No.50  2002.02.25日号

       

【絵本】
『あかちゃんのゆりかご』(レベッカ・ボンド さくまゆみこ:訳 偕成社 1999/2002)
 もうすぐ赤ん坊が生まれる。
 一つのゆりかごを、おとうさんがつくり、おじいちゃんがペンキを塗り、おばあちゃんがベッドカバーを縫い・・。
 ここにあるのは新しい命を「出迎える」家族の愛おしさ。赤ん坊へのそれはもちろんのこと、家族それぞれへの愛おしさで一杯になります。
 画は、暖かく、描かれる者たちの輪郭が中心へ、中心へ、つまり、ゆりかごへを向かっていて、見ている私たちもまた、ゆりかごの中へ迎え入れる新しい命を心待ちにすることとなる。(ひこ)

『ゆきとトナカイのうた』(ボディル・ハグブリンク 山内清子 ポプラ社 1982/2001)
 絶版復刻シリーズの一冊。以前は福武書店より1990年に出版。
 トナカイと暮らすラップランド、サーメ族の日々を追った絵本。
 と書けば、そんだけみたいですが、その「そんだけ」を克明かつ興味深く描くのは難しい。この作品はそこをクリアしている。つまり、彼らのことを知らない子どもたち・私たちも、ここに描かれている日常に惹かれてしまうのね。
 楽しいよ。(ひこ)

『もりになったライオン』(松原裕子 ポプラ社 2002)
 草原に一頭のライオン。背中から草が生えています。いつも寝てばかりだから。ライオン仲間にも嫌われ・・・。
 見開きから溢れてしまう力強い画、散乱する色、収束するのではなく大きく広がっていくストーリー。
 新しい才能がここに生まれました。
 とても嬉しい。
 ただ、フォントがベタ、文字のデザイン、大きさ、置き方などこの作品にもっとあったやり方があるはず。画に完全に負けています。(ひこ)

『ヤイロチョウ(八色鳥)』(中村滝男 ポプラ社 2001)
 高知へ飛来してくるヤイロチョウの観察エッセィ。こんなに美しい鳥が、この国に飛来しているなんてしりませんでした。詳しい生態もまだまだよくわかっていないようなのですが、この鳥の惚れて高知の大学に行き、オマハそこに暮らす中村の文は、愛情がにじみ出ていて、楽しくなる。(ひこ)

【創作】
『モスワラーの森』(ブライアン・ジェイクス 西郷容子:訳 徳間書店 1988/2001)
 「レッドウォール伝説」シリーズ第2作。時間的には続きではなく、前作で主人公のサイアスが手に入れた勇者の剣の真の持ち主であった、マーティンの物語。つまり前作では伝説となっていた時代に移動します。独立した物語として読めますし、前作を読んだ人には、その背景が明らかになるし、今作から読んでいけば、前作を読むときその背景を知っているので、よりいっそう親しみを増すという、おいしいことになってます。
 モスワラーの森の動物たちは、コター砦を占拠するヤマネコに支配されています。で、その王が娘ツァーミナによって殺害され、彼女は弟も謀略で地下牢に閉じこめ、女王として、君臨する。トガリネズミやリスやモグラたちは、その支配を逃れ森の奥深く、アナグマのベラの元に避難し、ツァーミナ打倒と目指す。そのころ勇者マーティンと名乗るネズミが現れ、彼はベラからの依頼で、ベラの父親である闘士ボアを探すたびにでる。果たしてボアを探し出せるのか? 間に合うのか?
 物語は、マーティンたち探索組と、ベラたち、居残って女王と戦う組、そしてもう一つツァーミナの側と目まぐるしく場面転換しながら進んでいきます。もう少しゆっくり転換してよ、と思う方にはちとシンドイかな。でも、勇者マーティンの冒険だけで物語を進めることもできるのに、三方を描いていこうとする作者のこだわりはなかなかなもの。これは、一人の主人公の活躍する冒険物語が成立しがたい時代の反映。
 ツァーミナの部下がみんなオバカなことは物足らないです。強敵って最近のファンタジーには本当に出てきませんね。完全なる悪はもう、物語にリアリティを与えないのでしょう。だから、現実世界ではどこぞの大統領が、邪悪な国との正義の戦いなんて言えるのですね。現実の方が物語みたい。(ひこ)

『おまもり』(リラ・パール&マリオン・ブルーメンタール・ラザン 野坂悦子:訳 あすなろ書房 1996/2002)
 ホロコースト体験を描いた作品。
 当然のことながら、年々証言者が減っていくわけですから、多くの体験が語られ、残されることは、大事です。
 父親をチフスで亡くしはしましたが、幸い母親、兄妹は生き残り、アメリカに移住できました。
 この書物は、娘マリオンの体験を、でも子どもだったので、わからなかった部分は母親と兄の証言と資料で補って成立しています。
 彼らは、多少遅ればせながら、ドイツを逃れ、アメリカへ移住する許可も得ていたのに、それがかなわず、逃げたオランダから引き戻され、結局ソビエト軍に解放されるまで、収容所にいました。きっとこんな家族はたくさんいたことでしょう。アンネの日記は今でも私たちにせまりますが、この一家の体験は、アンネの極限と違うだけに、身近なものとして受け止めることができます。訳者のあとがきによれば、マリオンはアメリカに向かう船の中で、オランダ語訳の『アンネの日記』を読んでそうです。このエピソードもまた、『おまもり』を身近なものとするでしょう。
 表紙もいいですよ。暗いのではなく、とても静かで。(ひこ)

『ローワンと伝説の水晶』(エミリー・ロッダ さくまゆみこ:訳 佐竹美保:絵 あすなろ書房 1996/2002)
 貴種ではなく、フツーの少年ローワンを主人公にした本シリーズももう3作目。地味と言えば地味なシリーズなんですが、謎解きの部分は巻を追うに従って磨きがかかってきましたし、成長はしても決してヒーローにはならないローワンの姿はますます光ってきました(佐竹さんの画は、あちこち露出しすぎで、さすがにあきてきましたが(^^;)。
 今回は、ローワンの母親が実は、ある国を司る水晶の司を3つの民族の中から選ぶ役目を担っていることが判明し、それはローワンの家系が代々受け継いでいたことなのですが、なんでこれまでローワンが知らなかったかというと、もう、そんなことを知ったら、ローワンはおびえるとみんなが思っていたからで、つまりはローワンはそんな子なんであります。でも、この選任者の仕事は、司に選ばれたい各氏族から狙われる危険なもので、現地にきたとたん、ローワンの母親は誰かに毒を盛られ、死を間近にします。となれば、代わりの選任者は、ローワンしかいない。水晶は輝きを失いつつあり、死にかけている司は彼に、次の司を選べと迫るのですが、ローワンは、そんなことより、まず母親の毒消しを優先します。仕方なく、各民族から選ばれた候補者もローワンと一緒に、毒消しの材料を探すことに。でも、水晶の光は、もう時間がなく、消えかけていて・・・。
 正義を大上段に振りかざさないこのシリーズの核心は今作も健在。オチまでのどんでん返しは読んでのお楽しみです。
 設定が設定(貴種ではなく、フツーの少年ローワンを主人公にした)ですから、1作でワンエピソードしか描けないので、その辺りに不満を抱く人も多いでしょうが、それがなにより、この物語の良さなのです。(ひこ)

『琥珀の望遠鏡(ライラ・シリーズ3)』(フィリップ・プルマン:作 大久保寛:訳 新潮社 2001/2002)
 物語展開の巧さでは超一級であるプルマンのライラ・シリーズ完結編。パラレルワールド、ダイモンをもつ世界のライラと、私たちの世界のウィルは、何をする運命になるのか。ライラが手に入れた真理計は総て問いを読み解き、ウィが扱える神秘の短剣は他の世界への窓を切り開くことができる。そして今作で科学者メアリーが作り出す琥珀の望遠鏡は何を映し出すのか。ライラの父と母のどちらが正義なのか? 教会は何をたくらんでいるのか? 天使たちはどこから来るのか。そうして死語の世界にライラとウィルは何を観たのか? クマの王イオレクはライラたちを救えるのか? そしてライラが世界を変えてしまうとの預言の意味は?
 いやいやもう、講談のノリです。
 止まることを許さない謎とその解明。680ページが一気。ただし、これ一冊でなく、一巻目から読まないと訳がわからないですよ。ハリーならどこから読んでも割とOKですが。
 訳者あとがきによれば「カソリック・ヘラルド」なる宗教紙が「焼き捨てるに値する。ハリー・ポッターの百万倍も邪悪だ」と評されたそうです。
 何で?
 読めばわかります。(hico)

『導きの星1 目覚めの大地』(小川一水:作 村田蓮爾:イラスト 角川春樹事務所 2002)
 ヌーヴェルSFシリーズ。
 辻本司は、第611号外文明オセアノを担当する外文明観察官。19歳の若者だ。「外文明観察官」は不接触を原則に外文明を保護・育成する役職で、減刻睡眠により世紀単位の任務を遂行する。減刻睡眠中は、合目的人工人格(パーパソイド)が任務を処理。有事の際に観察官が起こされ、外文明に介入することになる。司には、人工体を備えた3体の目的人格が与えられている。経済担当のアルミティ、生存担当のバーニー、科学担当のコレクタである(いずれも女性体)。基礎調査のため、パーパソイドとともにオセアノに降り立った司は、アクシデントからオセアノの知的生命体・黒皮族(スワリス)と接触してしまう。この接触がスワリスの進化を促すことに…。
 1巻は、狩猟採集時代から金属器勃興時代を経て貿易航海時代まで。文明の進歩の仕方が人類のそれに酷似しているのは、ご都合主義ではなく、設定上の理由があるみたい。「観察官」というポジションが人類至上主義的で敬遠する方もいるかも知れない。でも、この役柄は、文明をデザインできる力=テクノロジーを有していながら、観察者であるがゆえに当事者になれないジレンマを描き出すための装置と理解すべき(もちろん、世紀単位のスケールを扱うための設定でもある訳ですが)。続編が楽しみな佳作。(目黒)

『明日の夜明け』(時無ゆたか:作 石田あきら:イラスト 角川書店 2001)
 スニーカー文庫。第6回スニーカー大賞優秀賞受賞作。
 早宮功は夜見月高校の2年生。地震で陸の孤島と化した高校に閉じこめられる。やがて、担任の尾造と先輩の松尾の死体が発見される。しかも、その死体は緑色に変色していた。密室状態の学園内には功を含めて、男3人女4人の計7名しかいないはずだ。疑心暗鬼のなか、7名は学園で一夜を遣り過ごそうとするのだが…。
 ホラーとミステリを足して2で割った感じかな。ホラーとしては怖くないし、ミステリとしては謎解きがアンフェアだし。つまるところがジャンル小説としては中途半端。しかし、学園モノとして読むなら評価は一変する(ホラーとミステリの要素は演出として効果的)。ネタばれになるので詳しくは言えないけど、喪失することで得られたノスタルジー(牧歌的な学園生活)が「終わらない日常」(悪夢)によって裏切られる図式は(エヴァンゲリオンなど)、最近の学園モノの傾向なのかも。いずれにせよ、「みんなの中に自分がいて、みんなと一緒に生きている。そんな平凡な当たり前の日常」がまさしく命懸けで求められる時代なのは確か。(目黒)

『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦:作 安倍吉哉:イラスト 角川書店 2001)
 第五回角川学園小説大賞特別賞受賞作。
 山本陽介は高校2年生。学校の帰り道、高1の女の子・雪崎絵理に出会う。かなり異常な状況下で。絵理が木刀を片手にセーラー服姿で戦っている。しかも、その相手は、チェーンソー男。不死身なので、撃退する方法は急所に決定打を与える以外にない。そうすると、不死身であるにもかかわらず、撤退してくれる。絵理を助けようとする陽介だが、絵理は十分に強く、命まで助けられる。絵理によれば、チェーンソー男は、彼女の敵で、諸悪の根源ということらしい。「終わらない日常」を終わらせるために、陽介は絵理の迷惑もかえりみず、チェーンソー男と戦うことに。
 風変わりな青春小説。陽介は、人生が「終わらない日常」の連続であることに気がついている。だから積極的に何かをする気になれない。このタイプの悩みはさして目新しいものではないが(かといって切実なものに変わりはないのだけど)、アレンジの仕方が面白い。「終わらない日常」を生き延びるための道具立てが「美少女戦士」に「チェーンソー男」だからだ。しかも、陽介はサポート役で、戦闘は絵理が担当する訳だから、「ネガティブ」にしか関われていない。一昔前なら(二昔前?)、バイクで暴走するなんて方法もそれなりに有効であったのだろうけど、今では説得力がないだろう。周到なことに、この作者は、バイクで自殺した陽介の親友を登場させている。「終わらない日常」を終わらせるための手段の変容がここに示されているのではないか。ちなみに、このテーマは「ひきこもり」を描いた2作目『NHKにようこそ!』(角川書店 2002)に引き継がれているので、本書が気に入ったのであればこちらもどうぞ。(目黒)

『ジェイミーが消えた庭家出の日』(キース・グレイ:作 野沢佳織:訳 1996/2002)
 『家出の日』のキース・グレイのデビュー作。
 夜中、何軒も連なる住宅の裏庭を通り抜ける遊びをするやつはクリーパーと呼ばれている。「ぼく」はクラスではちょっと浮いた存在だったけど、転校生のジェイミーと気があってからコンビを組む。最強のクリーパーの誕生。
 そしてもっとも難しいコースにチャレンジするのだが・・。
 リズム感よく読ませます。この作家、子どもの時に『機関銃要塞』なんか読んで作家目指したんだって。そういう流れがまだあるのね。すごい。
 切なさと哀しみと怒りと誇りがまっすぐに描かれているのに、読んでいて気恥ずかしくならないのは、たいしたもの。
 楽しみな作家の登場。(hico)

【評論】
『多重化するリアル 心と社会の解離論』(香山リカ 廣済堂出版 2002)
 精神科医である香山の評論集。
 香山は現代社会を考える指標として解離性障害に着目する。「解離性障害」とは、離人症や解離性同一性障害(多重人格)など一群の疾患を指す。香山の離人症の説明によれば、「私が私だということ、私がいるのは現実の世界だということにリアリティが感じられなくなること」となる。<自分を規定する自分>・<現実を規定する自分>の自明性が崩壊とまではいかないまでも、その紐帯が緩くなっているのが「解離」だと言える。加えて、香山は現実そのものの解離(<自分を規定する現実>)を指摘している。ただし、香山がより関心を寄せているのは、一般にトラウマが原因とされる解離ではなく、トラウマに起因しない解離である点には注意が要される。香山自らが仮説を提示しているので、長いが引用しておこう。
「私たちは、自己の統合や連続性を失い、自分自身から解離し、あるいは解離した人格の一部が発達して多重人格化する解離性障害の増加という問題について考えてきた。そして、複雑化・多様化する社会の中で、インターネットなどのバーチャル空間やメディア空間の肥大という事態にさらされ、「自分が自分であること」「これが現実であること」に生き生きとした実感を感じられなくなるという事態を、「障害」「病理」と呼ぶことは今や間違いで、それは現代の日本人にとっての自己やリアリティに関する認識の新しいスタンダードになりつつあるのではないか、という仮設を提示した」。
 この仮説には概ね賛成なのだが、アメリカの同時多発テロ事件を事例に、解離の感覚から抜け出す方法として「強い当事者意識」を持つことだという結論を導きだすのは安易だ(その陥穽は指摘しているけれど)。あのテロのインパクトを否定するつもりはないが、テロについて議論されるべきは政治的解決の方法と国際法から見たアメリカの行為の是非であるはずなのだ。にもかかわらず、テロをリアリティの問題(映画のような現実)として議論できる危機意識の無さというか民度の低さが日本の現実であった。つまり、その時点で当事者意識が欠落していたことは認めざるを得ないはずだし、そもそも、あのテロの「当事者」になるとはどういうことなのか判然としない。テロを契機に語られたのは、「現実」のインパクトだけであって、「現実」そのものが語られることが少なかった印象を抱いたのは書評子だけではないはずだ。極端に言えば、危機意識(当事者意識)の雰囲気が蔓延したに過ぎない。だいいち、「当事者意識」の希薄化の結果、解離が現象化したのだから、そのような解離した人たちに「当事者意識」を要求するのは本末転倒だろう。香山の仮説はそれこそスタンダードになって欲しいだけに、その処方箋がいただけないのは残念だ。(目黒)