2002.01.25日号

       


【絵本】
『ありがとう、フォルカーせんせい』(パトリシア・ポラッコ 香咲弥須子:訳 岩崎書店 1998/2001)
 LD(Learning Disabilities)、学習障害のトリシャ。絵は巧いけど、文字が読めない。話せるし、聞けるけど、字がうまく認識できない。そんな彼女はクラスでいじめられるが、フォルカー先生が赴任してきて・・・。
 『彼の手は語りつぐ』(あすなろ書房)を描いたポラッコの新訳。
 ポラッコ自身がかつて学習障害児であり、この絵本はその体験を描いた物だが、ストーリーとしてはさして目新しくはない。もちろん、この絵本に初めて触れる子どもにとっては新鮮である。だいち、そうであった自身が絵本作家としてここにある作品を描いている事実に、感銘がある。
 この絵本は、LDへの理解を深めるためのものとしてもあり、絵本がそうした役目を果たすことは何度も書いているように問題はない。そして『ありがとう』はそれを果たすだろう。タイトルは「(THANK YOU,MR.FALKER)」をそのままなぞっているわけだが、日本語で「ありがとう、ファルカーせんせい」を聞くと、そこに少し湿度を帯びる気がする。
 ところで、LDはDisabilitiesにバランスを置くべきなのだろうか? それと、Learningも、狭く教育にとられないだろうか? むしろ日常生活のバランスを置いたほうがいいのでは?(ひこ)
日本LD学会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jald/ 
全国LD親の会 http://www.normanet.ne.jp/~zenkokld/

『おおきくなりたい ちびろばくん』(リンデルト・クロムハウト:作 アンネマリー・ファン・ハーリング:絵 野坂悦子:訳 PHP 2000/2001)
 ちびろばくんは、ぼくもうおおきいんだからと、ぶたくんへのおつかいを、ひとりですることに。ほんとうはとても不安なのですが・・・。小さな冒険の始まり。いろんな動物にたすけられ、ぶたくんの元にたどり着き、帰ることに。でもすっかり疲れていて、途中でなんだかホカホカ暖かく柔らかくおおきなものによりそって眠ります。朝起きてみるとそれは・・・・。
 きっとそうだ、いや、違うかも知れない、あ、やっぱりそうだ。と、ちびろばくんと一緒に不安な気持ちを抱えてでも、安心がちゃんと得られる終わり方。このホッとはいいですよ。
 でもちょっと、母子の共依存かな?(ひこ)

『だったらいいな』(かべや ふよう アスラン書房 2001)
 アスラン書房とNPOのKIDSとECCの共同企画「心の絵本」シリーズの一冊。
 ハナは6才、いもうとのサクラはまだ赤ん坊。ハナは「だったらいいな」を様々思います。公園がジャングルだったら、スパーが子ども専用だったら、と。
 ハナの願望が次々と展開していくのはとても痛快。と同時に母親の視線を独り占めできないハナの寂しさもそこには当然あります。痛快に見える風景の中にその寂しさがどう置かれるか。それはサクラの描き方で示されるのでしょうが、その辺り、もう少し詰めて欲しいです。できてないから、最後に、「おかあさんが ハナだけの おかあさんだったら いいな。そしたら、そしたらね。ハナずっといいこで いるのに」といった言葉を書き留めなくてはならなくなっているのです。軽やかな画を描けるかべやだから、画をもっと活かして、クリアして欲しい。(ひこ)

『まてまてマロン』(おおの きょうこ:ぶん わたなべ たかこ:え アスラン書房 2001)
 同じく「心の絵本」シリーズの一冊。
 はるちゃんはねこのマロンが大好きなのですが、マロンはねこなもんだから、はるちゃんの思い通りにはならず・・・。
 という設定ですから、ままならないマロンのエピソードをもう少し展開して欲しい。オチはいいのですから。
 わたなべの画は動きがあっていい。けれど、表情が通り一遍、ベタ。笑顔は笑顔で、泣き顔は泣き顔のまま。そうではなくはるちゃんにしかない笑顔、泣き顔まで引き上げて欲しい。わたなべなら無理な注文ではないと思います。

 ところで、「心の絵本」シリーズはおもしろい試みをしている。
 http://kokoronoehon.com/で、これらの作品を公開しているのだ。もちろんサイズは小さいが、中身は同じ。WEBで作品を確認してから買えるわけです。一つの新しい展開として、これは買い。
 でも、「心の絵本」ってシリーズ名はなんとかならないだろうか・・・・? しかも表紙にも「心の絵本」の大きなマーク(「NPO法人KIDS企画」との表示入り)があって、絵描きのせっかくの表紙絵をぶち壊してしまっている。しかもそのマークの中に、十色の丸で、その作品の内容を表しているそうで、オレンジの丸があったらその絵本は「夢をみる」で、青なら「賢くなる」で、ピンクは「やさしくなる」。従ってオレンジと青とピンクの色があれば、その絵本は、夢を見れて賢くなれてやさしくなれる作品というわけ。
 子どものためのNPOがそんなことしたらだめだよ。これって、子ども(に読み聞かせる大人)への指示になってしまう。どうかご一考を!(ひこ)

『トランプマンの科学マジック エンピツの手品』(トランプマン:作 佐藤まもる:絵 岩崎書店 2001)
 「なるほど! ザ・ワールド」で人気となったトランプマンのマジック種明かし絵本。
 見せ方にさしたる工夫があるわけではありませんが、種明かしはやっぱり読んでいて楽しい。手品の驚きと、それを成立するための意外に簡単なタネ。大げさにいえば「世界の裏と表」。裏を隠さないと、おもしろくなくなるというのは昔の世界観。今はいやでも裏を知ってしまう世界です。
 ま、初歩の手品で、明かせる範囲のタネなんでしょうがね。(ひこ)

『けんかのきもち』(柴田愛子:文 伊藤秀男:絵 ポプラ社 2001)
 たいくんは友達のこうたと大げんかで、負け。
 文も画もそんなくやしいさをかかえたたいくんの気持ちに沿って進んでいきます。
 素材がけんかだからってわけでなく、久々にパワフルな画。
 どこか懐かしく感じて
.しまうのは、この作品の弱点なのか、私の弱点なのか?
 結局男の子の話なのを横に置いておけば、オチはいいですよ。(ひこ)

【創作】
『ルート225』(藤野千夜 理論社 2002)
 「今」のこの国の子どもたちが抱いている、「あいまいな自己」への不安が、とても巧く切り取られています。お姉ちゃんの、すぐに自己分析してしまう仕草は、「考える私」と「考えられる私」の乖離を意識してしまっている「今」の子どものやるせなさです。
 設定が(あいまいな)パラレルワールドなのも、「今」を描くにはそうするしかないと作者が考えているのがよくわかります。
 ここ数年、ゲームも含めて、パラレルワールド設定が多いのはお気づきでしょう。それはハイファンタジーのような疑似別世界を構築できない(しない)時代が選択するもの。パラレルワールドは別世界ではないから・・・、という説明で納得していただけるでしょうか?
 そこに、この作品は、それすら「あいまい」だと付け加えています。だから、主人公のナレーションには「わかっている」「わかってない」が頻出するのです。
 それが、鬱陶しく感じられないのは、作者の腕。
 さべあのまの、ちょっと懐かしいような画が物語とズレていて、それもいい。
 今月の創作イチオシ。(ひこ)

『ムーン・キング』(シヴォーン。パーキンソン:作 乾侑美子:訳 岩崎書店 1998/2001)
 母親の再婚相手から虐待を受け、言葉がでなくなったリッキーは、里親に預けられる。
 が、ここでも、前からここに住んでいるヘレンからのいじめが。
 物語は合間合間にリッキーの内面の言葉を置きながら、リッキーの心の動きを丁寧に追っていく。
「家に帰りたい。帰れない。帰らせてくれない。どっちにしろ、家に帰りたくない。うそだ。本当は帰りたい」。
 ヘレンのいやがらせは相当な物だが、そのヘレンも本当は、みんなの関心がリッキーにいって、自分が忘れられるかと、不安なのだ。
 ついに里親の家から逃走してしまうリッキー。友達になっていたロシーンは心配して街を探す。自分がやったことの結果にうろたえたヘレンとともに。
 微細な心が描かれていて、結構シンクロできます。(ひこ)

『魔女と暮らせば』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ:作 田中薫子:訳 1977/2001)
 クレストマンシー・シリーズ3冊目。以前偕成社から『魔女集会通り26番地』名で出ていた作品の新訳です。これで、あと一冊が出ればクレストマンシーシリーズは全部訳されることとなります。
 パラレルワールドがあります。それぞれ、魔法がある世界だったり、私たちの世界のようにそれを否定している世界もあり、クレストマンシーはそこを自由に行き来できる大魔法使い。どこかで魔法を悪事に使うことがあれば、それを止めるのがクレストマンシーの仕事。
 それぞれの世界には同じ顔を持った人がいるわけですが、クレストマンシーはたった一人。その代わりに9つの命を持っています。
 され、今作。グゥエンドリンとキャットの兄弟が両親を亡くし、親戚であるクレストマンシーの館で暮らすことに。姉のグゥエンドリンは早くから魔法使いの腕を上げ上級魔法まで修得しています。一方の弟キャットはそうした才能はまるでないらしく、いつも姉のいいなりに。クレストマンシーの館にきたからにはそうとうな魔法教育が受けられるものと期待していたグゥエンドリン。が、見事にはずれ、基礎教育。頭に来た彼女は次から次ぎへと、いたずらにしては度を超した魔法を仕掛けるのですが、それでも動じないクレストマンシーに、ますます頭に来るグゥエドリン。そのいたずらは激しくなり、ついに魔法を取り上げてしまいます。が、何故か彼女は魔法を使って別の世界に逃げていく。そうして別の世界にいた彼女とそっくりなジャネットが入れ替わってやってきてしまう。ジャネットのいた世界は私たちのそれらしく、彼女は魔法はつかえません。グゥエドリンが別に世界に行ったことを知ったらクレストマンシーがどんな罰を下すかと恐れたキャットは、ジャネットにグゥエドリンである振りをするように頼む。
 やがて、キャットは、9つの命を持っているとわかる。魔法なんて全く使えないのに・・・。
 相変わらずの快テンポで物語はすすみます。グゥエドリンの造形がなかなかなもの。こんな姉がいたらたまらないなー、でも憎めもしない、でも、やっぱりいやだなー、です。(ひこ)

『ぼくのアスペルガー症候群』(ケネス・ホール 野坂悦子:訳 東京書籍 2001/2001)
 「アスペルガー症候群」とは、「AS というのは、もちろんアスペルガー症候群(Asperger syndrome)のことです。1944年にオーストリアのハンス・アスペルガーという小児科医がとても変わっていて魅力的な子供たちを「自閉的精神病質」として症例報告したものが、比較的最近になって世界的に注目されるようになり、「アスペルガー症候群」として精神医学の教科書にも載るようになりました。
 ふつう自閉症というと、より障害が重く言語能力も損なわれているものを指し、その多くは知的発達障害を伴っているのですが、知的には正常レベルの自閉症のことを「高機能自閉症」といいます。その高機能自閉症の仲間で、より正常に近い能力をもつのがアスペルガー症候群です(専門家の間でこれらが同じものか違うものかという論争があります)。高機能自閉症やアスペルガー症候群のことをまとめて「高機能広汎性発達障害」ともいいます(「広汎性発達障害」というのは自閉症圏の障害の総称です)。児童精神医学の分野で扱われていて、確かに子どものときに学校の集団生活に適応できなくてとても大変なのだけど(いじめの対象になりやすく、学校の先生からも理解されにくい)、おとなになればまったく普通の人になるかといえばそうともいえません。専門分野で能力を発揮するなどして大変な成功をしている人がいる一方で、社会に適応する上でとても困難を持っていることが多いのも現実です。 」(http://www.asahi-net.or.jp/~fe3s-mrkm/as-nanisore.htm)このASと先のLDを分けて考えるべきかは、同じく「子どものときに「自閉傾向」と言われるような場合、アスペルガー症候群のことが多いでしょう。また、最近では、学習障害(LD)ということがよく言われるようになりました。全般的知能が正常レベルなのに、読み、書き、計算など特定の学習能力の困難があるというのがそれなのですが、アスペルガー症候群のような社会性の問題についても使われるようになり混乱を生みだしています(参考:学習障害の診断についての辻井先生のノート)。学習能力に特に問題がないのに、「お前は学習障害だ」なんて言われてたら、その子が正常な自己イメージを獲得していく上でも有害なのではないかと心配です(専門家の間でのLDとアスペルガー症候群の区別についての論争に立ち入るつもりはありませんが)。ともあれ、学校教育の場で辛い思いをするということでは共通しているでしょう。教育関係者に、LDとともにアスペルガー症候群のこともぜひ理解してほしいと願います。 」とあり、どちらにせよ、それは、まず、そのままで受け入れられる社会の実現が必要だろう。
 本書は、ASである10才のケネスが書き記した(口述筆記も含む)ASとは何かの関する文が収められている。彼の場合、読者・読解能力が高度であるけれど、手で文字を書くのが苦手。頭で考えていることの方がずっと速いのに、それを何故、スピードの遅い手書きしなければならないかが、納得できない。だからパソコンわ愛用している。また食物への嗜好が極端。チーズ一つでもおりし具合が違うをもうだめ。
といった具合で学校生活にはとけ込めず、自宅学習をしている。他の子と同じではないことがケネスを苦しめていたが、自分がASであると診断された8才の時から生活が変わる。「ぼくは前よりずっと幸せだ。(略)自分のことが前よりもっとわかっているから。」。15
 二つ以上のことに集中できない、がまんができにくいなど、彼は自身の症状をユーモアたっぷりに描いている。北アイルランドにすむケネスはもちろんアイルランド問題でも心を痛めている。
 彼は自分の才能と課題を知っている。「ぼくはぼくでいよう固く決心していて、だれにもぼくを変えさせない。自分の気持ちはわかっているし、ぼくのやり方で、ぼくのことをするのがすきなんだ。たとえば、だれかがぼくをASじゃない子どもに変えようとしたら、ほんとうにいやだ」。72
 そのとおり。
 ASへの理解というだけでなく、もっとひろく他者との関係を考えるために、とてもいい本。(ひこ)

『ベビーシッターはアヒル!?』(岡田貴久子 ポプラ社 2001)
 高校一年の「ぼく」は中学の教師をしている姉が冬休みにアメリカへ英語研修に出かける。で、赤ん坊を「ぼく」が面倒を見るはめに。両親が亡くなったため、ワンルームのマンション生活の「ぼく」はバイトもしないといけないのに、どーすればいい?
 ここから始まる物語はユーモア・現代家族(親が居ない家庭という)物語かと思ったら、なんとベビーシッター・アヒル型ロボットが登場してきて、近未来SFのような様相を呈してきます。
 が、読み進むとこれがまたそうでもなく、「ぼく」とアヒル型ロボットの心の交流にバランスは置かれます。これがまたいいんですね。
 このロボット、ハナさんて名前(もいいなー)ですが、最後にこう言います。
「子守マニュアルは、あたしの頭の中に製造当初から組み込まれております。でもそれは、赤んぼうをマニュアル人間にしないためのものなんです」
 なるほど。
 ね、「今」の物語でしょ。(ひこ)

『サムライ・レンズマン』(古橋秀之:作 岩原裕二:イラスト 徳間書店 2001)
 デュアル文庫。「ブラックロッド」シリーズの古橋の新シリーズ。
慣性中立化装置により、光速の数百万倍の宇宙飛行が可能になり、銀河の大開拓時代が始まる。同時に、星系間にまたがる超広域犯罪が多発することに。そして誕生したのが銀河全域を活動範囲とする銀河パトロールである。銀河パトロールにとっての最大の問題は、犯罪者の見分けがつかないことだった。形態ひいては言語・文化が異なるが故に、現行犯逮捕以外に、誰が犯罪者であるのかそもそも判別することが不可能だからだ。この難題を解決したのが惑星アリシアのレンズであった。このレンズは所有者の生命力に反応する擬似生命体で、所有者以外の生命体が触れると激しい拒絶反応を引き起こすため、所有者以外の手に渡ることがない(アリシア人にしか製造できず、超生命体のアリシア人は犯罪者ならびにその予備軍にレンズを渡すことはしないので)。また、このレンズは着用者に精神感応能力を与えるため、他種族の言語を識らなくても、犯罪者の「意識」を読み取ることができる翻訳機の機能を有している。アリシア人に認められた心身ともに優れた資質の持ち主であるレンズマンは、そうであるが故に、銀河パトロール員なのである。レンズマンの1人であるシン・クザクは、アルタイル系の盲目のサムライで、アルタイル柔術の使い手である。撲滅したはずの宇宙海賊ボスコーンの復活を阻止すべく、サムライ・レンズマンが武者走る。
SF好きの読者は、タイトルからスミスの「レンズマン」シリーズを思い浮かべた方もいるかも知れない。実際、その通りで、本書は「レンズマン」シリーズの外伝として企図されたらしい。しかし、シリーズ未読の読者でも十分に楽しめる完成度の高さなので(誤植が多いのが気になったけど)、安心してお薦めできます。とりわけ、アメリカ人が思い浮かべるような(日本人の感覚からすると)デフォルメされたサムライを主役に据えたところに作者のセンスが感じられる。「ドウモ」と床に両拳を突いて挨拶し、「バンザイ!」と敵中を武者走る「サムライ・ロード」は一読の価値あり。(目黒)

『ガンパレード・マーチ 5121小隊の日常』(榊涼介:作 きむらじゅんこ:イラスト メディアワークス 2001)
 電撃文庫。プレイステーション用ソフト『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(SCE)の世界観をベースにしたオリジナル小説。
 1945年、「黒い月」とともに「幻獣」が出現、第二次世界大戦は終結を余儀なくされる。98年、幻獣に記録的な敗北を喫した日本政府は、翌年に14歳から17歳までの少年少女兵を強制徴集し、本州上陸を阻止するべく熊本拠点に戦力を集中させる。5121小隊は、熊本に新規編成された少年少女兵による試作実験機小隊のことで、3機の人型戦車「士魂号」を主力としている。士魂号は、「戦車」からイメージされる機械ではなく、生体兵器である。ゆえに、操縦およびメンテナンスに関してデリケートな扱いが要求されるだけに厄介な代物である訳だが、その潜在能力はきわめて高い。副題にあるように、幻獣との戦いだけでなく、5121小隊の「日常」(彼らにとっては戦闘も日常に含まれるのだろうけど)が描かれている。
 広崎悠意『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(電撃文庫)がゲームのメインストーリを再現しているのに対して、本書はサイドストーリをメインにガンパレの世界観を膨らませており、ゲームの自由度の高さが巧く再現されてます。ゲーム版ガンパレは情報量が多いので、小説というメディアには不向きな作品なのだけど、ゲームをプレイしていない読者でも十分楽しめる出来かと。ゲーム版のガンパレをやり込んだとしたら、小説何冊分くらい読んだことになるのでしょう?(目黒)

『最終兵器彼女』全7巻(高橋しん 小学館 2000〜2002)
 ビッグコミックス。「青年マンガ」かな。
 ちせはシュウの「彼女」。シュウ曰く、「ちせはかわいい。だが、のろい。チビだし気が弱い。おまけにドジっ子で成績も中の下。世界史だけが得意。口癖は「ごめんなさい」座右の銘は「強くなりたい」」。シュウが言うように、ちせはほのぼのとした女子高生。偶然、空襲の現場に居合わせたために、生体兵器として生きることを余儀なくされることに。兵器として成長を遂げる一方、シュウへの想いを募らせ、そのジレンマに思い悩む。シュウは最終兵器であるちせに対する怖れから、自らの想いに自信が持てずにいる。そんな2人のラブストーリ。
タイトルの「彼女」から想像される通り、基本的にはシュウの視点から語られる。だからといって、男の子に都合のよい女の子の描かれ方がなされているかと言えば、そうでもない。たしかに、ちせは男の子にとってツボを押さえたキャラなのだけど、男の子の欲望を満たすためではなく、自分の欲望を生きているからだ。このようにラブストーリとしても秀逸なのだけど、ほのぼの系の女の子が最終兵器であるという設定こそがヒットの要因であったと思う。本来であれば、「ほのぼの系の女の子」と「リアルな戦闘」は両立しない関係にあるはずなのだが、本作は両者を組み合わせることで表現レヴェルにおいて新たなイメージを提出しているからである。この組合せは、富沢ひとし『エイリアン9』(秋田書店)に顕著に指摘できる。いずれにせよ、現代風の設定(ほのぼの系の女の子+最終兵器)と古典的な主題(ラブストーリ)が見事に融合した傑作。(目黒)

【評論】
『子どもの本の歴史』(ピーター・ハント編 さくまゆみこ 福本友美子 こだまともこ:訳 柏書房 1995/2001)
近年児童文学関係の専門書が増加し、大手書店の文学研究書コーナーでは、児童文学の作家論や絵本論、辞典、ブックガイドなどが一般文学の専門書と肩を並べている。だが意外なようだが、本格的な通史はほとんどなかった。その間隙を埋める絶好の本となるのが、今回翻訳出版された『子どもの本の歴史』である。原書はハントを含めた十五人の児童文学研究者が執筆し、一九九五年に出版されている。
全十二章のうち、最初の六章が児童文学の黎明期から一八九〇年まで、続く五章がそこから現在までの英米児童文学発展の記述に充てられ、最終章がオーストラリア、カナダ、ニュージーランド史となっている。それより大きな特徴は、写真とイラストがふんだんに挿入されていることだ。コミックや雑誌はもちろんのこと、子どもの本がイラスト抜きには語れないことを考えれば、これは理想的な形といえる。
外国文学を学ぶ者にとって、文学史は通過しなければならない関門である。児童文学史を学ぶということは、子どもや子どもの本にたいする大人の認識がいつ・どう変化し、どのように本に反映されたかを検証することでもある。評者もこの分野の人間として、ひととおりの知識はあるつもりだったが、さまざまな新発見があり、なんといってもイラストつきでおこなう旅路は楽しめた。
一般に文学史は慎重な表現が多くなりがちだが、本書では必ずしもそうではない。
そのなかで今回筆者が最も注目したのは、帝国主義や大戦にかかわる現在に立脚した鮮明な見解だった。たとえばキプリングが学校小説で物議をかもしたのは、「イギリスの少年教育が本当は大英帝国統治者の養成を主な目標にしているのなら、それに最もふさわしいのは…体制をくつがえす生徒なのだ」と述べたためだという。また、第一次大戦では雑誌やコミックが戦争をこぞって取りあげ、「女の子には男性の大義を支える役目が」与えられ、男の子には英雄がはなばなしく活躍する荒っぽい物語が提供されたが、「今読むといかにも安易である」、という。こうしたフェミニズムやポストコロニアル批評を取り入れた検証はどれも刺激的である。なお一九七〇年以降の現代史はまだ類書が少なく、評価が気になる部分だが、多様性に重点が置かれて幅広く取りあげている分、個々の作家・作品の記述ではやや物足りなさも感じた。
原書と同じ横組みで四八〇頁の訳書は一、四キロを越えるボリュームある本だが、日本語としてとても読みやすかった。また誤植(気づいたのは二個所)および誤訳も少なく(ウェザレルの『エレン物語』を少女恋愛小説と形容したのは明らかなミスだ)、訳者の努力のあとがしのばれる。邦訳データつきの巻末のタイトル索引も行き届いている。欲をいえば切りがないが、事項索引やイラストとの参照表示があればと思った。(西村)
週刊読書人掲載