあくまで。反応を引き出しやすい素材であるということになるかな。
 このあたり微妙です。
 画は、シンプルでなじみやすいものです。サンタの絵だけがリアルで、ちょっとアンバランス。(ひこ)

『ふたりのあか毛』(ウィルさく ニコラスさく はるみ こうへいやく 童話館出版 2001)
 一人は赤毛の男の子、一匹は赤毛の野良猫。
 どちらが好きなのも、魚。
 だからお互い好きじゃない。
 だって、男の子は飼っている金魚をすきで、猫はそれを食べたいのだから。
 というところから、この両者それぞれの物語がクロスしていき、最後には仲良くなる。
 もちろん画の色調は赤で、勢いがある。
 物語はテンポよく、都会の下町があふれたリズム。
 オチまで一気に進みます。(ひこ)

【創作】
『ムシャノコウジガワさんの鼻と友情』(二宮由紀子作、新井良二絵/偕成社 2001)
 『鼻』といえば芥川龍之介、『友情』は武者小路実篤。いずれも近代文学の名作だけれども、小さい子どもたちに、そんなことはどうでもよい。でも、教科書か何かで、それらの作品に出合ったとき、この本の主人公の名前、ムシャノコウジガワさんを思いだして、笑い転げるだろう。
 なにしろムシャノコウジガワさんの鼻ときたら、あまりに大きくて重すぎるので、一歩ずつ歩くたびに、前の地面にめりこんで大きな穴があいてしまうのだ。しかもその鼻をやっと持ち上げて、次の一歩を踏み出そうとすると、足元にあいている大きな穴に落ちてしまい、自力ではい上がることができない。

 町の人たちは、そんなときに「ムシャノコウジガワさんの鐘」を鳴らして全員が集まり、彼を引き上げるのだ。そのための、鐘当番も回り番で決められる。

 町の人たちは、そんなムシャノコウジガワさんを、歩かないようにしたらどうかとか、大きな鼻をハサミで切り落としたらとか論争するが、町中の人々の投票により、体操の授業を受けて腕力をつけ、自力で穴からはい上がれるようにすることが決まる。

 ムシャノコウジガワさんと彼の鼻の穴で寝起きする体育の先生との、奇妙な授業が始まる。

 徹頭徹尾ナンセンスで、日常感覚を反転させる作品の強烈なインパクトに、子どもたちは大喜びするだろう。(野上暁)
産経新聞2001.12.18

『ネクストエイジ』(野島けんじ:作 尾崎弘宜:イラスト 角川書店 2001)
 スニーカー文庫。第五回角川学園小説大賞優秀作。
 42名の少年少女が教室で一斉に目覚める。すべての記憶を喪った状態で。目的すら告げられないまま、基礎体力から戦闘技術にいたるハードなプログラムが強制されることに。課題は必ず男女のペアで取り組むことになっており、このペアは最初から決められていた。いずれの課題においても、男が行動、女が指示するという役割分担は一貫している。期間は1ヶ月、最後の2組にまで勝ち残らなければ記憶は返してもらえない。逆らえば消去、課題をクリアできなくても消去される極限状況のなか、42名の生徒たちは記憶を取り戻すために行動を開始する。
 設定から高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版)を想起するかも知れないけど(帯に「超絶の新世代バトルロワイアル誕生!」ってあるしね)、『バトル・ロワイアル』とは別物として読むのが正解。ネタばれになるので言えないけど、「拉致」される理由が両者では正反対だから。むしろ設定で指摘しておきたいのは、男女のペア。ただし、この設定は両義的なので(「男をサポートする女」/「女の指示通りに動く男」)、一概に性差別的だとは言えない。書評子が気にしているのは、ペアの役割分担が性差に対応していることではなく、そのペアが当然のようにヘテロ(異性の組み合わせ)として設定されているところ。なぜホモ(同性の組み合わせ)では駄目なのか。学園モノとして、かなり読ませる作品だけに惜しい。(目黒)

『Dear My Ghost幽霊は行方不明』(矢崎存美:作 白亜右月:イラスト 角川書店 2001)
 スニーカー文庫。「ぶたぶた」シリーズ(徳間デュアル文庫)の作者によるミステリ。
 咲子は自称「霊感探偵」。高校生の弟・真人に友人の和服刑事・金山をお供に、占い結果の現場を訪れる。そこで、探していた人間ではない、別の人物の死体を発見することに。姉とは違い、本当に霊を視ることができる真人は、常人では気づくことができない異変を発見する。変死体には必ずといってよいほど当人の幽霊が留まっているはずなのに、その現場には死体の持ち主である幽霊が居なかったのである。真人は、守護霊のように幼い頃から自分に付き添っている女の子の幽霊・美海の協力を得て、行方不明の幽霊探しに乗り出すことに。
 霊視が万能でないところが良いかと。最後まで読んでもらえば判ることだが、事件解決に対する貢献度だけで言えば、意図せざる的中率(狙った的には絶対中らないが、隣の的に中るということ)を誇る咲子の占いに軍配が上がるだろう。霊視は事件解決の手段ではなく、事件を幽霊の側から語るための仕掛けなのですね。ちなみに、「ぶたぶた」シリーズの最新刊『クリスマスのぶたぶた』(徳間書店)も発売されました。徳間デュアル文庫ではなく、単行本です。児童書の棚に置いてあったので吃驚。(目黒)

『大地のささやき―「花の探偵」綾杉咲哉―』(七穂美也子:作 凱王安也子:イラスト 集英社 2001)
 コバルト文庫。
 中学3年生の俊は、父親の再婚の結婚式場で、見知らぬ女性から祝福の花束を渡される。不思議なことに、俊が花束を受け取ろうとした瞬間、花束が枯れてしまう。その女性から、式場近くの湖にまつわる伝説―許婚と結ばれずに身投げした女性の霊が結婚式に現れる―を知らされる。俊から一連の出来事を聞き、その女性に近づかない方がいいと忠告する咲哉。しかし、花束が枯れたことを気にした俊は、件の女性を探しに出かける。
 ポイントは2つ。1つは、咲哉と俊の美少年義兄弟の微妙な関係。物語の最初から、あまりに俊が咲哉にご執心なために、興醒めなところも。ただし、関係の深化がもはや中心のテーマにはならない現代の状況を考えれば、上のような読み方はズレているのかも知れない。ちなみに、ボーイズラブのような過激なシーンはありません。あしからず。もう1つは、「花の探偵」という設定。咲哉がホームズ、俊がワトソンという役割分担は問題ない。ただ、本巻だけでは判断できないが、どうも咲哉には人間離れしたところがあり、その部分が事件解決に関わっているので、ミステリとしてはアンフェアなところも。ミステリとしてではなく、「花の探偵」という濃い世界観を楽しむのが正解かと。(目黒)

『卵と小麦粉それからマドレーヌ』(石井睦美作、長新太絵/BL出版 2001)
 大人は、だれもが子ども時代を体験してきたのに、過ぎ去ってしまうと、あの何ともいえない、不安定で移ろいやすいデリケートな感覚を蘇らせることは難しい。そこに、大人と子どもとの微妙なズレが生まれ、子どもたちを生きにくくもしている。
 この作者には、卵と小麦粉がマドレーヌに変身するように、大人も子どもも同じように悩み考え、同じように変わっていくものだという確信めいたものがある。それが作品に編み込まれ、同時代を生きている大人と子どもの姿を、同等に、しなやかに見据えていて、心地よく読み手の心を刺激する。

 菜穂が中学生になった翌日、前の席にいた子が、「自分がもう子どもじゃないって思ったのは何時だった」と、突然聞いてきた。嫌なヤツと思ったが、川田亜矢というその子の言葉が、呪文のように心に響き、二人は次第に心を許しあう友人に変わっていく。

 菜穂の十三歳の誕生日に、ママが突然パリに留学すると宣言する。大好きなママに棄てられた気分になって落ち込む菜穂を元気付けたのは、亜矢の小学生時代のエピソードだった。父は他の女の人と家を出て、家庭は混乱し、おまけに亜矢は学校でいじめられる。悲惨を克服した彼女の決意が、困惑する菜穂を変えていく。大人の入り口に立った少女たちの、戸惑いや悩みを鮮やかに映し出し、あまやかな子どもの時間との別れを爽やかに描いた好作品だ。
産経新聞2001.11.20(野上暁)

『インストール』(綿矢りさ:作 河出書房新社 2001)
 17歳の文芸賞受賞という話題が先行していますが、17歳が17歳を描けたという意味では、これはなかなかの出来事です。出だしが少しモタモタで、いかにも小説しようとの思いが目立ちますが、設定が確定し物語が進み始めると、快調に。
 なんだか高校生にうんざりしてしまった「私」は学校に行くのをやめます。まずやることは部屋を整理すること。それも総てを捨てる潔さで。おじいちゃんに買ってもらった(大阪にいるので、孫とメールで話そうと思った)パソコンは少し迷いますが、壊れているので捨てることに。ゴミ置き場に山となった自分の持ち物たち。ぼんやりしていると小学生が現れ、パソコンを持って帰るという。壊れているというも、直すという。思いパソコンを自転車に乗せてあげて別れる。ひょんなことから、同じ団地に住む彼を再開し、一緒にバイトをして欲しいと頼まれる。それは、人妻に扮してチャットで男の相手をするものだった。
 小学生の彼は下校してから人妻をやるけど、昼間を登校拒否の「私」が担当するの。
 こうして、デジタル世界での架空の人物を演じるリアルと、それを共謀する小学生との現実のリアルが描かれていく。
 現代の風景(そこには「女子高校生」ももちろん含まれる)を17歳が切り取ると、こういう物語となります。(ひこ)

『虚空の旅人』(上橋菜穂子 偕成社 2001)
 『守り人』シリーズ番外編。
 新ヨゴ皇国の皇太子チャグムのその後です。
 南の同盟国サンガル王国の新しい王の即位式に招かれたチャガム。そこに待っていたのは、タルシュ帝国によるサンガル制圧の陰謀だった。他国の事情に一国の皇太子が首を突っ込むのはまずい。が、チャガムはたった一人の少女の命を救うため、あえてそこに巻き込まれていく。
 政治のための政治ができる治世者になどなりたくない。一人一人の命を愛おしむ人間になりたい。というチャガムの心が丹念に描かれていきます。
 とても安定している『守り人』シリーズのノリは番外編でももちろん健在です、そしてなにより、チャガムの意志力の美しさに注目。
 「陰謀」が素材だからか、個々人のセリフの多くが理屈と論理で占められているのが、チト気にかかりますが。(ひこ)

『ぼくはあの戦争を忘れない』(ジャン・ルイ・ベッソン:文・絵 加藤恭子・平野加代子:訳 講談社 1995/2001)
 ナチスが政権を握り、パリが陥落し、やがて、アメリカ兵がやってくるまでの6年の日々を、少年の目で描いています。自伝作品。
 戦争によってとんでもない傷を負ったわけでもないし、そんなに苦労をしたわけでもありません。
 しかしそこには確実に戦争の時間が流れています。ユダヤの友人達は消えて行くし、配給チケットを偽造したり、ナチスにすり寄る教師がいたり。
 過酷でなくても流れている戦争の時間をユーモアを含みつつ冷静に描くことで、戦争の顔が見えてきます。(ひこ)

『屋根にのぼって』(オードリー・コルビンス 代田亜香子:訳 白水社 1999/2001)
 「わたし」(ウィラ)が、妹を一緒に屋根ののぼる。
 屋根にのぼる子どもたち。それは、「家」と「自由」の狭間に身を置くこと。不安定な屋根の上とは、まさにその身の置き所の不安定さに違いありません。しかし一方それは、家の外の自由さでもあります。
 弟が亡くなったため口が利けなくなった妹。母親はなにをやる気も起こらず、生活はあれ放題。見かねた叔母が、子どもたちを強引に自分の家に連れて帰り、面倒を見ることに。
 そんなことはしてほしくない。私は母と一緒にいたい。なのにこの叔母のしつけの厳しいこと。
 そうしてとうとう、屋根ののぼってしまった私から物語はスタート。これ間での経緯を介そうしつつ自分は何故屋根に上りたかったのだろうと自問する彼女。妹までがついてきて上ってしまった。
 あぶないと下からどなる叔母。近所の目も・・・。
 本当に降りることができるまで、物語はとても丹念に主人公の気持ちを追っています。
 もちろん最後はすてきな締めが。(ひこ)

『ゆきだるまのマール』(二宮由紀子:作 渡辺洋二:絵 ポプラ社 2001)
 絶好調の二宮由紀子の最新作。「おとうさんみたいに、はやく、ちいさく、なりたいな・・・・!」。そうなんです、雪だるまは溶けて小さくなるほど年齢(?)がいっているのですから、子どものゆきだるまは早く小さくなりたい。
 たったそれだけの発想ですが、そのたったそれだけの発想に気づくのがどれ程、難しいことか。
 マールくん、大人になるため大奮闘。さて、小さくなれますかどうか。(ひこ)

『クリストファーの魔法の旅』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ:作 田中薫子:訳 佐竹美保:絵 徳間書店 1988/2001)
 『魔法使いはだれだ』に続くクレストマンシーシリーズ第2弾。といっても発行順だと、最後の第4巻で、物語の時系列だと。一番最初。クリストファーが大魔法使いクレストマンシーになるまえの子ども時代のお話。魔法世界にいるのに、ちっとも魔法が使えないクリストファー。でも夢の中では別世界にいける能力がある。この世界は12のパラレルワールドからなっていて、そこを行き来できるのだ。それを知った伯父である魔法使いは彼にある仕事を頼む。悪に手を染めているとはしらないクリストファー。一方、魔法が使えないことを心配した父がポーソン博士に観てもらうとなんと、クリストファーは9つの命を持つ、将来大魔法使いになる運命を持った少年だった!
 で、小気味よく、話は進んでいきますが、まあ、この少年、うかつの限りをつくして、9つの命をどんどん無くしていくのよねー。読んでいて、「おまえは、アホか」となんどもつっこみを入れてしまいました。ま。そこがおもしろいのですが。
 テンポある物語です。(ひこ)

『涯の国物語2・嵐を追う者たち』(ポール・スチュワート:作 クリス・リデル:画 唐沢則幸:訳 ポプラ社 1999/2001)
 第一作、主人公が逃げまくってナンボみたいなノリで、どーなるんやろう?と心配でしたが、今作で物語が動き始めました。前回のべましたように、これはもう世界観が出来てしまっているので、それを受け入れれば、かなり安心して楽しめます。逃げまっくっていたトウィッグが今回は失敗のしどうしで、父親であった空挺の船長を失って(ひょっとしたら死んでないかも)、ついに船長になる。ど、どうする?
 ここから、いよいよ、涯の国の構造が明確になってくる。
 クリス・リデルの画がとてもいい。でもこの作風、絶対、日本のコミックから学んでいますよ。コミックに詳しい方は、ぜひ書店で確かめてくださいな。それだけでも買いです。(ひこ)

『サイテーなあいつ』(花形みつる:作 垂石眞子:画 講談社 1999)
 げ! 傑作を読みのがしていました!
 クラス中がサイテーなやつだと思っているソメヤの隣の席になってしまったカオル。なんてついてないこと。いくじがなく、ツバ攻撃をしかけてくるよーなソメヤはクラスのバイキンで、みんなイジメやハジキをしている。そうされてもしょーがないようなやつなんだソメヤは。と、カオルも思っている。
 もちろん物語は、そんなイジメはいけませんなんて方向には進まない。
 ソメヤになつかれたおかげで、カオルはではじかれてしまう。しょーがないソメヤだけど、そのしょーがなさが武器となる。バスケでは、ボールを持っているソメヤに誰も近づけない。だって、ソメヤは汚い、触るとビョーキになるとはじいたのは彼らだから。そうしてソメヤはガードを突破しカオルにボールを渡せば楽勝だ。
 ソメヤがサイテーなのをそのまんま受け止めるカオル自身が抱えている痛みもとらえながら、物語はカオルとソメヤのタッグをおかしく愛おしく描く。
 あとがきはちょっといらないと思うけどね。(ひこ)

『ぼく、ママのおなかにいたいの・・・』(ジュゼッペ・ペデリアーニ:作 関口英子:訳 くもん出版 1996/2001)
 邦題からしてもう、なんだか濃いですね。
 もちろん中身も濃いです。
 もうとっくに産み月を過ぎているのに、生まれてこないあかんぼう。発明家が創ったマタニティ電話で彼の声が聞こえるように。おなかにいる内に、外の世界のことを色々知ったあかんぼうは、その生まれてきたくない理由を次々述べます。悲惨な状況の子どもたちのことなどを。
 生まれてきたら姉になるフランチェスカは、それでも生まれてくる価値があると説得します。「赤ん坊は生まれてくる義務があるの」。
 設定からして、これは寓話。現代の問題を、マジックを使って描いています。
 おなかからでてこないあかんぼうって発想はすごいなー。
 私なら思いついたとたん、逃げ出します。(ひこ)

『スターガール』(ジェリー・スピネッリ:作 千葉茂樹:訳 理論社 2000/2001)
 ぼく(レオ)はヤマアラシが描かれたおじさんのネクタイが大好きだった。引越しするとき、おじさんはそれをプレゼントしてくれた! 14才の誕生日、地方紙にぼくがヤマアラシ柄のネクタイを集めていることが載る。子どもの誕生日コーナーにかあさんが投稿したのだ。何日かして、玄関にぼくへのプレゼント。ヤマアラシ柄のネクタイ! いったい誰が?
 プロローグだけでもう、ドキドキさせられる。見知らぬレオにそんなプレゼントをしてくれる人物とは? その名はスターガール。もちろん本人がつけたもの。転校生の彼女は、ランチルームでいきなりウクレレ取り出して歌い出す子。「あの子はニセ者よ」。そう、そんな感じがする。レオも思う。「彼女のなにもかもがうそくさかった。(中略)頬にはリンゴのように赤い頬紅をつけ、わざわざ書きこんだらしい大型のそばかすまでついていた。そう、これはアルプスの少女なんだ」。彼女は、誕生日の生徒の前でハッピー・バースデーと歌う。それもちゃんとフル・ネームで。何者だ? レオの友人ケビンは言う。「もし彼女が本物だとしたら、とんでもない話だぞ。あんなこと、もし本気でやっているんだとしたら、まともな人間がいつまで耐えられると思うか?」。レオの結論もこうだ。「だって、こんな人間、いるわけがない」。ここまでが最初のたった十八ページ目。そしてそこから物語はスターガールがいることを描いていく。つまりレオや私たちの持つ価値観や基準が揺るがされていく。スターガールは既製の何かに分類できない。私たちとは別の人間のようでいて、けれど、本来の私たち、失った私たちの姿のようでもある。スターガールに敵味方はなく、誰かの喜びを共にする。そんな彼女だから、最初は一気に人気者になるが、すぐに排除されてしまう。彼女がチア・リーダーになったとたん、学校のフットボール部は連勝と続けて行く。が、スターガールは、敵方の選手をも応援するのだ・・・。彼女へのシカトが始まる。
 レオはスターガールをハイジになぞらえたが、やはり彼女はハイジではない。そんな女の子が物語の中であっても存在することは今はほとんど不可能なのだ。だから作者はスターガールを転校生として登場させ、転校生として退場させる。ほんの一時ならスターガールは存在することができる。いや違う。ほんの一時しかスターガールの存在を私たちは許さない。彼女をニセ者のようにしてしか存在させられない私たちが、実はここでは描かれている。でも、読み終えた時、心の中でスターガールが生まれてくる。(ひこ)
ぱろる掲載12号 2001.12

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『トリツカレ男』(いしいしんじ ビリケン出版 2001)
 作者は、前作『ぶらんこ乗り』(理論社 2000)で、たった一言、「大丈夫だよ」を読者に届けるために、話せないのではなくとんでもない声になってしまったから話さず、物語を書き続ける天才の弟、彼が書いた様々な小品、そして、片腹がはげその無毛の肌を伝言板に使われる犬といった風に、かなりアクロバテックな設定と素材を繰り出してみせた。「ナゼニソコマデ」と思うが、それは「大丈夫だよ」にたどり着くにはそれだけの設定が必要なんだと作者が思っており、同時にそれを伝えようとしていたからだろう。なにしろ作者は、シーラカンスを釣って喰いたいとの欲望のまま、はるかコモロ島まで出かけるやつなのだ(『シーラカンス』金の星社 1997)。それがフツーなのだ。けれど、考えてみたら、魚を喰いたいと釣りに出かけるのはきわめて真っ当だし、本当の「大丈夫だよ」は、簡単にいえることではないことも事実。だから、作者が描く道筋をヘンだとは思わず、とりあえず付いていくのが吉。
 今作では、幸せの在処を探すなんて、今時やるのにはそうとう勇気がいることを試みている。
 ジュゼッペはトリツカレ男。いつも何かにとりつかれている。オペラの時は勤め先のレストランで歌いながらサービスをしてしまい、一時クビに。そのとりつかれ方は半端ではなく、次にとりつかれた三段跳びでは、世界記録を軽く更新。でも公式競技直前に、今度は探偵にとりつかれ、欠場してしまう始末。もちろんその探偵稼業では世界を股にかけ大活躍したもよう。といった風に物語は、自身がリアリズムから遠いものであることを、はなから宣言している。そして、物語の主題となる「とりつかれ」が何かといえば「恋」。公園の風船売りのペチカ。異国からやってきた彼女にとりつかれたジュゼッペ。でも、ペチカのすてきな笑顔にはどこか陰りがある。彼女が本当の笑顔を取り戻すまで奔走するジュゼッペ。そうしてわかったのは、彼女にはふるさとに恋人タタンがいて、彼の名を毎日呼んでいること。さっそく昔の探偵仲間たちに調査を依頼すると、タタンはすでに亡い。ペチカの笑顔のためにジュゼッペはタタンになりきることにとりつかれるのだけれど・・・。
 ???、でも「恋」は元々トリツカレてナンボの現象ではなかったろうか。が、作者は、オペラや三段跳びへのトリツカレを前に振ることで、「恋」の「恋」たる特権を剥奪してしまう。様々な「トリツカレ」とフラットに置き直す。
 それは、ずっと昔、「愛想なしの君が笑った そんな単純な事で 遂に肝心な物が何かって気付く」(『シーソーゲーム・勇敢な恋の歌』)とMr.Children・桜井和寿は歌ったけれど、「そんな単純な事」にたどり着くことの困難さを書き留めるためなんやね。
 声から姿形までしだいにタタンになっていく、ジュゼッペ。そのトリツカレは、ジュゼッペの恋の成就を遠ざけてしまうのに、「不気味なくらい僕は今恋に落ちてく」。
 幸せの在処を探す「勇敢な恋の」物語。(ひこ)
読書人2001.11.30
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ホビットの冒険(J・R・R・トールキン:作 瀬田貞二:訳 岩波書店)

 ホビット小人のビルボ・バキンズは、気持ちのいい我が家でのんびりと暮らす生活に満足していました。そこに十三人のドワーフ小人と魔法使いガンダルフが現れ、竜に盗まれた財宝を取り戻せたら、十四分の一を貰う約束で冒険に加わることに。本当は行きたくないのですが、母方トック家の先祖の一人が妖精族と結婚した故か、冒険好きの血が騒ぎました。足の裏に毛が生えているから音を立てずに歩くことができるので、忍者の役回りです。ゴブリンに捕まった仲間を脱出させ、姿を消すことのできる指輪を使ってゴクリから逃げ出したり、竜の宝物を奪ってくる。ビルボの活躍はいかにも忍者らしく、華々しさはありません。たいていの危機にはガンダルフが駆けつけますし、竜を倒すのはエルフのバルトであり、五軍の戦いでゴブリンをやっつけるのは大クマに変身したビヨルンや大鷲の一群です。
 冒険を終え、ガンダルフは言います。「あんたは、どこかえらく変わったなあ! もうむかしのホビットじゃないわい!」。が、故郷で彼は評判を失ってしまいます。冒険なんぞはホビット族の良識のある大人がすることではないからですね。けれど、彼は気にしていません。冒険の方が「まともな評判」よりずっと価値があるとばかりに。これは大人であるビルボの中にある子ども心ともいえます。子どもが好奇心旺盛に、大人から見れば無駄であったり、危険であったりする行動を起こす様を作者はビルボに投影しているともいえるでしょう。もしこれが小人ではなく子どもを主人公にしたものであれば、シンプルな冒険成長物語となったかもしれません。その場合帰還した彼はほめられこそすれ疎外されることはなかったでしょう。しかしそれではどこか胡散臭さが残ります。なぜ大人は冒険をしないのか? 子どもだからそれは許されているのか? 冒険をするのはまだ子どもだからなのか? と。大人のビルボを主人公にすることで物語は、多くの大人の本心と、冒険の価値を共に描けたのです。しかし「大人-子ども」の関係を興味深い視点で描いたこの物語は、主だった登場人物がすべて男であるという異様な物語でもあります。冒険そのものの素晴らしさを描いたはずなのに、物語はそれをビルボが記録するというエピソードを付け加えています。これは自分の冒険を、歴史に残したいとの「男」の欲望です。
 これまでの多くの歴史書(世界史から文学史まで)は男によって書かれ、ほとんど男しか描かれてきませんでした。その点では、この男しか描かれない物語が歴史として書き留められることは不思議ではありませんし、資格は十分。彼(ビルボ)の物語。His storyはHistoryとなるのですね。(ひこ)徳間子どもの本だより2001.12 

【評論】
『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(東浩紀 講談社 2001)
 講談社現代新書。
 オタクとポストモダンのセットから現代日本を分析する試みは決して新しいものではない。本書で指摘されているように、作品のメッセージではなく、その「趣向」を楽しむオタクの態度が江戸時代の「粋」にきわめて近いことから、オタクを日本の伝統文化の継承者だとした岡田斗司夫『オタク学入門』(大田出版)が有名か。「内容」(主義)ではなく、「趣向」(世界観)を原理とした行動様式を、ポスト・モダンの特徴として理解してもらえばよい。
 しかし、本書によれば、ポストモダンの起源は近代以前の日本にではなく、戦後に輸入されたアメリカ文化にある。ポストモダンとは、アメリカ文化の国産化の結果なのだと言う。たとえば、日本のアニメの特徴はリミテッド・アニメという手法にある。フル・アニメを原理としたディスニーとは対照的に、リミテッド・アニメは単位時間当たりの動画の枚数が少ない。したがって、前者は後者に比べて現実の動きの再現度が高く、後者は前者に比してデフォルメが顕在する。にもかかわらず、日本においてはアメリカとは対照的に、リミテッド・アニメが洗練され、その結果、世界市場を形成するまでに成長した。オタク文化=日本伝統文化論の立場からすれば、フル・アニメ(写実主義)ではなく、リミテッド・アニメ(虚構主義)が日本社会において成功を収めたのは、オタク文化が「箱庭」(虚構)に「自然」(現実)を見立てる伝統文化を継承しているからに他ならない。しかし、リミテッド・アニメが採用されたのは、予算と時間の制約からフル・アニメが実現できない劣悪な制作環境に起因していたことは本書が指摘している通りである。
本書がアメリカ文化の輸入に着目するのは、戦後の日本社会がアメリカ化しているということ以上に、アメリカ文化が大量消費を前提に形成されたものであったからである。消費社会においては、消費者は商品の価値ではなく、商品が置かれたコンテクストを消費する(ビックリマン・シールを想起せよ)。さらに、コンピュータの進化ならびに普及は、データベースを個人レヴェルで構築・運営できる環境を用意した点において、先のような消費行動を個人化したと言う。ただし、ここに言うデータベースは、物語の集積ではなく、物語の前提である設定情報の集積として理解されたい。データベースにおいて情報は作品の形ではなく、設定単位に還元されるので、原作と二次創作(パロディなど)の序列は消滅する。したがって、現在の二次創作は、作家(オリジナル)を模倣するというよりは、データベースを読み込むレヴェルにおいて発動していると言える。用語の起源は本書に譲るが、他者の欲望を欲望するのが「人間」で、そのような他者を媒介せずに欠乏と充足が直結しているのが「動物」であるとすれば、データベースを読み込む二次創作は「人間的」ではないということになると言う。
説明が長くなってしまったが、文化論に傾斜したオタク論が往々にして日本文化論のような本質主義に陥りがちな状況にあって、本書は消費行動を軸にオタクを分析しているので説得力がある。データベース読み込み型読者向けの児童書が少ないというのが書評子の実感なので、現状把握のためにも業界人にこそ読んで欲しい一冊。(目黒)

『21世紀文学の創造7 男女という制度』(斎藤美奈子編 岩波書店 2001)
 本書の目的は、「学問の領域に閉じこめられつつあるジェンダー批評を、より広範な読者(略)と共有する回路を探すこと」にあると言う(斎藤美奈子「性と批評が出会うとき」)。とりあえず、本書に収録されている各論のタイトルならびに著者名を挙げておこう。
川上弘美「「あたし」という恋愛的体質論」・大塚ひかり「文学は美醜をどう描いてきたか」・佐々木由香「「ネカマ」のすすめ 私がだました男たち」・藤野千夜「日本語とセクシュアリティ」・小倉千加子「戦後日本と「赤毛のアン」」・小野俊太郎「ジャンル小説の文法 ハードボイルドをめぐって」・横川寿美子「ポスト「少女小説」の現在 女の子は男の子に何を求めているか」・ひこ・田中「冒険物語の中の男の子たち」・金井景子「ジェンダー・フリー教材を探しに」。
個人的には、「近代文学研究」を意図的に排除し、その替わりにサブカルチャー系の論考を数多く収録しているところを評価したい。マンガ(とりわけ少女マンガ)が市民権を得て久しいが、マンガの付属品のような扱いを受けてきたティーンズノベルが岩波書店の刊行物で正当に議論されたことは強調されてよいと思うからだ。
 ただ、アカデミズムの知的ゲームを殊更に批判する斎藤のスタイルは気になった。もちろん、それは「売る」ための戦略なのだろう。でも、知的ゲームは手続きさえ踏めば習得可能であるという点で、やはり開かれていると思う。自分のセンスだけで、批評できたり小説を書いたりできる人の方が限られていると考えるのは書評子だけだろうか。アカデミズム批判が知的ゲームに興じるしかない読者を排除しては本末転倒だろう。(目黒)